
香川景樹(かがわ かげき)・鳥取の偉人
🟢江戸時代後期の歌人

鳥取県

こちらのコンテンツは【偉人録】郷土の偉人にて2006年8月02日に掲載された記事の引用です
鳥取藩士荒井小三次の子。
京都に上るまでの記録に不明な点が多く諸説あり。
1768(明和5年4月10日)-1843(天保14年3月27日) 76歳没。
江戸時代後期の歌人。号は桂園(けいえん)。
桂園派の創始者。
加茂季鷹(かもの すえたか)と共に『二大歌人』といわれる。
7歳で父が死去、親類である奥村定賢に養育される。
幼少の頃より和歌を学び、15歳の時には、「百人一首」の解説を書き上げたという。
18歳頃、京都に出て、香川景柄(かがわかげもと)に学び、養子となるが、後に解消、独立し、岡崎の住居の家号であり、景樹の雅号の桂園を名乗った。
景柄を通じて小沢蘆庵(ろあん)に師事し、その後、独自の歌風を創始し、桂園派と称されるようになった。
賀茂真淵門下の村田春海・加藤千蔭らの江戸派と論争を行い、真淵の『新学(にひまなび)』を批判した『新学異見(にいまなびいけん)』を著し、国学派が万葉集を理想としたのに対して、『古今集』の調べを重視した。「古今和歌集」の平明さとなだらかな調べを強調し、あるがままの純粋な感受性を重んじた。
「歌は理わるものにあらず。しらぶるものなり」。
景樹は、「歌は感動を言葉によって調べるもの。調べとは性情の声である」と独自の「しらべ」論を展開する。そして、この論をもとに歌壇革新を企図し「桂園派」を立てた。
その新風、桂園派は勢力を拡大し、幕末から明治期にかけて、御歌所和歌の主流となる。
門人が多く、なかでも熊谷直好(くまがい なおよし)、木下幸文(きのした たかふみ)は、桂園派の『二壁(にへき)』とよばれる。
歌集『桂園一枝』は、景樹の還暦を記念してまとめられた歌集である。景樹が自ら選んだ983首を収め、「しらべ」論を実作で示した和歌史上の代表的な歌集となった。
同郷の蘭学者・稲村三伯(いなむら さんぱく)との交友はよく知られている。
香川景樹に関する記念碑や場所
☑ 香川景樹宅址(京都市左京区岡崎東福ノ川町)
☑ 香川景樹歌碑・鳥取県立図書館入口(鳥取市尚徳町)
☑ 香川景樹墓所・聞名寺(京都市左京区東大路通仁王門上る)
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岩波文香川景樹 (コレクション日本歌人選 16) / 岡本 聡 (著)
単行本 – 2011/6/8

うたの森に、ようこそ。
柿本人麻呂から寺山修司、塚本邦雄まで、日本の代表的歌人の秀歌そのものを、堪能できるように編んだ、初めてのアンソロジー、全六〇冊。「コレクション日本歌人選」の第4回配本、香川景樹です。
景樹の和歌観を要約すれば、現代に生きている人間として折にふれ、ことにふれて心に感じたことを、そのまままっすぐに、平常使っている言葉によって表現すれば、それが歌だ、ということになる。—-林達也
香川景樹(かがわかげき)
江戸時代後期、明和から天保期にかけて活躍した歌人。小沢蘆庵(ろあん)の影響を受け、実物実景を重視した独自の歌論「調べの説」を提唱した。万葉の古調にも伝統歌学にも拘(かかわ)らず、古今風を標榜(ひょうぼう)する景樹の歌は、江戸派の村田春海(はるみ)・加藤千蔭(ちかげ)から「筆のさが」という歌論で非難を浴び、「大天狗」「切支丹」などとそしられた。しかし、しだいに門弟を増やし、彼の率いる桂園派(けいえんは)は、晩年には門弟一千人を数えるまでに拡大した。その歌風は明治時代の御歌所(おうたどころ)派までつながっている。