
16.上野彦馬、下岡蓮杖、田本研造│父と呼ばれた日本人
🔵内戦から文明開化に至る激動の時代を記録した日本写真界の三大先駆者

長崎県│静岡県│三重県
1874(明治7)年12月9日、金星が地球と太陽の間を通過する天文現象、いわゆる金星の日面通過を観測するため欧米から観測隊が来日し、撮影に成功しました。その20年以上も前に「日本三大写真発祥地」の長崎、横浜、箱館(函館)で撮影活動を開始した「写真の父」が3人います。
江戸時代の長崎は海外との窓口でした。世界最初の実用的写真技法とされるダゲレオタイプ(銀板写真)の写真機も長崎に届き、蘭学者の上野俊之丞から薩摩藩主・島津斉彬に贈呈されます。1857(安政4)年に薩摩藩士の市来四郎らが撮影した斉彬の写真は、日本人が撮影した現存する最古の写真といわれています。
俊之丞の次男の上野彦馬は、広瀬淡窓の私塾咸宜園(かんぎえん)で漢学を、海軍伝習所の医師ポンペに化学などを学びます。ところが蘭学書でポトガラヒーの文字と珍しい絵図面を見て写真に夢中になり進路を変更。独学の末、撮影に成功します。人物の被写体第1号はのちの軍医総監・松本良順。最先端の知識を備えた良順でも、撮影で「魂を抜かれる」と誤解していましたから、一般の人たちは推して知るべしです。
1862(文久2)年、上野は長崎に写真館を開業。現存する坂本龍馬の写真は上野が撮影したものです。維新後は来日したアメリカ観測隊に加わり金星の日面通過の撮影に成功。西南戦争では日本初の従軍カメラマンとして貴重な記録写真を残し、「写真の父」と呼ばれました。
2人目は、上野と同時期に横浜で初の営業写真館を開設した下岡蓮杖です。13歳で狩野派の絵師・狩野董川に師事しますが、銀板写真に驚嘆して絵師への道をあっさり捨てます。写真に使う薬品や技術の研究を重ねて撮影に成功し、不朽の功績を残した下岡は石版画印刷、乗合馬車、牛乳販売、コーヒー店などの新事業を次々と興したことから、ベンチャー・ビジネスの魁としても評価されています。
3人目は、医学の道を断念して写真の世界に飛び込んだ田本研造です。紀伊国牟婁郡神川村(現在の三重県熊野市)出身の田本は、長崎で医学を学び箱館に渡り、右足を切断する悲運に見舞われます。ところが、切断手術をしたロシア人医師から写真術を伝授され後世に名を残すことになるのですから、縁とは不思議なものです。
田本の作品では箱館戦争のときの洋装姿の土方歳三の写真が有名ですが、その功績は郷里で次のように記されています。
「その厖大なる作品は迫真の記録性に優れ、隻脚写真師の声名これより大いに挙がる。風景と人物主流の、写真史初期秀抜のドキュメントは、高く評価され、下岡蓮杖、上野彦馬と並びわが国写真界の先駆者と称せらる」
外国製の義足で道内を駆け巡り、なかでも石狩地方の開拓の様子を撮影した158枚は、ドキュメンタリー写真の草分けとして高く評価されています。田本が「ドキュメンタリー写真の父」と称されるゆえんです。
1869(明治2)年、箱館に北海道初の写真館を開いた田本は、上野、下岡とともに「日本写真界の三大先駆者」としてその名をとどめています。
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