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北海道の「父」たち part.3

 🔵畜産の「父」たち

郷土博士

北海道

2号

part.3では{北海道}の畜産の「父」たちをご紹介

🔵酪農の開拓者・宇都宮仙太郎

大分県出身の宇都宮仙太郎(うつのみや せんたろう・1866~1940)は、19歳のときに真駒内牧場で牧夫見習いとして働き始め、21歳で渡米。ウィスコンシン州の農業試験場で実習しながら酪農理論を学びました。1890年(明治23)に札幌へ戻り、日本初の民間によるバター製造に成功、市乳事業でも成果を上げました。

彼はホルスタイン種の経済性に注目し、民間人として初めて大量輸入を実施。乳牛改良の道を切り開き、北海道酪農の基礎を築きました。また、酪農家の経営安定のために札幌牛乳販売組合を設立し、デンマーク農業の導入も提唱しています。酪農には三つの徳があるとして、「役人に頭を下げなくてよい。牛には嘘をつかなくてよい。牛乳は人を健康にする」と説いた言葉も知られています。

後継者育成にも尽力し、多くの優秀な酪農家を育てた仙太郎は、「酪農の父」として深く敬愛されました。

🔵雪印乳業を築いた黒澤酉蔵

宇都宮仙太郎の牧場で働いた黒澤酉蔵(くろさわ とりぞう・1885~1982)は、「酪農三徳」に感銘を受け、酪農の道を志します。茨城県出身の彼は、水戸学の影響を受けた後、田中正造の鉱毒問題直訴に感銘し、秘書として仕えました。その後、北海道に渡って仙太郎のもとで牧夫として働き、独立後はデンマークの協同組合主義に学び、酪農民自身の手による乳製品の生産・販売を決意します。

1925年(大正14)、北海道製酪販売組合(酪連)を設立しバター製造を開始。その後、チーズやマーガリンなどの製品製造で事業を拡大し、1950年(昭和25)に雪印乳業へと発展させました。1932年(昭和8)には北海道酪農義塾を設立し、後の酪農学園大学へと発展。塾長として田中正造の思想を反映させた「健土健民」を掲げ、酪農の本質を説きました。

北海道を酪農王国へ導いた酉蔵もまた、「酪農の父」と称されています。

🔵日本ホルスタイン改良の先駆者・町村敬貴

町村敬貴(まちむら ひろたか・1882~1969)は札幌市出身。父・町村金弥は札幌農学校(現・北海道大学)の一期生で、エドウィン・ダンに師事しアメリカ式農業を学んだ人物でした。敬貴も札幌農学校で学ぶ傍ら、宇都宮仙太郎の牧場で実習を積み、卒業後は渡米。10年間にわたりアメリカで酪農技術を学び、帰国後、石狩市樽川に町村農場を創設しました。

乳牛の血統改良の重要性に気づいた敬貴は、米国から基礎種牛を導入し、ホルスタイン種の改良繁殖に努めます。その功績から「日本ホルスタインの父」と称されています。

🔵北海道酪農の陰の父・榎本武揚

幕臣として戊辰戦争に参戦し、箱館戦争で敗れた榎本武揚(えのもと たけあき・1836~1908)は、卓越した技術者として明治政府に登用されます。北海道開拓使を経て外務省に移った1873年(明治6)、旧幕臣子弟の育成を目的に、東京飯田橋に北辰社牧場を開設。

北辰社は、日本で初めてバターを製造し、東京における牛乳普及にも大きく貢献しました。最盛期には48頭の乳牛を抱え、その後の酪農事業の礎を築いた功績から、榎本は「北海道酪農の陰の父」とも呼ばれています。

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