
北海道の「父」たち part.1

北海道

「北海道」は、日本の北海道地方に位置する道で、47都道府県の中で唯一の「道」。一昔前では、「蝦夷地 (えぞち)」と呼ばれており、中央政府にとって、アイヌ民族や擦文文化の「異民族の住む地」という扱いでした。江戸時代末期から明治時代にかけて、蝦夷地を日本の領土として明確にするため動きや働きかけがあり、1869年(明治2年)に太政官布告によって「北海道」と命名されたのです。そんな「北海道」を誕生させ、発展させていった北海道の父たちをご紹介します
🔵 間宮林蔵──北海道開発の父
江戸時代に二度の樺太探検を行って間宮海峡を発見し、陸続きと思われていた樺太が島であることを示したことで知られるのが常陸国(茨城県)出身の間宮林蔵(1775~1844)です。伊能忠敬に測量を学び、師が測量できずにいた蝦夷地の海岸を測量し、『大日本沿海與地全図』の北海道部分を完成、その結果は幕府にも提出され、当時の北方を知るための貴重な資料とされています。測量のために蝦夷地を歩いた期間は12年にも及ぶと言われる間宮の死から25年後には、明治新政府の北海道開拓が正式にはじまりますが、その扉を開き北海道の開発の先駆けとなった間宮は、「北海道開発の父」と称されています。
🔵 松浦武四郎──北海道命名の父
蝦夷地と呼ばれていた北方の地を、「北海道」と命名した「北海道の名付け親」が伊勢国(三重県)出身の松浦武四郎(1818~1888)です。10代の頃から冒険心旺盛で全国各地を巡り、彼の歩いた道をつなげば、日本地図ができ上がるとまでいわれ、なかでも六回にわたっておこなわれた蝦夷地(北海道)の調査は多くの著作にまとめられ、今でも貴重な資料として活用されています。アイヌ文化への正しい理解を訴えた松浦は、50歳で明治維新を迎え、明治新政府では、もっとも蝦夷地に詳しい人物と評価され、大久保利通の推挙により開拓判官となります。松浦は、蝦夷地を改称する案として、「北のアイヌ民族が暮らす台地」という思いを込めた「北加伊道(ほくかいどう)」などをあげ、この案に基づき政府が検討した結果、「北加伊道」が「北海道」と字を改め、1869年(明治2)「蝦夷地」は「北海道」に改称されました。また、北海道各地の国名(現在の支庁名)や郡名もアイヌ民族の地名を元にした松浦の案に基づいて決められており、「北海道命名の父」と呼ばれる所以がここにあります。北海道を愛し、北海道をくまなく歩いた松浦の功績を称え、北海道各地には武四郎の像や碑があります。北海道釧路市のぬさまい公園にも松浦の銅像(「松浦武四郎蝦夷地探検像」と題する像)があり、その碑文には、松浦が阿寒の地を調査し、景勝を紹介した功績をたたえ、「阿寒国立公園の父」と顕彰しています。
🔵 島義勇──札幌の父・北海道開拓の父
現在の札幌は東西南北の区画整理が行き届いた街として有名ですが、札幌都市計画の骨格を作り、「サッポロを創った男」として知られるのが、開拓使初代判官の島義勇(1822~1874)です。佐賀藩出身の島は、藩主鍋島直正の命で、蝦夷地と樺太を探検調査し、地理・民俗・産業などの状況を調べた経験から蝦夷地に通じていたため、新政府において直正が開拓使初代長官に就任すると開拓判官に任命されました。札幌を本府候補地とし、政府から授かった「開拓の三神」をまつるため円山に鎮座、これが現在の北海道神宮です。円山の丘に登って札幌一帯の地勢を展望し、大通と創成川を中心とした碁盤の目状の本府建設構想を打ち立てましたが、大規模な突貫工事が短期間に急速に行われたため、膨大な費用が伴い、開拓使の財政赤字を招き、その責めを受けて島は罷免されます。このため島の本府建設という志は、二代目開拓使判官岩村通俊に引き継がれます。現在、札幌市役所には、島の立像があり、「他日五州第一の都」となると詠んだ漢詩が刻まれています。「将来ここに世界的な大都市が出現する」と島は予感しますが、現在の札幌の繁栄を考えるとこの予感は現実のものになったといえ、島の雄大な構想力が、のちの北海道の発展、札幌の発展につながったことは疑いようがありません。島が「北海道開拓の父・札幌の父」と称される所以です。北海道を去った島は、1874年(明治7)、江藤新平と共に佐賀の乱を起こしますが敗れ、斬首刑に処されました。しかし、島の郷里の佐賀では、「佐賀七賢人」の一人として郷土の誇りとされています。北海道の人々も、現在でも島の北海道開拓の恩を忘れてはいません。毎年4月13日の命日には、島判官を偲ぶ慰霊祭が北海道神宮で行われています。
🔵 岩村通俊──実質的な北海道開発の父
島の後任として開拓使判官に赴任し、札幌の建設という志を引き継いだのが土佐藩出身の岩村通俊(1840~1915)です。岩村の札幌本府建設構想は、島義勇のそれよりさらにひと回り大きいもので、創成川を境に東西を分け、幅60間(108メートル)の大通で南北を分けて、六十間四方の碁盤の目のように整然とした市街地を建設しようというものでした。通りの命名も、京都にならって人々にわかりやすく条・丁目と改めました。また、退官覚悟で「御用火事」と呼ばれる放火を決行し、街並みが綺麗に整理され、火事などの災害もほとんどなくなったといいます。さらに人々を驚かす事業として官庁公認の遊郭を設けました。開拓途上の札幌には多くの土木作業者がいましたので、婦女暴行や喧嘩が絶えませんでした。そこで岩村は、部下の薄井龍之(うすい たつゆき)に200メートル四方で歓楽地を作らせました。「薄野(すすきの)遊郭」です。これにより、男たちの生活に潤いが出来て、治安も安定するようになりました。その後、明治政府内での出世街道を順調に歩んでいった岩村ですが、1886年(明治19)に北海道庁が置かれ、北海道庁初代長官に就任、赤レンガ庁舎の建設、産業の振興、交通網整備に尽力し、岩村が長官となって以後、北海道の人口は急増したと言います。北海道を愛し、北海道のために強引で大胆な行政を行い、道内全域の開発に心血を注ぎ北海道発展の実質的な礎を築いた岩村もまた、「北海道開発の父」と呼ばれています。
🔵 永山武四郎──屯田兵の父
岩村のあとをうけて、第二代北海道庁長官に就任した薩摩藩出身で陸軍軍人の永山武四郎(1837~1904)は、西南戦争に参戦後、アメリカ、ロシア、清国の移民・農業制度などを視察し、道庁長官として士族に限られていた入植資格を廃止します。そのはじめが旭川の屯田兵たちであったことから、明治天皇が視察に訪れた際に永山の名を残すよう言われ、永山屯田と呼ばれました。また、札幌農学校に兵学科を設置するとともに警備中心の屯田兵制度から開拓中心に転換を図り、旭川には第七師団も設置され、屯田兵制度拡大に向けて尽力、いつしか「屯田兵の父」と呼ばれるようになります。現在、札幌市中央区には、「旧永山武四郎邸」が残されており、武四郎が北海道に骨を埋める覚悟だったことがわかります。「おれの遺骸は札幌の豊平墓地に北に向けて葬れ。北海道の士となってロシアから守るであろう」という遺言に従い、生後五ヶ月で亡くなった愛児武徳の眠る豊平墓地に埋葬され、遺骸はその遺志通り北に向いて埋葬されていたそうです。終生北海道を案じ、その身を北海道、屯田兵のために捧げた生涯でした。
北海道の開拓は、想像を絶する困難の連続でした。しかし、それぞれの「父」たちが志を持ち、道なき道を切り開いたからこそ、今の北海道があります。彼らの功績を忘れずに語り継ぐことが、未来への道しるべとなるでしょう。
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