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佐賀県の偉人:佐野常民 — 赤十字の精神を日本に根付かせた「博愛の父」

郷土博士

佐賀県

「敵味方の区別なく、傷ついた人々を救う」。この崇高な理念を掲げ、日本に「赤十字」の精神を確立したのが、佐賀県が生んだ偉人、佐野常民(さの つねたみ)です。

肥前国佐賀郡早津江村(現在の佐賀市川副町)に生まれた彼は、幕末の動乱期から明治の近代化を牽引する中で、西洋の先進技術や制度をどん欲に学び、日本の海軍創設、博覧会の開催、そして何よりも「日本赤十字社」の創設にその生涯を捧げました。その「博愛」の精神は、現代の災害救護や国際協力にも脈々と受け継がれ、彼の名はまさに「博愛の父」として日本の歴史に刻まれています。


幕末の動乱期を駆け抜けた知の探求者

佐野常民は1823年(文政5年12月28日)、佐賀藩士下村家の五男として生まれ、9歳の時に藩医・佐野常徴の養子となります。幼い頃からその頭脳明晰さを発揮し、藩校「弘道館」で学ぶ傍ら、江戸の古賀侗庵、京都の広瀬元恭、そして大阪の緒方洪庵が主宰する適塾といった、当時の日本の蘭学・医学の最先端をいく塾で幅広い学識を修めました。適塾では、後の明治維新で活躍する大村益次郎ら多くの俊英たちと知遇を得ており、このネットワークが彼のその後の人生に大きな影響を与えることになります。

1853年(嘉永6年)、32歳になった佐野は佐賀藩の「精煉方(せいれんかた)」主任を命じられます。精煉方とは、佐賀藩が設置した理化学研究施設であり、ここで佐野は、当時「からくり儀右衛門」として知られた田中久重親子や石黒寛次といった優れた技術者たちを各地からスカウトし、蒸気機関や大砲の鋳造といった西洋技術の開発に尽力しました。これは、鎖国下の日本において、佐賀藩がいかに先進的な取り組みを行っていたかを示すものであり、佐野はその中心を担う「中間管理職」として、藩の近代化事業を推進しました。

日本海軍創設への道とパリ万博での出会い

1855年(安政2年)、佐野は長崎海軍伝習所に第一期生として参加し、航海術や造艦術、砲術などを習得します。この頃、藩主・鍋島直正に海軍創設の必要性を説き、自ら海軍所の責任者となります。そして1865年(慶応元年)には、佐賀の三重津海軍所で、日本人だけの手で造られた国産初の実用蒸気船「凌風丸」を完成させました。

1867年(慶応3年)、佐野常民は佐賀藩の代表としてパリ万国博覧会に派遣されます。ここで彼は、佐賀の特産品をPRするだけでなく、西欧諸国の軍事、産業、造船術などを精力的に視察しました。このパリ万博で彼が最も衝撃を受けたのが、国際赤十字の組織とその活動でした。戦場で敵味方の区別なく傷病兵を救護するその理念に、佐野は深い感銘を受けます。この時の経験が、彼の生涯最大の使命となる赤十字事業の原点となるのです。

博愛の精神の具現化:日本赤十字社の誕生

明治維新後、佐野常民は新政府の一員として、日本の近代化に多岐にわたる功績を残します。兵部少丞として日本海軍の基礎作りに尽力し、工部省灯台頭として洋式灯台の建設を指揮するなど、日本のインフラ整備に貢献しました。また、「博覧会男」の異名を取るほど博覧会事業に情熱を注ぎ、1872年(明治5年)には日本初の官設博覧会を湯島聖堂で開催。翌年にはウィーン万国博覧会の事務副総裁として参加し、日本の優れた技術や文化を世界に紹介しました。

しかし、彼の人生の転機であり、最も大きな功績となったのは、やはり日本赤十字社の創設でした。

西南戦争と「博愛社」の設立

1877年(明治10年)2月、日本近代史上最大の国内戦争である西南戦争が勃発します。激しい戦いの中で、敵味方に関わらず多くの傷病兵が苦しむ悲惨な状況を目の当たりにした佐野は、パリ万博で知った赤十字の活動を日本にも導入する必要性を強く感じます。

彼は政府に「博愛社設立請願書」を提出しますが、当初は不許可となります。それでも諦めなかった佐野は、同年5月、熊本で有栖川宮熾仁親王に直訴し、ついに「博愛社」の設立許可を得ることに成功しました。この博愛社は、敵味方を区別せず負傷者を救護するという、当時の日本にはなかった画期的な人道支援組織でした。佐野は自ら戦地に足を運び、私財を投じ、協力を求めて奔走します。その熱意と信念は、多くの人々の心を動かし、博愛社は着実に活動を広げていきました。

日本赤十字社への改称と国際加盟

博愛社の活動が評価され、日本が万国赤十字条約に加盟したことを受け、1887年(明治20年)、博愛社は「日本赤十字社」と名称を変更し、佐野常民がその初代社長に就任しました。同年9月には、日本赤十字社はアジア諸国で最初に国際赤十字に加盟を果たし、日本の人道支援活動が国際的な舞台へと広がっていきました。

佐野は社長として、全国で講演を重ねて赤十字の意義を熱く訴え、看護婦養成や病院船の建造など、事業の拡大に精力的に取り組みました。彼の努力により、日本赤十字社はわずかな社員から始まり、日清戦争や義和団の乱といった国際紛争においても戦時救護活動を行うなど、その役割を拡大。今や全国に支部を置き、国内外で災害救護や医療支援を展開する巨大な人道組織へと成長しました。

佐野常民の多才な功績と「泣きの常民」のエピソード

佐野常民の功績は、赤十字事業だけにとどまりません。彼は日本の近代化において、多方面でその才能を発揮しました。

日本美術の保護と振興

佐野は、日本の美術品が海外に流出するのを憂慮し、1879年(明治12年)には日本美術の保護・育成を目的とした美術団体「龍池会(りゅうちかい)」(後の日本美術協会)を発足させ、初代会頭に就任します。パリやウィーンの万博で西洋美術に触れた経験から、当時の貧窮していた日本の画家たちを救済し、美術工芸の振興に尽力しました。彼が亡くなるまで会長を務めた龍池会は、多くの会員を集め、日本の美術界の発展に貢献しました。

「博覧会男」の面目躍如

佐野が「博覧会男」の異名を取るように、彼は博覧会を日本の産業奨励と国際交流の重要な場と捉えていました。東京遷都により衰退が懸念された京都の街を活性化させるため、路面電車や共通チケット、ガイドブックの導入など、新たな観光スタイルを樹立して京都の復活に貢献したという逸話も残っています。

友情と信念の人

佐野常民は、しばしば人前で涙を流すことがあったため、「泣きの常民」とも呼ばれました。それは、恩義に感じた時、悲惨な状況を目の当たりにした時、そして自らの信念を貫く時など、彼の豊かな感情と純粋な人間性が表れたものでした。特に、博愛社設立の請願が実現した際、精煉方の同僚や友人の死に際して流した涙は、彼の人間的な魅力と、困難に屈しない強い意志を物語っています。

「吾輩は知恵も才能も何もない老翁だが、幸いに今日の位置にまで進んできたのはただただ勉強の一つである」と自ら語った佐野常民。しかし彼には、周囲の反対にも動じず、一度決めたことは「二度が五度でもやるところまでやる」という、諦めない強靭な精神力がありました。その信念と行動力は、多くの人々を巻き込み、ついには反対者をも屈服させるほどの説得力を持っていたのです。

佐野常民ゆかりの地:博愛の精神を辿る旅

佐野常民の生涯は、彼の生まれ故郷である佐賀から、東京、そして彼が世界に目を向けた海外へと広がっています。彼の足跡をたどることで、その多大な功績と深い博愛の精神に触れることができます。

佐賀県佐賀市:生誕の地と近代化の拠点

  • 佐野常民生誕地(佐賀県佐賀市川副町早津江):佐野常民が生まれた場所には、彼の功績を顕彰する記念碑が建てられています。
  • 佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館(佐賀県佐賀市川副町):佐野常民の功績と、彼が監督を務めた三重津海軍所の歴史を学ぶことができる施設です。2021年にリニューアルオープンしました。
  • 三重津海軍所跡(佐賀県佐賀市川副町):佐賀藩が蒸気船の修理・建造を行った施設跡であり、2015年には世界文化遺産にも登録されました。佐野常民が日本の近代化に果たした役割を象徴する場所です。
  • 佐野常民銅像(佐賀県佐賀市 佐賀県赤十字血液センター前):2023年11月に、生誕200年を記念して新たな銅像が設置されました。
  • 佐野常民旧宅地界隈(佐賀県佐賀市):養子に出された藩医・佐野孺仙の屋敷跡周辺は、大隈重信生家など佐賀藩の雰囲気を今に伝えています。
  • 弘道館跡(佐賀県佐賀市):佐野が学び、その学識の基礎を築いた藩校の跡地です。
  • 精煉方跡(佐賀県佐賀市):佐野が主任を務め、多くの科学技術開発に成功した理化学研究所の跡地です。

東京:日本赤十字社の拠点と終焉の地

  • 佐野常民墓所(東京都港区 青山霊園):佐野常民の墓所があり、その功績を偲ぶ人々が訪れます。
  • 日本赤十字社本社(東京都港区):佐野が初代社長を務めた日本赤十字社の本部であり、彼の理念が現在も息づく場所です。

佐野常民の遺産:現代社会へのメッセージ

佐野常民の生涯は、困難な時代にあっても、確固たる信念と行動力を持って社会に貢献することの重要性を私たちに教えてくれます。彼の「博愛」の精神は、単なる感情論ではなく、普遍的な人道主義に基づいたものでした。敵味方を分け隔てなく救護するという理念は、現代の紛争地域における医療活動や、世界各地で発生する災害に対する国際的な支援活動にも通じるものです。

彼が残した「日本赤十字社」は、今や114万人ものボランティアと多くの会員に支えられ、国内外で幅広い人道支援活動を展開しています。これは、佐野常民が「一人では何もできない」という現実を認識し、多くの協力者を求めて行動し続けた結果に他なりません。

情報化が進み、グローバルな課題が山積する現代社会において、佐野常民の「博愛の精神」と「行動力」は、私たち一人ひとりが、自らの周りの人、そして世界の人々に対して何ができるのかを深く考えるきっかけを与えてくれるでしょう。彼の遺した功績は、未来永劫、日本の誇りとして語り継がれていくに違いありません。

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