
滋賀県の偉人──中江藤樹:心に従い、世を正す「近江聖人」の生涯と思想
儒者は徳をもって語る──「日本陽明学の祖」中江藤樹の魅力

滋賀県│(愛媛県)

当サイトの【郷土の偉人・紹介】の定義で言うと、中江藤樹先生は【滋賀県】になるのですが、2号の出身地は愛媛県大洲市。2号が通った小学校では中江藤樹先生の功績を伝えられて教育されました。
{知行合一}知識と行動は一体であり、真の理解のためには行動が伴わなければならない
ただ、藤樹先生は10歳から27歳まで生活していた大洲藩を脱藩して出ていってしまったのですが、大洲からすれば、藤樹先生は伝説の偉人なのです。中江藤樹先生=愛媛県としても、おまけで紹介させてください😅
「真の学者とは、学識の豊かさでなく、徳の深さである」。これは“近江聖人”と称された中江藤樹(なかえ・とうじゅ)の根本思想である。江戸初期、日本人の心に最も深く「徳」と「実践」の哲学を刻みつけた人物──それが藤樹である。
今、倫理の退廃が叫ばれる現代において、藤樹の教えが静かに再評価されている。彼の思想には、教育者、政治家、企業人、そして私たち一般市民に至るまで、“人間の本分とは何か”を問う深いヒントがある。
本稿では、日本陽明学の祖・中江藤樹の生涯と思想、その現代的意義を紐解きながら、彼の志と行動がいかに私たちに語りかけてくるのかを探っていく。
幼き頃からの志──農家の子から「近江聖人」へ
1608年(慶長13年)、現在の滋賀県高島市安曇川町上小川にて中江吉次の長男として誕生。名は原(げん)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門。のちに「藤樹」と呼ばれるが、これは彼の屋敷にあった老藤の木にちなみ、門弟がつけた尊称である。
9歳で祖父・中江吉長(加藤貞泰の家臣)の養子となり、鳥取の米子へ。そして10歳で藩主の転封により愛媛県大洲へと移る。祖父亡き後は大洲藩士として武士の道を歩むが、その裏には常に「徳をもって世を正す」志が燃えていた。
陽明学との出会い──朱子学からの決別
はじめは『四書大全』などに傾倒し、朱子学を真剣に学んだ。しかし30代を迎えた頃、彼はある大きな壁にぶつかる。いかに知識を蓄えても、自らの心は満たされない。学問が人を変えない現実──この疑念に打ちのめされていた藤樹は、ある日『王陽明全書』に出会う。
陽明学は「致良知」──つまり、人間がもともと持つ善なる心(良知)を自覚し、それに従って行動せよと説く。藤樹はその教えに触れた瞬間、衝撃と歓喜のうちに目覚めた。「これが、私が求めてきた学問だ」と彼は語っている。
この出会いにより、藤樹は“知識から実践へ”と大きく舵を切る。
孝と独立──脱藩と郷里帰還の覚悟
27歳のとき、母の看病と自身の健康を理由に大洲藩に辞職願を出すが許されず、ついには脱藩を決意。法を犯してでも「孝」を貫こうとする姿勢は、まさに彼の教えの原点である。
帰郷後、彼は私塾を開き、一般の村人から藩士の子弟まで、分け隔てなく教育を施した。場所は「藤樹書院」(滋賀県高島市安曇川町上小川)。そこでは「五事を正す」(顔・言葉・目つき・耳の傾け方・思いやり)という道徳実践が日々説かれた。
教育者としての藤樹──熊沢蕃山・泉仲愛らを育てた情熱
藤樹の教えは、後の日本を動かす若者たちに受け継がれた。代表的な門弟として、幕政改革に関わる熊沢蕃山、その実弟で岡山藩の教育行政を担った泉仲愛などがいる。
また、学問に不器用だった大野了佐という男に医学を一から教え、立派な医者に育て上げたエピソードも有名だ。人に応じて教えを与える、まさに「学びの人格者」としての姿勢がそこにあった。
道を貫いた生涯──わずか41年の「心の実践者」
持病の喘息に苦しみながらも、藤樹は41歳まで全身全霊で学問と教育に命を注いだ。死の前年、弟子に宛てた手紙にはこう記されている:
「この陽明学に出会わなければ、私の一生は空しく終わっていた。これぞ我が人生最大の幸福である」
彼の思想は書物や講義を超え、人々の行動に生きていた。たとえば飛脚が落とした200両を拾った馬子が、報酬を拒否して「藤樹先生の教えがそうさせた」と語った実話は、藤樹の“無名の徳教”がいかに村人に浸透していたかを物語る。
中江藤樹を偲ぶ──ゆかりの地と文化遺産
藤樹書院・良知館(滋賀県高島市安曇川町上小川225-1):毎年9月25日には儒式による藤樹祭が行われる。
藤樹神社・墓所(同市内):神として祀られた“教育者”藤樹の象徴。
☑ 中江藤樹像(JR安曇川駅・大洲市大洲城など全国各地)
☑ 至徳堂(愛媛県立大洲高校):藤樹の旧宅が現存。
☑ 中江藤樹記念館(滋賀県高島市安曇川町上小川69)
📺️ TV・書籍でたどる藤樹の足跡
TV:NHK『その時歴史が動いた』など、近江聖人としての藤樹が度々紹介。
📖 書籍


中江藤樹『翁問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ15)

●日本陽明学の祖であり、「聖人」と称された唯一の日本人・中江藤樹。後に日本陽明学は、西郷隆盛や吉田松陰など、幕末の志士にも大きな影響を与えたとも言われています。
●藤樹の代表的著作として高評を得ながらも、現代語訳がほとんど存在しなかった『翁問答』が「いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ」第15弾として蘇りました。

1974年9月に発売された名作
現代への問い──「致良知」とは、心を生きること
藤樹が追い求めた「良知」は、“他人の目”ではなく“自らの心”に従う勇気だ。
社会が制度や形式に傾き、個の感性が軽んじられがちな時代において、「五事を正す」という教えは、単なるマナーや道徳の域を超えた“人としてのあり方”そのものである。
「顔を和らげ、言葉に思いやりをこめ、まなざしを優しく、話に耳を傾け、他者を思う」──藤樹の実践倫理は、AI時代を迎えた現代こそ求められている。
結び──“無名の実践”が社会を変える
中江藤樹が世に問うたのは、「知る」ことではなく「行う」ことの価値である。徳を積み、心を磨き、日々の営みをもって世を照らす──それが彼の教えだった。
今、私たちの暮らしの中で、藤樹の「致良知」はどう活かされているだろうか。目先の損得ではなく、自らの良心と対話すること。誰にでもできる、しかし誰もが忘れがちな“誠の学び”が、ここにある。
「良知を明らかにし、身を修め、世を治める」──その原点は、私たち一人ひとりの心にある。
(参考:『中江藤樹』渡辺武、『日本人の心を育てた陽明学』致知出版社、『代表的日本人』内村鑑三、藤樹記念館公式サイト)
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