
10.赤松則良、上田寅吉、渡辺蒿蔵│父と呼ばれた日本人
🟤日本初の洋式軍艦と東洋一のドックを建造した3人の「日本造船の父」

東京都│静岡県│山口県
造船、鉄道、自動車、飛行機といった「乗り物」の開発によって、父の称号を得た人物は数多います。なかでも、海軍草創期に洋式軍艦を国産で建造し、明治期の産業近代化に多大な貢献をしたことから、「日本造船の父」と呼ばれる人物がいます。
赤松則良は、長崎海軍伝習所に学び、幕府軍艦操練所勤務を経て1860(安政7)年に咸臨丸で渡米します。さらにオランダ留学で物理、化学、理学、造船工学を学びました。1868(明治元)年に帰国して兵部省に出仕し、海軍兵学校大教授などを経て海軍中将に昇進。佐世保・横須賀の鎮守府司令長官を歴任します。また退役後は造船協会(現・日本船舶海洋工学会)を設立して初代会長を務めた造船業界の重鎮でした。
赤松は横須賀造船所長在任当時、軍艦4隻(清輝、天城、海門、天竜)を建造しますが、その設計図を完成させたのは上田寅吉でした。赤松が「わが造船史上の一大恩人」と称賛した上田はどんな人物なのでしょう。
1854(嘉永7)年11月3日、日露和親条約締結交渉が下田で行われ、翌日、安政東海地震による大津波でディアナ号が損壊しました。修理のために戸田(へだ)港を目指して駿河湾を北上するディアナ号は大シケに遭って流され、宮島村(現・静岡県富士市)沖で沈没します。ロシア遣日使節プチャーチン提督は幕府に代船建造を請願し、韮山代官・江川英龍(ひでたつ)が建造取締役に任命されました。このとき造船世話掛に選ばれた船大工棟梁7人のうちの一人が上田でした。
ロシア人乗組員から洋式技術の指導を受けて、上田たちは日本初の本格的洋式帆船を建造します。そして、翌年3月、2本マスト帆船、87トン、50人乗りの「ヘダ号」が進水しました。勝海舟は日本人の手によるこの快挙に惜しみない賛辞を呈しています。
そしてもう一人、「日本造船の父」と呼ばれた人物がいます。松下村塾で学んだ渡辺蒿蔵(こうぞう)です。英米留学を経て工部省に入った渡辺は、長崎造船局初代局長に就任し、1879(明治12)年、のちに戦艦武蔵などを建造した東洋最大の立神(たてがみ)ドックを完成させます。その功績を称え渡辺の故郷・萩市では、「松陰門下最後の生存者」として顕彰活動が進められました。渡辺は、郷里の人びとが「後世に語り継ぐべき人物」として強烈な想いを寄せる偉人なのです。
渡辺は96年の生涯を閉じるまで、50年にわたり松下村塾と師の吉田松陰について語り継ぎました。また、その遺品300点余を萩市へ寄贈しています。彼は「松陰門下の奇才」と呼ばれた異色の人物です。松陰は久坂玄瑞に宛てた手紙で「指導がよければひとかどの人物になるが下手をすれば駄目になる」と心配しています。さらに高杉晋作宛ての手紙にも「よくよく面倒を見てくれたまえ」と行く末を託しています。
渡辺は、昼間は働き、夜は血を吐く思いで勉強して、松陰の期待に見事に応えました。彼の生涯こそが、「松下村塾の問題児だった弟子を立身出世の道へ導いた」という松陰の教育者としての名を不動のものにしたのです。