
父と呼ばれた日本人│「政界の父」と呼ばれる偉人たち
🔵自由民権運動の父――板垣退助
長州藩・薩摩藩に次ぐ雄藩として多くの人材を輩出した土佐藩は、日本の立憲政治の樹立に尽力した二人の「父」を輩出しています。
一人は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言を残した板垣退助(1837~1919)です。
板垣退助(1837~1919)
幕末の動乱期、板垣は討幕派として活躍し、維新後は参議となりますが、征韓論に敗れて下野します。1874年(明治7)、江藤新平(しんぺい)、後藤象二郎(しょうじろう)らと民撰議院設立建白書を政府に提出すると、高知に立志社を設立し、先頭に立って自由民権運動を推進します。
1881年(明治14)には自由党を結成、総理として全国を遊説して周り党勢拡大に努めますが、1882年(明治15)四月、岐阜で暴漢に襲われます。この時に叫んだといわれるのが冒頭の名言です。そして、これが自由民権運動の合言葉となり、板垣は「自由民権運動の父」と称されることとなりました。
板垣は、自由党をいったん解散した後、立憲自由党を結党して総裁となり、第二次伊藤博文内閣の内務大臣に指名されます。さらに、自由党と進歩党が合流して憲政党が結成されると、大隈重信と共に首領に推され、最初の政党内閣といわれる第一次大隈重信内閣の内務大臣に迎えられました。
東京都青梅市の釜の淵公園には、三多摩自由党の有志が党首板垣退助を対岸の河原に招いて鮎漁を楽しんだことを記念して建てられた銅像があります。その台座にある銘には、「自由民権確立のためその生涯を捧げ、今なお憲政の父と仰がるる板垣退助先生かつてこの地に遊ぶ……」と書かれています。
「憲政の父」とも称された板垣は、自由民権運動と共に近代日本の政界の中枢にあって、大日本帝国憲法や国会の開設に大きな影響を与えたことから、日本の立憲政治の礎となる活動を行ったといえます。
もう一人、土佐出身で立憲政治に尽力したのが片岡健吉(けんきち・1843~1903)です。
立志社創設に参加して議長、社長を務め、自由党でも板垣退助の片腕として自由民権運動を後押しし、自由党土佐派の領袖として重きをなします。1890年(明治23)の第一回総選挙から衆議院議員に連続八回当選し、1898年(明治31)から死去するまで衆議院議長を務めました。
高知県議会議事堂(高知市丸ノ内)前に立つ、初代高知県議会議長だった片岡の銅像の銘には、次のように書かれています。
「片岡健吉先生は天保十四年高知城下中島町に誕生。明治維新の創業に参加して功あり。また、欧米を視察して得る所少なからず。後率先して立志社を創立し立憲政治の確立に挺身した明治十二年高知県会初代議長に就任さらに衆議院議長となり上下の信望を集めた。明治三十六年歿享歳六十一。乃ち憲政の恩人として茲に像を再建し不滅の功績を讃えるものである」
片岡が「立憲政治の父」と称されるゆえんです。
🔵関西、東北、沖縄――各地の自由民権の父たち
板垣や片岡の創設した立志社が先駆けとなって自由民権運動は全国的な広がりを見せます。その一角で、関西自由党の重鎮として活躍し、「関西の自由民権の父」と称されるのが、丹波篠山(たんばささやま)藩出身の法貴発(ほうき・はつ)(1846~90)です。明治新政府で大蔵省や福岡県庁に出仕した後、郷里篠山に戻り、『国安論』など多くの著書を残した法貴は、関西の民権運動の先駆者として知られています。
東北地方でも、立志社設立の翌年、1875年(明治8)に自由民権運動の拠点が築かれます。その中心的な役割を果たし、「東北民権運動の父」というべき存在が河野広中(こうの・ひろなか・1849~1923)です。
河野広中(1849~1923)
河野は二三歳の時から郷里三春町(現福島県田村郡三春町)近くの常葉(ときわ・現福島県田村市)戸長や石川(現福島県石川郡石川町)区長を務め、自由民権運動に共鳴して石陽社を結成。立志社の片岡と共に国会開設請願書を太政官・元老院に提出します。
残念ながら、これは却下されますが、その後も福島自由党を設立するなど民権運動を繰り広げます。1881(明治14)には福島事件に連座して6年余を獄中で過ごしますが、大日本帝国憲法発布の大赦で出獄後、1890(明治23)の第一回総選挙で衆議院議員に当選し、以後、連続一四回の当選を果たしました。
衆議院議長や第二次大隈重信内閣の農商務大臣を歴任。晩年も普選運動の先頭に立ち、立憲政治の実現を目指しました。自由民権運動のリーダーとしての活躍により、「西の板垣退助、東の河野広中」といわれた河野は、いまなお福島県、東北地方の誇りとして語り継がれています。
東北から遠く離れた南国にも、他府県の人たちと同じ権利を勝ち取るため、民権運動を主導する社会活動家が現れました。沖縄の謝花昇(じゃはな・のぼる・1865~1908)です。
沖縄師範学校で留学生に選ばれ学習院で学んだ謝花は、帝国大学農科大学(現東京大学農学部)に進み、近代農業を学びます。在学中に中江兆民(ちょうみん)と交遊し、その思想的影響を受けました。卒業時、恩師から東京に残り学問を究めることを勧められますが、沖縄県民のために働くことを決意して帰郷。沖縄初の学士として、沖縄県庁に出仕します。
ところが、当時の県庁は他府県出身者が多く、故郷沖縄に対する思いが強い謝花は、ことごとく彼らと衝突します。結局、他県出身の県知事と対立して県庁を退職します。そして、「沖縄倶楽部」を結成し、沖縄県民の自治権と参政権の獲得を訴えました。ここに、沖縄における自由民権運動、参政権運動が始まるのです。
しかし、反対勢力からの弾圧が激しく、一連の運動は潰されてしまいます。全財産を投じた謝花は、仕事を求め他県に向かう途中、志半ばにして倒れ、1908年(明治41)、44歳で病死しました。
沖縄県民が選挙権を獲得し、国会へ代表を送るのは、謝花没後四年の1912年(大正元)、日本本土から遅れること32年のことでした。沖縄の人々の権利を獲得するために戦った謝花の運動は、存命中は実を結びませんでしたが、彼の勇猛心と行動力は、いまも沖縄の人々の心に刻まれ、謝花は「沖縄民権運動の父」として語り継がれています。
🔵分県の父
1871年(明治4)、廃藩置県によって261藩が消滅し、旧幕府直轄地と合わせて三府三〇二県が置かれ、明治中央集権国家が誕生します。真の近代国家は、ここから始まったと言っても過言ではありません。
以後、府県の統廃合が進み、1876年(明治9)には三府三五県まで統合されます。しかし、地域によっては、面積が大きすぎるために、地域間の対立が起きたり事務手続きが非効率であったりと問題が噴出したため、逆に県の分割が進められ、1889年(明治22)には一道三府四三県に落ち着きます。
地域間の対立とは、要するに、予算の取り合いです。廃藩置県によって急速に近代化が進むなか、予算配分いかんによっては死活問題となる地域もありました。
こうした状況の地方自治草創期に、全国各地で議会運営や地域振興に尽力し、地域を代表して分県(県の分割)を成し遂げた「父」たちを紹介しましょう。
当初、新川(にいかわ)県と呼ばれた越中(富山)地域は、廃藩置県後の府県統廃合により石川県に合併されました。ここで問題になるのが、公共事業の予算分配を巡る石川と富山の利害の対立です。石川は道路の改修、富山は治水というように、それぞれの重点政策が異なることが、合併以来の懸案でした。
富山は、3000メートル級の立山連峰からおびただしい量の水が野を駆け抜けるため、河川の氾濫による水害対策が宿命づけられていました。そこで、水害に苦しめられてきた人々のため、現在の富山県下新川郡入善町(にゅうぜんまち)出身で当時石川県会議員だった米澤紋三郎(よねざわ・もんざぶろう・1857~1929)を中心に、富山は石川県からの分県を国に嘆願します。
「分県之建白」には、「富山は地理的、歴史的、風俗からも完全に一つの区域で、加賀や能登中心に動く『大石川県』では、富山の利益になる事案を進めにくい」と、富山を(石川から分離した)一県にすべき理由が端的にまとめられていました。
翌1883年(明治16)、明治政府は富山の分離独立を認め、石川県から分県して富山県が誕生しました。米澤が「富山分県の父」と呼ばれるゆえんです。
富山県と同時期に、宮崎、奈良、香川の三県も分県を認められています。
「鹿児島県」に合併されていた宮崎県の分県に尽力したのは、飫肥(おび)藩出身の鹿児島県会議員、川越進(かわごえ・すすむ・1848~1914)です。川越は、分県後も宮崎県会議長や衆議院議員を務め、宮崎県発展の基礎をつくり、「宮崎の父」と呼ばれます。国政や県政の推進のため私財を投げ打ち、政界引退の時には財産のほとんどを失っていたといわれています。
現在の奈良県は、1876年(明治9)に「堺県」に編入され、1881年(明治14)には堺県が「大阪府」に編入されました。奈良県の分県運動は、現在の生駒(いこま)郡安堵(あんど)町出身で当時大阪府会議員だった今村勤三(きんぞう・1851~1924)を中心に進められ、1887年(明治20)、大阪府からの独立が認められました。
今村も、分県運動に私財を投じ、分県後の初代奈良県会議長に就任し、「奈良県置県の父」と呼ばれます。後年、立憲改進党の衆議院議員として活躍するほか、奈良鉄道会社や郡山(こおり やま)紡績会社の社長として、故郷奈良の実業界を牽引しました。
現在の香川県も、1888年(明治21)に愛媛県からの分県が認められました。愛媛県議会議長としてこれに奔走したのが、高松藩出身の中野武営(ぶえい・1848~1918)です。
「香川分県の父」と呼ばれる中野は、後に衆議院議員、東京市会議員と議長を務めた政治家ですが、実業家としても成功しています。渋沢栄一の盟友としても知られ、渋沢の後を受けて第二代東京商業会議所会頭に就任しました。
🔵日本議会政治の父――尾崎行雄
東京都千代田区永田町の国会議事堂からほど近い「憲政記念館」の入口に、「憲政の神様」と称せられた男の銅像が据えられています。内閣総理大臣も政党総裁も未経験の、一介の衆議院議員ですが、1890年(明治23)に実施された第一回総選挙で衆議院議員に選出されて以後、連続二五回当選という世界議会史上の記録を打ち立てたこの人物は、尾崎行雄(1858~1954)。「立憲政治を守る」を信条に活躍した政治家です。
「政治家たるものは、国民の幸福にならぬようなことは、それが法律であっても、なんであっても、服従してはならない。……政治家にとっては、良心に従って行動することが、複雑な政治問題に対処する最良の方法であり、良心とは自分の心のことである」
尾崎行雄(1858~1954)
この言葉のとおり、軍国主義支配が進むなか、尾崎は平和の信念を曲げず国に警告し続け、晩年は「世界連邦」という理想を掲げました。
1954年(昭和29)10月、尾崎が96年の生涯を閉じた時、最年長の衆議院議員による追悼演説が行われました。
「君は清廉孤高、清貧に甘んじ、名利を求めない政治家として知られているのであります。……思うに、尾崎君の政治家としての最も敬服すべき点は、その操守の純正なる点にあり、しかも一貫して終生その理想に精進せられたことであります。君は常に民主主義に立脚し、自由と人権とを尊重し、民意を体して公論の伸長に努め、憲政を擁護して議会政治を守ることをもって使命とし、終生変わることがなかったのであります」
1890年(明治23)の第一回帝国議会から大正、昭和の63年余を国選議員として日本の議会制度の発展と共に歩んだ尾崎の人生は、「日本議会政治の父」とも「憲政の父」とも呼ばれるのにふさわしいものでした。
🔵戦後日本の父――吉田茂と片山哲
第二次世界大戦後の日本の復興に尽力した政治家の筆頭は、間違いなく吉田茂(1878~1967)でしょう。
戦前の吉田は、東京帝国大学卒業後、外務省で各国の大使を歴任しますが、駐米大使の時に日独伊三国同盟に反対して職を追われます。戦後は7年余、5度にわたり吉田内閣を組閣し、新憲法の発布、農地改革、教育基本法や労働三法の制定など、戦後の諸改革を処理します。その総決算として、吉田が政治生命をかけたのが、サンフランシスコ平和条約および日米安全保障条約の締結だといわれています。
焼け野原となった国土と疲弊した経済を立て直す日本にとって、戦勝国との和平は最重要課題でした。国内世論は、ソ連など共産圏諸国を含めた全連合国との間に条約締結すべしとする全面講和論と、共産圏を除いた諸国間のみで条約締結すべしとする部分講和(単独講和)論とが激しく対立していました。
そのようななかで、吉田は単独講和に踏み切ります。軽軍備・経済重視で、後に吉田ドクトリンと称される吉田の政治・外交スタイルは、日本人の生活維持、日本の経済復興に大きく貢献しました。吉田が「戦後復興の父」と呼ばれるゆえんです。
吉田の後を受け、新憲法下で初の内閣総理大臣となったのが社会党の片山哲(てつ・1887~1978)です。総選挙で社会党が第一党となり、日本初の社会党首班内閣が誕生。在任期間こそ10カ月余と短命でしたが、新憲法の運用という未知の局面において組閣されたこの内閣は、民法・刑法の改正、警察改革、労働省設置などを進めます。また、全国民が飢えに苦しむ時代、「一億総悩みという状態で、片山内閣は国民に安心感を与え、……片山哲という方が、あの混乱期の昭和22・23年、日本の歴史のなかでなされた功績というもの、これは本当に高く評価しても、高く評価しすぎるということがない」と、後の首相福田赳夫は述べています。
片山は敬虔なクリスチャンとしても知られ、キリスト教的人権思想と社会民主主義の融合を実践した人物でもあり、政界引退後は、護憲運動、世界平和運動、政界浄化運動に尽力します。1978年(昭和53)、91年の生涯を閉じる前の病床にあって「平和を! 平和を!」と繰り返し口にしたといいます。幅広く社会運動をしながら、党派を超えて愛された政治家片山哲は、「平和の父」と呼ばれています。
🔵「沖縄復帰の父」と「祖国復帰の父」
戦中・戦後を通じて、日本は、沖縄の人々の多大な犠牲の下に敗戦と戦後の復興を経験したという歴史的経緯があります。いまなお沖縄には、基地問題という大きな政治問題が残っています。戦後のアメリカによる沖縄統治下で沖縄の日本復帰をいち早く唱え、「沖縄復帰の父」と称されるのが仲吉良光(なかよし・りょうこう・1887~1974)です。
仲吉は、早稲田大学を卒業し、『琉球新報』『沖縄朝日新聞』の記者を経て、1940年(昭和15)に首里(しゅり)市長となります。戦後、いち早く上京してGHQに沖縄の復帰嘆願を行い、「沖縄諸島日本復帰期成会」を結成して、代表委員として復帰への猛運動を開始します。その活動ぶりは凄まじく、ある時は署名集めに奔走し、ある時は国会に出かけ、ある時はアメリカの要人に陳情書を送りつけるなど、「沖縄の鳥の鳴かぬ日はあっても仲吉が復帰を叫ばぬ日はない」と言われたほどです。
沖縄が日本への復帰を果たすのは、仲吉が上京した26年後、1972年(昭和47)のことです。その翌年、仲吉は86歳で永眠しました。1974年(昭和49)、仲吉良光顕彰会により「日本復帰の父仲吉良光ここに眠る」との顕彰碑が那覇の仲吉門中(むんちゅう・門中とは沖縄に見られる父系の血縁集団のこと)墓内に建てられました。
「沖縄復帰の父」と共に「戦後の沖縄を創った人」と称されるのが、屋良朝苗(やら・ちょうびょう・1902~97)です。
沖縄師範学校、広島高等師範学校(現広島大学)を卒業後、沖縄県で教諭となり、終戦後は戦災校舎の復興や教職員会の組織など教育界で活躍するかたわら、仲吉による「沖縄諸島日本復帰期成会」に参加して大衆運動を指導します。
1968年(昭和43)、初の琉球政府行政主席公選に野党統一候補として出馬し、教職員会、労組など民主団体から圧倒的な支持を受けて当選します。アメリカ軍統治下の返還闘争が激化するなか、革新主席としてアメリカ民政府や佐藤栄作首相と折衝を重ね、不屈の精神で悲願の祖国復帰を実現させました。
1972年(昭和47)には、本土復帰に伴う第一回沖縄県知事選で革新統一候補として出馬、圧勝のうえ復帰後初の沖縄県知事に就任し、激動期の県政を担いました。
米軍基地問題をはじめ、自衛隊の沖縄配備、沖縄国際海洋博覧会の開催、失業者の増大など山積する問題に全力で取り組みますが、国家施策と地元住民の板挟みで苦境に立たされる場面では、苦渋に満ちた表情をすることが多くなり、「縦しわの屋良」と呼ばれました。退任時、主席初当選からの八年間を振り返り、「矛盾に満ちた問題ばかりで苦悩の連続。いばらの道、針の山を行く思いであった」と述懐しています。
屋良は、どんなに困難な問題であっても、「誠意をもって立ち向かえば、必ず予想以上の成果を生む」という信念を捨てませんでした。祖国復帰を達成し、「沖縄の歴史の開拓者」と評価されるばかりでなく、その清廉潔白な性格も多くの県民から慕われました。
1997年(平成9)、屋良の死に際し沖縄初の県民葬が営まれ、多くの沖縄県民が哀悼の意を表しました。各政党の党首たちも、「屋良さんがいなければ、沖縄復帰は実現しなかった」と、あらためて彼の功業に謝意を示しました。
屋良が「祖国復帰の父」と称されるゆえんですが、「基地のない平和で潤いのある豊かな沖縄の実現」という屋良の真の願いは、いまだ達成されていません。
(つづく)
「政界の父」一四人の墓所
板垣退助墓所(品川神社本堂裏・東京都品川区北品川)
片岡健吉墓所(中天場山南側・高知県高知市前里)
法貴発墓所(法昌寺・兵庫県篠山市黒岡)
河野広中墓所(紫雲寺・福島県田村郡三春町字大町)
*河野は没後、護国寺(東京都文京区)に葬られましたが、後紫雲寺に改葬、現在では紫雲寺に「磐州河野先生瘞髪(えいはつ)塚」のみが残っています。
謝花昇墓所(沖縄県島尻郡八重瀬町字後原)
米澤紋三郎墓所(養照寺・富山県下新川郡入善町入膳)
川越進墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
今村勤三墓所(今村家墓所・奈良県生駒郡安堵町窪田)
中野武営墓所(蓮華寺・香川県高松市浜ノ町)
尾崎行雄墓所(円覚寺黄梅院・神奈川県鎌倉市山ノ内)
吉田茂墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
片山哲墓所(大庭台霊園・神奈川県藤沢市大庭)
仲吉良光墓所(仲吉家墓所・沖縄県那覇市古島)
屋良朝苗墓所(識名霊園・沖縄県那覇市識名)
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