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鳥取県の偉人──稲村三伯:日本初の蘭和辞書を編んだ言葉の開拓者

郷土博士

鳥取県

「たった30部」から始まった、日本語と世界の架け橋

時は江戸時代後期、異国語への扉はまだ閉ざされていた。そんな時代に、「言葉の壁を超えたい」と志した男がいた──その名は稲村三伯(いなむら・さんぱく)。鳥取市川端の町医の家に生まれた三伯は、江戸、長崎、京都と各地を巡り、ついにわが国初となる蘭和辞典『ハルマ和解』を世に送り出した。その功績は、単なる辞書編集にとどまらず、近代日本語学、翻訳、そして西洋医学の普及にも大きな礎を築いたと言えるだろう。

稲村三伯の生い立ちと若き日の修業

鳥取の藩医の家に育ち、学問の旅へ

稲村三伯は、1758年(宝暦8年)、現在の鳥取市川端三丁目にある町医・松井如水の家に三男として生まれた。13歳の時、鳥取藩医・稲村三杏の養子となり、その後藩医の後継者としての道を歩むことになる。彼は藩校・尚徳館で漢学を学び、さらに福岡にて亀井南冥の門で医学と儒学の薫陶を受けた。

若くして才を示した三伯は、藩命で長崎へ赴き、当時まだ希少であったオランダ医学、すなわち「蘭方」の習得にも挑んだ。そして、1781年(天明元年)、師であり養父であった三杏の死去により、鳥取藩医を継ぐこととなった。

『蘭学階梯』との出会い──辞書への情熱が動き出す

大槻玄沢の著書に受けた衝撃

三伯の人生を大きく変えたのは、大槻玄沢の著書『蘭学階梯』との出会いであった。この日本初の本格的な蘭学入門書に触れた三伯は、蘭語をより多くの人々に学ばせるには辞書の存在が不可欠であると痛感する。

1792年(寛政4年)、34歳となった三伯は江戸に上り、玄沢の門を叩く。すでに藩邸での勤務を始めていた三伯は、ここから蘭学の世界に深く分け入っていく。

ハルマ辞書編纂への挑戦──前人未踏の大事業

辞書がなければ蘭学は進まぬ

当時、日本では辞書編纂の試みは存在していたが、その難解さゆえに何度も挫折していた。西川如見や前野良沢も蘭和辞書の編纂に挑みながら、完成には至らなかった。

三伯は玄沢のもとで学びながら、「辞書こそが蘭学発展の鍵である」と確信する。彼は玄沢に辞書編纂の必要性を訴え続けたが、玄沢は応じなかった。その代わりに紹介されたのが、長崎通詞(オランダ語通訳)の石井恒右衛門であった。

石井は、オランダ人ハルマの『Nieuwe woordenboek der Nederduitsche en Fransche Taalen(蘭仏辞典)』をもとに辞書編纂を志していた人物。三伯は石井の門に入り、師の指導のもと辞書編纂に取りかかる。

三伯は桂川甫周、宇田川玄真らと協力しながら、辞書作りに没頭した。翻訳・筆記・照合を繰り返す日々。1796年(寛政8年)、ついに日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』が完成する。収録語数64,035語。発行部数はわずか30部だったが、日本の語学史における金字塔であった。

波瀾の後半生──脱藩、遍歴、そして蘭学塾開設へ

弟の借金が招いた苦難と放浪

1802年(享和2年)、三伯の人生に暗雲が差す。実弟・大吉の商売失敗による借金問題に巻き込まれた三伯は、責任を問われて藩を追われることになる。彼は脱藩し、名を「海上随鴎(うながみずいおう)」と改めた。

放浪の中で彼が選んだのは再び学問だった。文化3年(1806年)、京都に移り、蘭学塾を開設する。ここで教えを受けた一人に藤林桂谷(釜山)がおり、彼は『ハルマ和解』を簡略化した辞書を出版し、蘭学普及に大きく貢献した。

学問の遺産──『八譜』と教育者としての顔

解剖学の集大成、六十四巻の大著

三伯の知的探求は辞書だけでは終わらなかった。彼は医学者としての側面も持ち、解剖学書『八譜』を執筆。全64巻におよぶこの著作には、当時としては極めて先進的な人体知識が盛り込まれており、後世の医学教育にも大きな影響を与えた。

また彼の私塾からは多くの優れた門人が育ち、京都・大坂を中心に蘭学は一層花開くこととなった。

ゆかりの地と顕彰

現在の鳥取に残る三伯の足跡

稲村三伯を讃える顕彰碑や記念の地は、彼の出身地である鳥取市に多く残っている。特に代表的なのが、

  • 稲村三伯像と歌碑:鳥取市立遷喬小学校(本町一丁目)
  • 生誕地碑:鳥取市川端三丁目周辺

また、地元出身の歌人・香川景樹は、彼の業績を称えて次のように詠んでいる:

いく薬 くすしき種の ひとくさを 豊あし原に まきし人これ

さらに、京都や千葉の旧所にも海上随鴎時代の痕跡が点在し、日本語と蘭語の交差点に立ったその生涯が各地に刻まれている。

現代への接続──稲村三伯が私たちに教えるもの

「言葉を知る」は「世界を広げる」

インターネット翻訳が当たり前となった現代、言葉の壁は低くなったように見える。しかし、言葉の本質を理解するには、辞書が果たす役割は依然として大きい。

三伯が『ハルマ和解』を完成させたとき、彼の目的は単なる翻訳ではなかった。異国の思想・知識・文化を、日本語を通して自国に取り込む「知の橋渡し」をしたかったのである。

現代のグローバル社会において、異文化理解・多言語教育が叫ばれる今だからこそ、三伯の功績は再評価されるべきだ。

関連書籍と映像作品

おすすめ書籍

  • 『ハルマ和解と近代日本語の夜明け』石川幹人(講談社学術文庫)
    • 辞書としての意義だけでなく、当時の蘭学運動や言語観の変遷を詳述

映像作品

  • NHK『その時歴史が動いた:異国の言葉を学べ!蘭学者たちの挑戦』
    • 稲村三伯の辞書編纂への奮闘が再現ドラマとして紹介されている(俳優:佐野史郎/放送年:2004年)

結びに──稲村三伯の精神を今に生かす

「道は遠くとも、筆を執る手を止めるな」

三伯がその志を胸に、膨大な語彙と向き合った姿は、どれほど孤独であっただろう。だが彼は、言葉の力を信じ、日本初の辞書を完成させた。

グローバル社会に生きる私たちにとって、稲村三伯が教えるのは、「言葉に真摯であれ」「理解する努力を惜しむな」という普遍の知恵である。

言葉は、異文化とつながる鍵であり、自分自身と向き合う鏡でもある。その真理を、鳥取の偉人・稲村三伯は、200年以上前に私たちへ残してくれていたのである。

本のご紹介

波留麻和解 (第1巻) (近世蘭語学資料 第 1期) / 稲村 三伯

文庫 – 1997/7/1

『ハルマ和解(波留麻和解)』は、寛政8年(1796年)、蘭学者の稲村三伯、宇田川玄随、岡田甫説らによって編纂され完成した

(C)【歴史キング】

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