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リアルの世界に存在!?見聞色の覇気で100年以上の未来を視た!?『日本の電気工学の祖』志田林三郎(しだ りんざぶろう)

郷土博士

佐賀県

漫画ONE PIECE(ワンピース)。作中で初めて物凄い見聞色の覇気を披露したのが四皇ビッグマムの大幹部『シャーロット・カタクリ』です。見聞色の覇気を鍛え過ぎて『少し先の未来が見える!』と超新星の一角ベッジに恐れられた能力でした(以降、続々と登場しますが苦笑)。もちろんこれは漫画での話。現実世界において未来を視るような能力はありえません。

ところが100年以上も前に、今の未来を予測していた人間がいました。
その人物は、電子工学の発達によって電気が人々の生活の基盤になることを予見していました。しかもそれが日本人だと言うのです。
偉大で、尊敬すべき人物でありながら、あまり語られることがありません。

その人物とは
『日本の電気工学の祖』と言われる
志田林三郎(しだ りんざぶろう)です。

19世紀後半で、既に現在の電気通信システムのほとんどを予見していたというのです。

志田の生まれは現在の佐賀県多久市で幼い頃から学問に優れ、特に数学に強く計算の『神童』と呼ばれていた天才でした。有名なエピソードとして『饅頭』の話があります。母を手伝って饅頭売りをしていましたが、その時、暗算で釣り銭などを間違えることがなかったと言われています。この時、志田の年齢は、まだ6才でした。この活躍・評判は、大庄屋・木下平九郎の耳にも入り、なんと自らの家に住まわせて、読み書き算を習わせたのです。さらに近くに漢方医・尾形惟高がいて、志田の能力・将来性に目をつけ、学校で学問を学ばせます。
尾形の志田に対する評価は非常に高く、率先して、時の多久八千六百石の十一代邑主(領主) 茂族と引き合わせるほどでした。そして茂族にも直ぐに認められ。援助を受けて学問を続けることができた(家臣として東原庠舎本校で学ぶことが許された)のです。
東原庠舎では、志田の他にも優秀な人材が溢れており、志田は大きな刺激を受けました。
そして、そんな優秀な人材たちの中にあっても、志田の『神童』としての評価は落ちること無く、益々学問の知識・見識を深めていきます。その中には英語もありました。
この時、志田の英語教師であったのが、西洋技術を積極的に取り入れようとしていた石丸安世です。このキッカケもあって、語学を学ぶとともに西洋の文明に対しても大きな興味を持つこととなります。その大きな技術が『電気』というわけです。

佐賀藩知事の命もあって明治5年(1872)、上京。工部省工学寮(現在の東京大学工学部)に入学し、電信を学ぶことなります。ここでも志田の才能は衰え知らずで英国・物理学者W・E・エアトン教授から、当時の世界最先端の電気技術を学びます。
電信科を首席で卒業し日本初の工学士となりました。
そして志田の才能は世界へと飛び出します。26歳で政府留学生としてイギリス渡ります。
当時、欧米で文明発達が急速に進む中でもイギリスは最先端の工業技術を誇る国でした。
志田が飛び込んだグラスゴー大学は工業技術の中心的存在のグラスゴーにあり、最高水準レベルを求めて欧州のエリートたちが集っていました。
しかしながら志田の才能は、この世界の猛者たちにも決して引けをとりませんでした。そればかりか、世界的な学者であるウィリアム・トムソン教授(ケルビン卿)のもとで勉学に励んだ志田は大学内における最も優秀と認められた論文に送られる『クレランド賞』を受賞しました。トムソン教授は志田を「私が出会った数ある教え子のなかでベスト・スチューデントだ」と称しています。

帰国後、世界の最先端技術を元に、日本国内の技術革新のために技術者たちの指導や管理にも勤しみます。工務局次長と東京電信学校の校長を兼任し、志田は電話事業を官営にするために奔走。また日本初の工学博士にもなっています。

明治21年(1888)、榎本武揚会長のもと幹事として『電気学会』を設立しました。自身が学んできた『電気』を日本の生活基盤エネルギーにすべく立ち上がったのです。第一回電気学会で講演を行い、そこで、伝説となる「エレクトロニクス技術予測」の数々を口にします。

現代の言葉で例えるなら

「高速多重通信」
「長距離無線」
「海外放送受信」
「長距離電力輸送」
「電気鉄道・電気船舶・電気飛行機」
「光利用通信」
「電気自動記録(録音・録画)」


といった感じ。

現代の電気技術のほぼ全てを、100年以上も前のこの時に確かな知見から予見していたのです。もちろん先駆者・指導者としてだけでなく、技術者・研究者として志田は自らの研究も怠りません。

明治18年(1885)の隅田川での実験は、その中の1つとして有名であり、イタリアのマルコーニが無線通信機を完成させる10年以上も前に『導電式無線通信』の実験を行っていました。ではなぜ実験だけで終わったか!?

それは志田が志半ばの36歳という若さでこの世を去ってしまったからです。

結核が原因とされていますが、過労死であったという説もあります。

輝かしい経歴の一方で、組織の権力闘争などで思うように研究が進まず、自らの理想と
現実のギャップに苦労し、予期せぬ部分で労力を費やしてもいました。そして過労がたたった・・・という説です。

若くして旅立ってしまった志田ですが、人生に情熱を燃やし、ずっと先の未来を見通して困難に逃げずに立ち向かう賢人でした。ちなみにこのような偉人である志田ですが、意外にもNHK大河ドラマで登場したことがありません。なぁぜなぁぜ??

過小評価の知られざる偉人・・・
それが志田林三郎なのです

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