×

【第6回】山本五十六の苦悩――「戦争では国が滅びる」

山本五十六

海軍軍人で元帥海軍大将。新潟県長岡出身。第26、27代連合艦隊司令長官。今でも彼の教育・育成方法は語り継がれており、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」は彼の有名すぎる名言。

6-1. 海軍エリートの信念と現実

昭和という激動の時代において、ひときわ鮮烈な印象を残す人物がいる。連合艦隊司令長官・山本五十六である。真珠湾攻撃の首謀者として記憶されがちな彼だが、その実像は、単なる軍人という枠に収まらない奥行きをもっていた。本稿ではまず、山本の原点にある信念と、それが現実にどう打ち砕かれていったのかを見ていく。

■若きエリートの出発点

山本五十六は明治17年(1884)、長岡藩士の家に生まれた。幼名は高野五十六。のちに山本家の養子となり、海軍兵学校へ進んだ。卒業後は、日露戦争に従軍し、爆弾により左手の指2本を失うという経験をしている。この傷は彼にとって、戦争の現実を肌で知る出発点であった。

彼は決して“好戦的”な軍人ではなかった。むしろ、その逆だった。戦争が国家と国民に及ぼす破壊の実態を、身をもって体験したからこそ、彼の軍人としての信念には一種の抑制が常にあったのである。

■アメリカ留学が与えた衝撃

山本の価値観を大きく変えたのが、1919年からのアメリカ留学であった。ハーバード大学に在籍し、その後ワシントンの日本大使館に海軍駐在武官として勤務した。そこで彼は、アメリカという国の巨大な経済力、産業力、そして国民の活力を目の当たりにする。

彼が幾度となく口にしたのが「アメリカとは戦うべきではない」という言葉である。これは感情ではなく、冷静な現実認識だった。アメリカと戦争になれば、日本は長期的に勝てない――それが彼の結論であり、それを避けるためのあらゆる外交努力こそが必要だと考えていた。

■「海軍善玉論」への疑念と現実

戦後、多くの識者やメディアが唱えた“海軍善玉論”において、山本はその象徴的存在とされてきた。陸軍の強硬派に対し、海軍は一貫して戦争回避を主張していたという構図である。

だが現実はそこまで単純ではない。確かに山本は開戦に反対した。しかし一方で、開戦が決定されるや否や、自ら真珠湾攻撃の作戦を立案し、その実行に全精力を傾けた。信念と現実、その落差の中で彼が抱えた葛藤は、決して一言で言い表せるものではない。

■「やるなら最初に一撃を」――合理主義者としての顔

山本は感情ではなく、徹底した合理主義者だった。「勝てぬ戦争を避けたい」が、それでも始まるのであれば「せめて最初に大打撃を与えて、講和への道を探るべきだ」と考えた。つまり、真珠湾攻撃は、勝利を信じた作戦ではなく、むしろ敗戦を少しでも有利なものにするための“時間稼ぎ”だったのだ。

この発想自体が、日本の政治・軍事の構造がいかに追い詰められていたかを示している。山本の合理主義は、悲壮なまでに冷静で、戦局の本質を見抜いていたがゆえの戦術であった。

■戦争を避けられなかった男の苦悩

開戦前夜、山本は「開戦となれば、最初の半年や一年は暴れてご覧に入れる。しかし二年、三年となれば、全く自信がない」と語ったとされる。この言葉は、日本の国力とアメリカのそれとの決定的な差を、誰よりも理解していた証である。

それでも彼は、最後まで命令に従い、作戦の中枢を担い続けた。そして昭和18年(1943)4月18日、ブーゲンビル島上空で、アメリカ軍の待ち伏せ攻撃により戦死する。情報がアメリカに筒抜けになっていた事実も含め、彼の死は“情報戦に敗れた男”という象徴的な側面も持っていた。

■信念を貫いた“苦悩の英雄”として

山本五十六は、決して英雄として美化すべき存在ではない。だが、彼が生涯貫いた「勝てぬ戦争を避けるべきだ」という信念は、現代の我々にとっても多くの示唆を与える。

国家の命運を預かる軍人として、現実と理想のあいだで揺れ動いた山本の姿は、ある意味で「戦争とは何か」を考えるうえでの鏡である。彼の苦悩は、現代日本が歴史を学びなおすための、静かな問いかけとなっている。

6-2. ワシントン体験が育んだアメリカ観

昭和という激動の時代において、戦争か平和かという岐路に立たされた日本。そのなかで、国の運命を背負いながら、静かに苦悩していた一人の男がいた。海軍のエリート中のエリートでありながら、誰よりも戦争を避けたがった男――山本五十六である。

彼の思想を形づくったもっとも大きな要素のひとつが、アメリカでの駐在経験だった。本節では、そのワシントン体験が彼の戦略眼や外交観、そして最終的な開戦への態度にどのような影響を与えたのかを探っていく。

■ 海軍随一の知米派としてのキャリア

山本五十六は、1919年(大正8年)から1921年(大正10年)にかけてアメリカ・ワシントンに駐在武官として派遣されていた。当時、彼は中佐であり、まさにこれから昇進していく海軍の中堅幹部だったが、この駐在期間が彼の後の人生を大きく決定づけることになる。

彼は駐在中、単に形式的な軍事交流だけではなく、アメリカ社会を積極的に観察し、研究した。英語を苦労して学び、経済、文化、政治の動向にも広く関心を持ち、積極的に現地の人々と交流したのである。特に彼が重視していたのは、アメリカの国力と工業生産力、そしてそれを支える国民精神であった。

彼は、アメリカという国が単なる軍事大国である以上に、総力戦を可能とする社会構造を持った”大国”であることを理解していた。単に兵器の数ではなく、継続的に戦争を遂行できる経済的・人的リソースの層の厚さ。そこに彼は恐るべき底力を感じ取っていたのである。

■ 圧倒的な国力に対する敬意と危機感

山本は、日米が戦争に至る可能性を冷静に予測し、その結末に対して現実的な見通しを持っていた。彼が残したとされる有名な言葉に、「半年や一年は暴れてみせる。しかし二年、三年となれば、私は保証しない」というものがある。

これは単なる悲観論ではなく、彼のアメリカ体験に裏打ちされたリアリズムである。日本の工業生産力、兵站能力、資源確保の不安定さなどを熟知した彼にとって、長期戦は文字通り「国が滅びる」戦いでしかなかった。

また、アメリカの若者たちが持つ自由主義的で合理的な精神風土、生活水準の高さ、そして民主主義への信頼なども、日本との決定的な差として山本は感じ取っていた。これは、軍国主義が台頭しつつあった日本国内に対する間接的な批判でもあったといえる。

■ ワシントン会議と不完全な海軍軍縮

山本が駐在していた期間中、ちょうど1921年から翌年にかけて「ワシントン海軍軍縮会議」が開かれた。これは、列強間の海軍兵力のバランスを調整するための国際会議であり、結果としてアメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの主力艦保有比率が決定された。

日本はアメリカの6割、すなわち「5:5:3」の比率で制限されることとなった。多くの海軍将校がこれを「不公平」と受け止めるなかで、山本はあくまで現実的な妥協として受け入れた。なぜなら、アメリカと真正面から張り合うような軍拡競争は、いずれ日本を国家として破綻に追いやるという冷静な計算があったからである。

しかし皮肉にも、この軍縮の結果、日本国内では「屈辱外交」だとして政府や軍の姿勢が批判され、やがて軍国主義が一層勢いを増す土壌を作ることとなる。山本のような現実主義者の声は、少数派として埋もれていったのである。

■ 「山本メモ」に見る対米観の本質

山本五十六は、開戦前後にいくつかの非公式メモを残している。そこには、単なる軍略ではなく、国の進むべき道についての深い洞察が込められている。たとえば、彼は「戦争とは、単に軍人が勝敗を決するだけのものではなく、国民全体の意思と努力の総和である」と記している。

これは、アメリカでの生活を通して得た“国家の総力”という概念を、日本がいまだ十分に体現していないという痛切な認識の表れである。軍事力だけを追い求めても、国民の民度や産業基盤が伴わなければ持続性はない。彼の目には、当時の日本がまだ総力戦の土俵にすら立てていないという現実がはっきりと映っていたのである。

■ 現実主義ゆえの孤独

こうした対米認識に基づいて、山本はあくまで「戦争回避」の道を模索し続けた。彼は決して「平和主義者」ではなかったが、勝算なき戦争を回避するためには、あらゆる妥協もいとわぬ覚悟を持っていた。

しかし、当時の軍部や政府内には、彼のような冷静な現実主義者は少数派だった。「国民の気持ちが許さない」「一戦交えてこそ国の威信が保たれる」といった空気のなかで、彼の声は届きにくかった。

やがて時代の流れは止まらず、彼自身が「避けたかった戦争」の先鋒となる役割を担うことになる。だが、その胸中には「自分がやらなければ、もっと無謀な者が指揮を執る」という深い諦念があったのかもしれない。

■ アメリカを知った男の予見

山本五十六のワシントン体験は、彼に「敵を知る」だけでなく、「己を知る」視点をもたらした。だからこそ、彼は単なる感情論や愛国心だけではなく、現実に即した判断を重視した。軍人でありながら、戦争を避ける努力を重ねた彼の姿勢は、日本がなぜあの戦争へと突き進んだのかを考えるうえで、決して忘れてはならない視点である。

「戦争では国が滅びる」――この言葉の重みは、今の私たちにも通じている。

6-3. 開戦反対から真珠湾作戦立案への葛藤

太平洋戦争の幕開けといえば、多くの人が「真珠湾攻撃」を思い浮かべるだろう。だが、この奇襲作戦の立案者である山本五十六自身が、実は開戦に対して一貫して否定的であったことは、あまり知られていない。なぜ、開戦に反対していた人物が、真珠湾攻撃という大胆な作戦を立て、それを押し通したのか――そこには、日本の進むべき道に対する、深い苦悩と葛藤があった。

▪️「俺は反対だが、戦えというなら勝てる方法を選ぶ」

山本五十六は、アメリカとの戦争において、日本が勝つ可能性は極めて低いと見ていた。アメリカの国力、工業生産力、そして石油をはじめとする資源力。あらゆる面で桁違いであり、持久戦など成立しないという現実的な判断だった。

しかし、戦争回避の努力が尽きかけ、日本の政権中枢や海軍内にも強硬論が高まる中、山本は一つの決意を固める。「戦えというならば、俺は俺のやり方でやる」と。ここに至って、山本が導き出したのが、あの真珠湾攻撃だった。

山本の意図は明確だった。「どうせやるなら、最初に相手の度肝を抜く。そうして早期に講和に持ち込むしかない」。奇襲によって敵の主力艦隊に壊滅的打撃を与え、短期決戦の流れを作り、アメリカ世論に「この戦争は損だ」と思わせる。そうでなければ、アメリカとの長期戦は持たない。言い換えれば、真珠湾は「勝つための作戦」ではなく、「早く終わらせるための作戦」だったのだ。

▪️軍令部との対立と「辞職覚悟」の突き上げ

だがこの奇抜な作戦案に、海軍の総本山である軍令部は猛反発した。なにより「作戦として無謀すぎる」との声が大きかった。太平洋をはるばる渡り、アメリカ艦隊がいなかったらどうするのか。もし返り討ちに遭って空母が全滅したら、日本海軍は壊滅だ――現実的なリスクを並べた反対意見は当然のように上がった。

しかし山本は譲らない。幕僚たちは「これが通らなければ連合艦隊長官を辞職する」とまで言い切り、軍令部を強引に押し切るかたちとなった。この背後には、山本の“敗戦覚悟”の覚悟があったともいえる。

当時の海軍作戦部長・福留繁や富岡定俊らは、山本の強硬姿勢に対し「これは大博打だ」と揶揄した。だが山本の決意は固かった。彼の部下・黒島亀人は「この案が通らなければ辞職する。山本長官も同じ意志だ」と軍令部に詰め寄った。これがきっかけで、軍令部総長・永野修身はついに「そこまで言うならやらせてやろう」と了承したと伝えられている。

このやりとりは、まるで情に流されたかのようにも見える。だが、山本の胸中には「他の手段がないならば、自らの信念で戦うしかない」という、重い覚悟が宿っていたのだ。

▪️「開戦当日でも交渉が成立すれば撤退せよ」

真珠湾攻撃の出撃直前、山本は最後の会議を開き、各指揮官にこう告げた。

「十二月八日までにワシントンで交渉が成立した場合、前日の午前一時までに、ただちに作戦を中止して帰還せよ」

これに対して、現地で指揮を執る南雲忠一中将は猛反発する。「敵を目の前にして引き返すなどできるわけがない」と。この意見に同調する者もいたが、山本は語気を強めて言い放つ。

「百年兵を養うのは何のためだと思っているのか。国家の平和を護るためである」

この言葉にすべてが込められている。彼にとって戦争とは、勝つことが目的ではなかった。可能な限り交渉で回避し、どうしても避けられない時にのみ、一撃で戦局を決する覚悟で臨む――それが山本五十六の戦争観だった。

▪️「桶狭間、ひよどり越、川中島」――三つの無謀を重ねた覚悟

山本はこの作戦を「桶狭間・ひよどり越・川中島を一度にやるようなもの」と表現した。いずれも、日本史に名を残す激戦である。つまり、戦略や兵力で劣る者が、命を懸けて勝機を狙う無謀な戦い。それを三つも一度にやる覚悟だというのである。

そこには、ただの「勝ちたい」という思いではなく、「どうせ戦うなら、悔いのない一撃を」という、死をも覚悟した精神があった。山本の手紙にはこうある。

「開戦劈頭、有力なる航空兵力をもって敵本営に斬込み、彼をして物心共に起ち難きまでの痛撃を加うるの外なしと考うるに立ち至り候次第に御座候」

つまり、戦争は最初の一撃ですべてが決まる。その一撃にすべてを賭け、成功すれば即座に講和。失敗すれば、自らの命で責任を取る。これが、山本五十六の「攻撃による平和工作」だったのである。

▪️「国を滅ぼす戦争」に、賭けたもの

山本五十六は、戦争によって国が滅ぶことを本能的に感じていた。だからこそ、最後の最後まで開戦には反対していた。だが、止められぬ流れのなかで、自らの手で戦争の火蓋を切る役目を担うこととなった。

その選択は、決して情熱的でも英雄的でもなく、冷徹な現実認識に基づいたものだった。「日本が敗れようとも、戦争目的だけは達成する」。そのために彼は、命を賭して一撃を放った。

この苦悩と葛藤こそ、私たちが語り継ぐべき「開戦の真実」の一つなのかもしれない。

PAGE TOP