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「開国の「父」たち」

なぜ、「父」と呼ばれるようになったのか

近代国家の形成という激動の時代にあって、各分野で先駆的な役割を果たし、「父」との称号を与えられた偉人たちがいます。彼らが「父」と呼ばれるのは、単なる業績だけでは語れない深い理由があります。本連載では、そのような偉人たちの軌跡をたどりながら、「父」という言葉に込められた意味を掘り下げていきます。

明治維新を経て、日本は近代国家としての道を歩み始めました。そのなかで、さまざまな分野において先陣を切って活躍した偉人たちのなかには、「○○の父」と称される人物が多くいます。

たとえば、近代日本資本主義の父・渋沢栄一、議会政治の父・尾崎行雄、近代医学の父・北里柴三郎などが挙げられます。

渋沢栄一は91年の生涯に、実業分野500以上、社会公共事業600以上に携わったといわれます。主なものだけでも、日本興業銀行、東京海上火災保険、東京瓦斯、王子製紙、新日本製鐵、麒麟麦酒、アサヒビール、帝国ホテル、東京商工会議所、東京証券取引所など、日本の近代産業の根幹を支える企業・団体の設立に尽力しました。

また、日本議会政治の父・尾崎行雄は、1890年(明治23)の第一回総選挙で初当選してから、連続25回の当選を果たし、63年間にわたって日本の憲政発展に心血を注ぎました。

もちろん、彼らが「父」と呼ばれる最大の理由は、それぞれの分野で比類なき功績を挙げたことです。しかし、それだけではありません。志の大きさ、日本人としての矜持、困難を恐れぬ精神、後世に伝えるべき理想の追求、そして何よりも、彼らと関わりを持った人々の中に「この志と業績を未来に語り継がねばならない」という熱意があったことが、彼らを「父」として称える原動力となったのです。

本連載では、そうした「父」と呼ばれた人物たちの足跡を辿り、その称号が持つ意味を改めて考えていきたいと思います。

開国の父――阿部正弘・堀田正睦・井伊直弼

日本が近代の幕を開けたのは、1853年(嘉永6)の黒船来航による衝撃からでした。もっとも、仮に黒船が来なかったとしても、幕藩体制の行き詰まりや欧米列強の圧力から、いずれ日本は開国の道をたどったであろうことは想像に難くありません。黒船来航は、その必然を一気に現実化させた「きっかけ」に過ぎないのです。

黒船がもたらしたのは、開国か攘夷かという国論の二分でした。真の攘夷とは、ただ拒絶するのではなく、まず開国して西洋の知識と技術を吸収し、国力をつけた上で対抗することだといわれます。今の視点から見れば理にかなっていますが、当時それを判断するのは至難の業であり、為政者たちはその選択に苦悩しました。

この大きな時代の転換点に立ち、開国の舵取りを担ったのが、備後国福山藩主・阿部正弘(1819~1857)、下総国佐倉藩主・堀田正睦(1810~1864)、近江国彦根藩主・井伊直弼(1815~1860)ら幕府首脳でした。命がけの決断と行動によって開国への道を切り拓いた彼らは、まさに「開国の父」と称されるにふさわしい人物たちなのです。

阿部正弘──25歳で宰相の座に就いた開国の立役者

阿部正弘は1845年(弘化2)、わずか25歳で幕府の最高権力者である老中首座(宰相)に就任しました。そして、ペリーの来航という歴史的事件に際し、鎖国体制の堅持に固執することなく、開国に踏み切る決断を下します。

当時、外圧はもちろん、国内の攘夷派を中心とした保守勢力からの反発も激しく、正弘にのしかかるプレッシャーは相当なものでした。諸大名の9割以上が攘夷派という状況下で、彼は徳川斉昭や島津斉彬といった攘夷派の有力者とも積極的に交流し、妥協と連携の道を模索します。

正弘の外交は、単なる妥協ではなく、欧米列強の勢力関係を見極めた冷静な判断のもとに行われました。実際に、最大の要求であった通商開始については、あくまで和親条約の範囲にとどめ、強硬な開国要求を退ける交渉力を発揮しています。

また、禁制とされていた軍艦製造を国防上必要と判断し、初めは老中たちの反対により断念したものの、7年後にはそれを自ら実現させました。こうした粘り強さと現実的な判断力が、正弘の真骨頂といえるでしょう。

阿部正弘の改革は外交にとどまりません。踏み絵制度の廃止、海防力強化のための品川・長崎砲台築造、長崎海軍伝習所の開設、講武所の創設、大砲射撃場の設置、洋書講習のための蕃書調所創立など、幕府体制の抜本的見直しを断行しました。

さらに、正弘の革新性を象徴するのが、人材登用と意見徴収の大規模実施です。全国の諸大名や幕臣から開国に関する意見を募り、川路聖謨、勝海舟、岩瀬忠震など、後の日本の近代化を担う人材を次々と登用しました。

これにより、幕府の権威は相対的に低下したものの、国家としての持続可能性を優先した正弘の判断は、結果的に日本近代化の土台を築いたといえるでしょう。

正弘は老中首座の職を堀田正睦に譲った後も、「外国通航貿易を開き、富強の基本となすべし」と説く書簡を幕閣に送っています。これは、明治政府が後に掲げた「富国強兵」をすでに先取りしていたものであり、彼が「開国の父」であると同時に「日本近代化の父」とも称されるゆえんです。

わずか39歳で亡くなるまで、国家の未来を見据え、死力を尽くして時代を切り開いた阿部正弘。その生涯は、信念と責任感に貫かれたものでした。

堀田正睦──蘭癖と呼ばれた先見の開明家

堀田正睦は、天保年間に一度老中を務めたのち、佐倉藩主として藩政改革に尽力します。農村対策や藩士教育の充実に力を入れ、藩校「成徳書院」を創設。西洋兵制の導入や西洋医学の普及にも取り組み、蘭医・佐藤泰然を招いて順天堂医院を開設。牛痘による種痘も行いました。その先進的な姿勢から「蘭癖(らんぺき)」と揶揄されつつも、「西の長崎、東の佐倉」と称される近代化拠点を築きました。

1855年(安政2)、堀田は再び老中に任じられ、外交を担当する外国掛も兼務します。通商条約締結に際して勅許を得ようと上洛するも失敗し、将軍継嗣問題では一橋慶喜を推挙するなど、朝廷との関係強化を図りました。しかし、政変によって井伊直弼が大老に就任し、堀田の影響力は次第に後退。通商条約締結直後に老中を罷免されることになります。

とはいえ、堀田の外交姿勢は一貫しており、日本の進むべき道は開国と貿易の開始であるという信念のもと行動していました。そのため、通商条約の実現を導いた功績は高く評価され、彼もまた「開国の父」と称されるにふさわしい人物といえるでしょう。

井伊直弼──剛毅果断にして賛否両論の「開国の元勲」

1858年(安政5)4月、井伊直弼は大老に就任。2年後の1860年(安政7)3月、桜田門外の変で暗殺されるまでの間、幕政の舵を取り続けました。直弼が強行したのが、朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した「違勅調印」です。

江戸幕府の創設以来、政治は幕府が主導し、朝廷の関与は形式的なものでした。直弼にとって、条約調印にあたって朝廷の許可を得るという発想自体が、幕府の政治的伝統にそぐわないものであり、許容できるものではなかったのです。

この決断が攘夷派の怒りを買い、ついには直弼の暗殺という事態を招きました。一方で、国際情勢を冷静に見極め、剛毅果断にして迅速な判断を下したことで、日本が欧米列強の植民地化を免れたという見方もあります。そのため直弼は、「国賊」と非難される一方で、「開国の元勲」として称賛されるという両極の評価がつきまといます。

通商条約の結果、箱館(函館)、神奈川(横浜)、新潟、兵庫(神戸)、長崎の五港が開港されました。現在、横浜市西区の高台にある掃部山公園には、開港の功労者として井伊直弼の銅像が建立されています。「掃部山(かもんやま)」とは、彼の官位「掃部頭(かもんのかみ)」に由来する名称です。

強烈なリーダーシップを発揮し、日本を開国へと導いた井伊直弼。その功績の大きさから、彼もまた「開国の父」と称されるにふさわしい人物です。

「開国の父」三人の墓所

🟢阿部正弘墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)

🟢堀田正睦墓所(甚大寺・千葉県佐倉市新町)

🟢井伊直弼墓所(豪徳寺・東京都世田谷区豪徳寺)

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