
群馬県の偉人:関孝和 — 鎖国日本の土壌で花開いた「算聖」の奇跡

群馬県
「数学の多くの分野における理論的研究を行い、体系化を試みるなど卓越した業績を残した」。これは、江戸時代初期に日本独自の数学「和算」を飛躍的に発展させ、「算聖(さんせい)」と称された関孝和(せき たかかず)の偉業を評した言葉です。
群馬県藤岡市(江戸小石川生まれの説もあり)に生まれたとされる彼の生涯は謎に包まれていますが、その業績はイギリスのニュートン、ドイツのライプニッツと並び称され、「世界三大数学者」の一人として尊ばれています。鎖国という限られた情報の中で、いかにして彼が世界に先駆ける発見を成し遂げたのか、その奇跡の軌跡をたどります。
謎に包まれた生涯と和算への情熱
関孝和の生年は寛永14年(1637年)頃から寛永19年(1642年)頃と推測されており、上州藤岡(現在の群馬県藤岡市)または江戸小石川で生まれたとされています。武士の内山永明の次男として生まれ、後に甲府藩の勘定を勤める関五郎左衛門の養子となり、関孝和と名乗りました。彼は甲府藩主徳川綱重とその子綱豊(後の6代将軍徳川家宣)に仕え、幕府勘定方吟味役(会計検査官のような職務)や御納戸組頭(将軍家の財産管理を司る管理職)を務めるなど、その生涯を財政関係の職務に捧げたことが分かっています。
孝和が育った寛永年間は、日本人による最初の数学書が出版された時期と重なります。特に吉田光由の『塵劫記(じんこうき)』は当時の数学者たちを大いに刺激し、孝和もまたこの書から強い影響を受けました。彼はさらに進んで中国の数学書を独学で研究し、和算の基礎を築き上げていきました。
世界に先駆けた代数学の発展
関孝和の最大の功績は、中国から伝わった算木を用いる「天元術(てんげんじゅつ)」(代数学)に画期的な改良を加え、「点竄術(てんざんじゅつ)」と呼ばれる独自の筆算式の数学を確立したことです。これは、現代の数学にも通じる記号を用いることで、多変数の高次方程式を紙の上で自由に表現し、解くことを可能にしました。
彼の生涯唯一の著書とされる『発微算法(はつびさんぽう)』(1674年)は、その成果の一端を示したものです。この書には、多元連立方程式の解法がまとめられており、後のヨーロッパで発展する「行列式」に相当する概念を、ヨーロッパに先立つこと約200年も前に発見していたことが知られています。
さらに彼は、n次方程式の近似的な解を求める方法も考案しました。これは約100年後にイギリスのホーナーが発表した方法と同じであり、この方法を使って小数点以下11桁まで正確な円周率3.14159265359を計算しています。また、世界的に見ても初期の段階で数値的加速法(エイトケンのΔ2乗加速法)を適用し、円周率を小数点以下16桁まで正確に求めていたことも明らかになっています。
これらの業績は、当時の日本の鎖国体制下で、西洋数学の影響を受けることなく独自に生み出されたものであり、関孝和がいかに卓越した才能を持っていたかを物語っています。
算聖の学統とその後の和算
関孝和の死後も、彼の学統(関流)は目覚ましく発展し、和算の圧倒的な中心勢力となりました。多くの有力な和算家が関流に属するようになり、関孝和は和算の始祖として「算聖」と崇められました。
弟子たちの貢献と『大成算経』
関の門下生には、建部賢弘(たけべ かたひろ)や荒木村英(あらき むらひで)などがいました。特に建部賢弘は、関の『発微算法』を解説した『発微算法演段諺解』を刊行したり、関の数学研究の集大成である『大成算経(たいせいさんけい)』を編纂するなどして、関の業績を後世に伝える上で重要な役割を果たしました。彼らの共同研究によって、円理(円周率や弧の長さを求める理論)や行列式の整備など、関の未完の業績が発展していきました。
しかし、和算は実用的な計算術としての側面に重きを置いたため、ニュートンのように運動の法則や自然の本質を探求するような「大きな目的」へと発展することはありませんでした。和算の手法は高度であったものの、それが次の大きな学術的進展へと繋がることがなかった点は、惜しまれる和算の限界とも言われています。
明治以降の再評価と現代への影響
明治時代に入り、日本が西洋の数学を取り入れると、和算は急速に衰退しました。しかし、関孝和の業績は、西洋数学に匹敵する独自性と先進性を持っていたとして、明治以降も高く評価され続けました。群馬県で広く親しまれる「上毛かるた」でも、「和算の大家 関孝和」と詠まれるなど、郷土の誇りとしてその名が語り継がれています。
近年では、残された史料の厳密な分析が進み、これまで関の業績とされてきたものの中には、後世の和算家が関の権威を利用するために加筆・改変したものがあることも明らかになってきました。しかし、こうした研究によって、真に関が手がけた研究の本質がより明確になり、彼が「弧の長さを求める」というたった一つの問題を数十年かけて探究し続けた、その求道的な数学への姿勢が浮き彫りになっています。
関孝和ゆかりの地:算聖の足跡を辿る旅
関孝和の生涯は謎に包まれていますが、彼が生まれ育ったとされる群馬県藤岡市には、その偉業を称えるゆかりの地が残されています。
群馬県藤岡市:生誕の地と顕彰碑
- 関孝和銅像・算聖碑(群馬県藤岡市 市民ホール):藤岡市市民ホールには、和算の大家・関孝和の功績を称える銅像と算聖碑が建立されています。
- 諏訪(秋葉)神社の算額(群馬県藤岡市):江戸時代から明治にかけて、和算家たちが算術の問題や解法を記して神社仏閣に奉納した「算額」が、藤岡市内の諏訪(秋葉)神社に残されており、和算が人々の生活に根付いていた様子を伝えています。
- 関孝和の墓(群馬県藤岡市 光徳寺):藤岡市にある光徳寺には、関孝和の墓があり、その功績を偲ぶ人々が訪れます。
東京:終焉の地と研究の足跡
- 関孝和墓所(東京都新宿区 浄輪寺):関孝和は宝永5年(1708年)に病のためこの世を去り、牛込弁天町(現在の東京都新宿区)の浄輪寺に葬られています。
関孝和の遺産:未来へのメッセージ
関孝和の生涯は、私たちに「知の探求」と「独創性」の重要性を教えてくれます。鎖国という厳しい時代背景の中で、海外の知識にほとんど頼ることなく、自力で数学の未踏領域を切り拓いた彼の功績は、日本の科学技術の原点の一つとして、世界に誇れるものです。
彼の「大きな目的あってこその手法・手段である!引き継いだ手法・手段そのものを目的化してはいけない!」という言葉は、現代社会においても重要な示唆を与えています。私たちは、日々の仕事や研究において、目の前の手法や手段に囚われがちですが、その先にどのような大きな目的があるのかを常に意識し、本質的な価値を見失わないよう心がけるべきでしょう。
関孝和の偉業は、現代の数学者や科学者だけでなく、あらゆる分野で創造性を追求する人々にとって、尽きることのないインスピレーションの源です。彼の残した和算という豊かな文化遺産は、私たち自身の可能性を信じ、未知の領域に挑戦する勇気を与えてくれるに違いありません。
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