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北海道の「父」たち part.6 ~土木工学の「父」たち~

🔵広井勇──港湾工学の父

近代日本の橋梁学・築港学の権威として「港湾工学の父」と呼ばれたのが広井勇(ひろい いさみ・1862~1928)です。

広井は、東京外国語学校、工部大学校予科を経て、1881年(明14)に札幌農学校を第二期生として卒業します。札幌農学校では、内村鑑三、新渡戸稲造らと同級でした。開拓使鉄路課に勤務し、北海道最初の鉄道、小樽・幌内間の工事を担当します。その後、アメリカに留学し、ミシシッピ川改良工事や橋梁設計の経験を積み、さらにドイツ留学を経て帰国します。28歳の若さで札幌農学校工学科教授に就任した広井は、以後8年間にわたって札幌農学校の教育に尽力しました。工学科の廃止と同時に兼任していた北海道庁技師に専念し、小樽築港工事を指揮します。

小樽湾は冬になると季節風の影響を強く受け、荷役ができないほどの荒波が押し寄せました。港を安全に機能させるためには、堅牢な防波堤を築く必要があったのです。勇はこの難題に対し、火山灰を混入して強度を増したコンクリートを開発し、そのコンクリートブロックを傾斜させ並置する「斜塊ブロック」という独特な工法を採用することで解決しました。11年という歳月をかけ、約1300メートルにおよぶ北防波堤を完成させたのです。

その後、東京帝国大学教授に就任し、港湾、水力発電、橋梁設計などを大学および各地で実務指導を行いました。また、「彼の生涯の何者にも代えがたい最大の功績は、多くの優れた門弟たちを育て社会に送り出したことではないだろうか」(『山に向かいて目を挙ぐ―工学博士・広井勇の生涯』)と言われるように、港湾事業の発展に尽力した人材を多数輩出しています。とくに、勇が東京帝国大学で直接指導した子弟たちのうち、海外で活躍した三人、青山士、八田與一、久保田豊も「父」なる称号を与えられています。

🔵岡崎文吉──北海道治水の父

勇の札幌農学校工学科の教え子で一番弟子だったのが、北海道において自然の法則を尊重した治水を主張し、石狩川治水にその情熱と技術を捧げた岡崎文吉(おかざき ぶんきち・1872~1945)です。

岡山藩士族の子に生まれた岡崎は、15歳で札幌農学校工学科の第一期生として入学し、卒業後は給費研究生として学校に残り、21歳で助教授に就任します。物理学の授業を担当しましたが、1895年(明28)に工学科が廃止されると、師の広井勇と同じく北海道庁の技師となります。1898年(明31)の石狩川大洪水は死者248人の大惨事となり、北海道治水調査会が設置されました。広井や田辺朔郎らと共に委員の中心となり、以後12年かけて石狩川の調査、欧米での研究も踏まえ、「石狩川治水計画調査報文」を提出します。この報文の中で岡崎は、「自然主義」を唱えます。1915年(大4)に自身の理論と実践をまとめた著書『治水』のなかでも「自然主義」について言及していますので引用します。

「近世の水理学は原始的河川を過度に矯正し、またはこれを全く改造しようとして、河川の平衡状態を破壊し、かえって失敗に終わって弊害となっている。このような愚策を避け、なるべく天然の現状を維持し、自然を模範とし、自然の機能を尊重すべきである。現状維持、すなわち自然主義は最も経済的であり、かつ最も合理的であると思われる」

その上で岡崎は、「コンクリート単床ブロック護岸工法」を開発します。しかし、石狩川治水事業では、当時の主流であった蛇行部をショートカットする「捷水路方式」に変更され、岡崎も内務省に転勤となりました。ただし、岡崎の工法は、その後、国内で普及したばかりでなく、アメリカのミシシッピー河では現在も使われています。環境問題が問われる今日、「北海道治水の父」と称された岡崎の「自然主義」は、再びクローズアップされています。

🔵五十嵐億太郎──留萌築港の父

勇の北海道庁技師時代に勇の協力のもと留萌(現留萌市)の築港に尽力したのが五十嵐億太郎(いがらし おくたろう・1873~1929)です。東京水産伝習所(現東京海洋大学)に学び漁場経営のかたわら、留萌発展のためには港建設が必要であるとして、「留萌築港期成同盟会」を結成します。そして、帝国議会に築港を請願するなど、増毛(現増毛町)との壮絶な築港争いに勝利し、「留萌築港の父」として今日なおその遺徳が讃えられています。

(C)【歴史キング】

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