
第13回 松岡の誤算とヒトラーの誘惑――“世界再編の夢”とその代償
13-1. ベルリン訪問とヒトラーとの会談
「新秩序」への夢とヒトラーの誘い
1941年(昭和16年)3月、当時の外務大臣・松岡洋右は、日独伊三国同盟の強化と、自らが構想する「日独伊ソ四国協商」という壮大な世界再編の夢を実現するため、ヨーロッパへの旅に出発しました。この旅の最大の目的は、日独伊三国同盟の盟主ともいえるドイツの総統アドルフ・ヒトラーとの直接会談でした。松岡は、イギリス・アメリカ中心の世界秩序を転換し、日本がアジアにおける新たな秩序の主導的役割を担うためには、ドイツとの連携が不可欠だと考えていたのです。
ベルリンに到着した松岡を待っていたのは、ドイツ挙げての盛大な歓迎でした。駅頭には日本の国旗である日の丸と旭日旗、そしてナチス・ドイツのハーケンクロイツ旗が並び立ち、ヒトラー・ユーゲントが「ハイル・ヒトラー!」「ハイル・マツオカ!」と歓声を上げる光景は、松岡の気分を高揚させたことでしょう。世界一美しいと称されるドイツ軍の整列した将兵を閲兵し、ウンター・デン・リンデン大通りを行進する経験は、松岡に「世界を動かすのは我々だ」という確信を一層強固なものにしたかもしれません。
ヒトラーが松岡に語った「絶好の機会」
松岡は3月27日と4月4日の2回にわたり、ヒトラーと膝を突き合わせて会談しました。この会談でヒトラーが松岡に語ったのは、日本にとって「歴史的にこれ以上絶好の機会はない」という言葉でした 。ヒトラーは、当時、イギリスがドイツの空襲を受けており、アメリカもまだ戦争準備が整っていない状況を挙げ、「今こそ日本は東洋におけるイギリスの牙城であるシンガポールを一日も早く攻撃すべきだ」と強く促しました 。
ヒトラーの論理は明確でした。もしこの機会を逃せば、フランスとイギリスは数年中に戦力を回復し、さらにアメリカがこれら二国と同盟を結べば、日本はいや応なくこれら三国と戦争することになる。だからこそ、シンガポールを叩き、イギリスを完全に潰しておくことが急務である、と松岡に説いたのです 。
ヒトラーは、ドイツと日本がそれぞれヨーロッパとアジアで「新秩序」を構築することで、世界を支配する最善の基礎が築けるとも述べました。この「ドイツのアジア、日本のヨーロッパという新秩序」という考え方は、松岡が抱いていた「世界再編の夢」と深く共鳴するものでした。松岡は、ドイツがヨーロッパに集中し、日本がアジアに集中するという分業体制を理想としていたからです。
シンガポール攻撃示唆と松岡の「自制」
ヒトラーのこの露骨な「シンガポール攻撃示唆」に対し、松岡は、さすがに「わかりました。シンガポールをやりましょう」とは即答しなかったと伝えられています。彼は「日本は世論の微妙な国であり、帰国後、この会談内容を政府や軍部、新聞に説明する必要がある。シンガポール攻撃が論議されたことは一応言わざるを得ないが、それは単なる仮の話であったと報告するしかない」と、慎重な姿勢を見せました 。これは、松岡が完全にヒトラーの言葉に踊らされていたわけではなく、日本の国内事情や天皇の意向を考慮していたことを示唆しています。
実際、松岡は長州出身で、天皇に対しては強い忠誠心を持っていました。もし、理由もなくドイツの手助けのためにイギリスを叩くといった約束が天皇の耳に入れば、イギリスを贔屓する天皇が激怒することは目に見えていました。この天皇の叱責を浴びることを考えれば、いくら有頂天になっていたとしても、シンガポール攻撃の具体的な約束だけはできなかったのかもしれません。しかし、近年の研究では、松岡は実際にシンガポール攻撃の約束をしたが、帰国後、それを言い出せなかったという説も存在します。昭和天皇は松岡に対し、「ヒトラーに買収でもされてきたのではないか」とまで辛辣な不信感を抱いていたことも記録されています 。
ヒトラーの「悪魔のささやき」と日本の誤算
ヒトラーはさらに、アングロサクソン(アメリカとイギリス)は、たとえ協力したとしても決して真の提携ではなく、常に互いに対立するという歴史的事実を強調し、イギリスを早く潰すためにもシンガポールを攻撃すべきだと繰り返し説きました 。これはまさに、「敵の敵は味方」という単純な論理を超えた、松岡の「世界再編の夢」を巧みに刺激する「悪魔のささやき」でした。
この会談を通じて、松岡はドイツの軍事力と、ヒトラーの世界戦略に深く感銘を受け、日独伊枢軸の勝利を確信していったようです。彼は、ドイツと組むことでアメリカも日本を軽視できなくなるという楽観的な幻想を抱きました。しかし、日本の指導層全体がこの幻想に囚われていたわけではありません。山本五十六のように、アメリカの国力と長期戦の困難さを正確に認識していた人物もいました。
「世界再編の夢」の代償
松岡洋右がベルリンでヒトラーと交わした会談は、日本の外交戦略にとって大きな転換点となりました。松岡は、日独伊三国同盟を「新しい世界秩序への礎」と位置づけ、その夢に酔いしれていました。しかし、この「世界再編の夢」は、日本の国力や国際環境を過大評価した側面があり、結果的に日本を対米英戦争へと導く大きな要因となってしまいました。
ヒトラーは、松岡との会談のわずか数カ月後にソ連への侵攻を開始します(バルバロッサ作戦)。この事態は、松岡が構想した「日独伊ソ四国協商」を完全に打ち砕き、日本が頼りとしたドイツの戦略が、実は日本の思惑とは全く異なる方向に向かっていたことを露呈させました。日ソ中立条約の締結は、日本に北方の安全を確保したと思わせる一方で、皮肉にもドイツが対ソ戦に集中できる環境を整える結果となっていました。
松岡の「世界再編の夢」は、当時の日本の指導者層が国際情勢を客観的に見抜く力を欠いていたことの象徴でもあります。自国の都合の良い解釈や、感情的な高揚感に流されることなく、冷静に国際情勢を分析し、真の国益を追求することの重要性を、このベルリン訪問とヒトラーとの会談は私たちに教えてくれます。
13-2. ナチスの口車とシンガポール攻撃示唆
ヒトラーの巧妙な「世界戦略」と日本の幻想
1941年(昭和16年)3月、ベルリンを訪問した日本の外務大臣・松岡洋右は、アドルフ・ヒトラーとの会談で、ドイツが構想する「ヨーロッパ新秩序」と、日本が目指す「アジア新秩序」の連携について話し合いました。ヒトラーは、松岡の抱く「世界再編」の夢を巧みに刺激し、日本を対米英戦へと引き込むための口車に乗せようとしました。これは、単なる外交交渉ではなく、相手の心理を読み解き、自国に有利な方向へ誘導しようとする、きわめて巧妙な情報戦の一幕でした。
「シンガポール攻撃」という甘い誘惑
ヒトラーは、松岡に対し、「日本にとって、歴史的にこれ以上絶好の機会はない」と述べ、具体的に東洋におけるイギリスの拠点であるシンガポールを「一日も早く攻撃すべきだ」と強く促しました 。その理由として、ヒトラーは、イギリスはドイツの空襲を受けており、アメリカもまだ戦争準備が整っていないため、今が絶好の機会であると説明しました。もしこの機会を逃せば、英仏は戦力を回復し、アメリカも加わって日本と戦うことになるだろうと、日本の焦りを煽ったのです 。
ヒトラーの狙いは、日本を対英米戦に引き込み、アジアにおけるイギリスの勢力を削ぐことで、ドイツがヨーロッパ戦線に集中できる環境を作り出すことにありました。彼は、日本とドイツがそれぞれの地域で「新秩序」を構築すれば、世界を支配する最善の基礎が築けるという、壮大なビジョンを語ることで、松岡の「世界再編の夢」を掻き立てました 。
松岡の自制と天皇の懸念
しかし、松岡は、ヒトラーの露骨なシンガポール攻撃示唆に対し、即座に「わかりました。シンガポールをやりましょう」とは即答しなかったと伝えられています 。彼は「日本は世論の微妙な国であり、帰国後、この会談内容を政府や軍部、新聞に説明する必要がある」と述べ、具体的な約束は避けました 。これは、松岡が日本の国内事情、特に天皇の意向を考慮していたことを示唆しています。
昭和天皇は、三国同盟締結に当初から強い懸念を示しており、松岡がドイツから帰国した際には、「おそらくはヒトラーに買収でもされてきたのではないかと思われる」とまで辛辣な不信感を抱いていました 。天皇がイギリスに好意的であったことを知っていた松岡は、無闇にイギリスを刺激するような行動を約束できなかったのかもしれません。
アングロサクソンへの不信感と「二枚舌」
ヒトラーは、さらに「アングロサクソン(アメリカとイギリス)は、協力したとしても決して真の提携ではない。一方が必ず他方に対して常に反目するという例を歴史がたくさん示している」と語り、イギリスがヨーロッパにおける一つの国の優位を容認しないこと、そしてアジアでは日本、中国、ロシアを相互に反目させて自国の利益を増やそうとしていると指摘しました 。さらに、アメリカもイギリスと同じやり方を受け継ぎ、アメリカ式の帝国主義で行動しようとしているのだから、日本は早くイギリスを潰すべきだと主張しました 。
このヒトラーの言葉は、日本の指導層の一部が抱いていたアングロサクソンに対する根強い不信感に訴えかけるものでした。満洲事変後の国際連盟における日本の孤立、そして欧米列強による経済制裁など、日本が国際社会から不当な扱いを受けていると感じていたからこそ、ヒトラーの言葉は、日本の「正義」に合致するものとして受け入れられやすかったのです。
「世界再編の夢」がもたらした誤算
松岡洋右は、ヒトラーの言葉に深く感銘を受け、日独伊枢軸の勝利を確信していったようです。彼は、ドイツと組むことでアメリカも日本を軽視できなくなるという楽観的な幻想を抱きました。しかし、この「世界再編の夢」は、当時の日本の国力や国際環境を過大評価した側面があり、結果的に日本を対米英戦争へと導く大きな要因となってしまいました。
皮肉なことに、松岡がベルリンを訪問し、ヒトラーからシンガポール攻撃を促されていた同時期、ドイツは既にソ連への侵攻計画(バルバロッサ作戦)を着々と進めていました。松岡が構想した「日独伊ソ四国協商」は、ドイツにとっては対ソ戦に集中するための偽装に過ぎず、日本が頼りとしたドイツの戦略が、実は日本の思惑とは全く異なる方向に向かっていたことを、日本は後になって知ることになります。
情報戦の敗北と「空気」の支配
松岡がヒトラーの口車に乗せられ、シンガポール攻撃を示唆された背景には、日本の情報収集・分析能力の甘さがありました。アメリカは日本の外交暗号を解読し、日本の外交方針や軍事計画を詳細に把握していました。しかし、日本は自国の情報が漏洩していることに気づかず、ヒトラーの言葉を鵜呑みにして、自国の都合の良いように解釈していました。
当時の日本社会は、「空気」に流されやすく、合理的な判断よりも感情や熱狂が優先される傾向がありました。ドイツの電撃的な勝利は、日本国内に「ドイツは無敵だ」という幻想を生み出し、対米英強硬論を後押ししました。松岡の「世界再編の夢」も、こうした「空気」の中で、批判的な検証を受けることなく膨らんでいったと言えるでしょう。
歴史の教訓:見極めるべき「真意」
松岡洋右のベルリン訪問とヒトラーとの会談は、日本の外交が、いかに相手の口車に乗せられ、自らの国益を見誤っていったかを示す痛切な事例です。国際関係においては、表面的な言葉や歓迎ムードに惑わされることなく、相手の「真の意図」と「国益」を冷徹に見極めることが不可欠です。
この時期の日本の外交は、理想主義と自己過信、そして情報戦の敗北が重なり合った結果、避けられたはずの戦争へと突き進んでいきました。松岡の「世界再編の夢」は、壮大であると同時に、日本の国力と国際情勢を客観的に見ることができなかったという、大きな代償を伴うものでした。この歴史の教訓は、現代の私たちにとっても、国際社会における自国の立ち位置と、情報判断の重要性を再認識させるものとなるでしょう。
(C)【歴史キング】

昭和史 1926-1945 / 半藤 一利 (著)
(平凡社ライブラリー) 文庫 – 2009/6/10

授業形式の語り下ろしで「わかりやすい通史」として絶賛を博し、毎日出版文化賞特別賞を受賞したシリーズ、待望のライブラリー版。過ちを繰り返さない日本へ、今こそ読み直す一べき1冊。
巻末に講演録『ノモンハン事件から学ぶもの』(28ページ)を増補。

昭和史戦後篇 / 半藤 一利 (著)
(平凡社ライブラリー) 文庫 – 2009/6/10

焼跡からの復興、講和条約、高度経済成長、そしてバブル崩壊の予兆を詳細に辿る、「昭和史」シリーズ完結篇。現代日本のルーツを知り、世界の中の日本の未来を考えるために必読の1冊。
巻末に講演録『昭和天皇・マッカーサー会談秘話』(39ページ)を増補。