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山口県の偉人:狩野芳崖 — 困窮の時代を乗り越え、近代日本画の夜明けを告げた天才画師

郷土博士

山口県

「人生各自独立の宗教なかるべからず。美術家の宗教は美術宗あり、復た何ぞ他に之を求めんや」

この言葉は、幕末から明治にかけての激動の時代に、日本画の伝統と西洋画の革新を融合させ、近代日本画の父と称された狩野芳崖(かのう ほうがい)の揺るぎない信念を表しています。

長府藩の御用絵師の家に生まれた彼は、幼少期から画才を発揮し、狩野派の伝統を極めながらも、常に新しい表現を追求しました。明治維新後の困窮、そしてフェノロサや岡倉天心との運命的な出会いを通じて、日本画の未来を切り拓くという使命を自らに課し、その絶筆となった『悲母観音』は、日本画史に燦然と輝く金字塔となりました。彼の生涯は、まさに伝統を守りつつも、時代に挑み続けた一人の画家の壮絶な物語です。


才能の開花と伝統への挑戦

狩野芳崖は、1828年(文政11年)1月13日、長府藩(現在の山口県下関市)の御用絵師である父・狩野晴皐(かのう せいこう)の長男として生まれました。幼名は幸太郎。代々続く狩野派の画家に生まれた彼は、幼い頃から父の厳しい手ほどきを受け、非凡な画才を示しました。10点近く現存する少年時代の作品からも、その早熟な才能をうかがい知ることができます。

19歳になった1846年(弘化3年)、藩の許可を得て江戸に上り、木挽町狩野家(江戸狩野)に入門。狩野雅信(まさのぶ)のもとで、10年間にわたり画の修行に励みました。この画塾では、彼と同じ日に門を叩いた7歳年下の橋本雅邦(はしもと がほう)と出会い、生涯にわたる盟友となります。二人は、その卓越した画力から「竜虎」「勝川院の二神足」と称され、門下生の中でも傑出した存在でした。

しかし、芳崖は旧来の狩野派の筆法に満足することはありませんでした。彼は「探幽・常信の糟粕(かす)をなめず」(狩野派の大家の模倣に終わらない)と公言し、師である雅信とも対立して破門されかけるなど、常に自らの芸術的探求心を優先しました。また、この頃、佐久間象山の塾が画塾の向かいにあったことから、佐久間とも出会い、その薫陶を受けたと言われています。

幕末の動乱と画家の苦悩

御用絵師として長府藩から30石の禄を給され、安定した生活を送っていた芳崖ですが、幕末の動乱が彼の運命を大きく変えます。彼の故郷である下関は、1863年(文久3年)と1864年(元治元年)に起きた欧米列強との武力衝突(下関事件、馬関戦争)の舞台となり、芳崖自身も藩命により、戦場となった関門海峡の測量に従事しました。

明治維新後、廃藩置県によって藩の御用絵師という後ろ盾を失った芳崖は、困窮の時代を迎えます。武士の商法で養蚕業を試みるも失敗し、生活のためには画業を続けながらも、測量図の仕上げなど、不本意な仕事にも従事しました。この頃の作品は、大衆的な画題や太く柔らかい線で描かれており、売ることを目的とした苦しい生活がうかがえます。

50歳になった1877年(明治10年)、困窮を極めた芳崖は、友人の勧めで故郷を離れ、再び上京。しかし、東京でも職がなく、日給30銭で輸出用の陶磁器の下絵を描くなどして糊口をしのぐ日々が続きました。

運命的な出会いと新日本画の創造

芳崖の不遇な状況は、盟友・橋本雅邦の厚情によって転機を迎えます。雅邦の紹介で島津家に雇われ、3年をかけて『犬追物図(いぬおうものず)』を制作し、ようやく生活の安定を得ることができました。

そして、彼の画業を根本から変える、運命的な出会いが訪れます。それは、日本美術の伝統を深く評価していたアメリカ人哲学者、アーネスト・フェノロサと、その教え子である思想家、岡倉天心(おかくら てんしん)でした。

フェノロサは、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃れていた日本の伝統美術の素晴らしさを再発見し、日本画の伝統に西洋画の写実や空間表現、鮮やかな色彩を取り入れた「新・日本画」の創生を芳崖に託しました。

芳崖は、フェノロサの期待に応えるべく、新画風の制作研究に没頭。第二回内国絵画共進会に出品した『桜下勇駒図』でフェノロサに認められると、鑑画会に参加し、西洋顔料を用いた『仁王捉鬼図(におうそっきず)』で一等賞を受賞します。この作品は、西洋画の写実性と、日本画の筆法が見事に融合したものであり、西洋画一辺倒に傾きかけていた日本の美術界に大きな衝撃を与えました。

畢生の名作『悲母観音』と絶筆

芳崖は、この功績が評価され、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の教官に任命されました。彼は、東京美術学校の開校を、日本画の未来を託す場所として強く待ち望んでいました。しかし、肺を病んでいた芳崖に残された時間は、わずかでした。

彼は、絶筆となった『悲母観音』を、肺病の苦しみに耐えながら、息を殺して金砂を蒔き、3年もの歳月をかけて描きました。この作品には、観音様が水瓶から幼子に命の水を注ぎ、生命誕生の神秘を描くという、宗教的な観念を超越した普遍的なテーマが込められています。この絵は、明治以降、唯一の国宝指定を受けるなど、日本画史に燦然と輝く金字塔となりました。

芳崖は、『悲母観音』を描き上げたわずか4日後、1888年(明治21年)11月5日、東京美術学校の開校を待たずに死去しました。享年61歳。岡倉天心は、彼の死を悼み、「君が生前に於いて尽くされたる其功績を思い、追慕の至りに堪えず」と追悼の辞を述べています。

狩野芳崖ゆかりの地:画業の足跡を辿る旅

狩野芳崖の足跡は、彼の故郷である山口県下関市から、画業を確立させた江戸、そして最期の地である東京へと繋がっています。

  • 狩野芳崖旧宅跡地(山口県下関市長府印内町):芳崖が生まれ育った場所を示す石碑が建っています。
  • 狩野芳崖銅像(山口県下関市覚苑寺):彼の父・狩野晴皐の菩提寺である覚苑寺には、芳崖の座像が建立されています。
  • 狩野芳崖銅像(山口県下関市立美術館):下関市立美術館の敷地内にも、彼の功績を称える銅像が建っています。
  • 下関市立美術館(山口県下関市長府黒門東町):地元ゆかりの画家の作品を多数収蔵しており、芳崖の作品も展示されています。
  • 忌宮神社(山口県下関市長府宮の内町):彼が奉納した『武内宿禰投珠図』や『繋馬図』の絵馬が保存されています。
  • 長安寺(東京都台東区谷中):芳崖の墓所があり、その功績を称える「狩野芳崖翁碑」が建っています。

狩野芳崖の遺産:日本画の未来を築いた精神

狩野芳崖の生涯は、私たちに「伝統を守りながらも、時代に合わせて革新すること」の重要性を教えてくれます。彼は、旧来の狩野派の画風に満足せず、西洋画の写実性や色彩を取り入れることで、日本画の新たな可能性を切り拓きました。

彼の「美術家の宗教は美術宗あり」という言葉は、芸術家が自らの作品にすべてを捧げる求道的な精神を表現しています。貧困や時代の波に翻弄されながらも、最後まで絵筆を置くことなく、日本画の未来を信じて描き続けた彼の姿は、現代に生きる私たちに、自らの使命を貫くことの尊さを教えてくれます。

芳崖の功績は、単に優れた作品を遺したことだけではありません。彼がフェノロサや岡倉天心と共に、東京美術学校の創立に尽力したことで、職人的な徒弟制度から、学校での教育制度へと、画家の育成方法が変わっていきました。彼は、自らが教壇に立つことは叶いませんでしたが、その志は、後の日本画家たちに脈々と受け継がれ、近代日本画の夜明けを告げる光となったのです。

(C)【歴史キング】

Information

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本のご紹介

狩野芳崖と四天王 / 野地耕一郎 (編集), 平林彰 (編集), 椎野晃史 (編集)

大型本 – 2017/9/21

400年続いた狩野派の最後を飾る狩野芳崖には、4人の高弟がいました。
岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲、本多天城の4人です。
彼らは芳崖の最後の弟子として、近代日本画の原点といわれる芳崖の絶筆《悲母観音》の制作を間近で目撃し、「芳崖四天王」と称され、一目置かれる存在でした。
しかし、東京美術学校開校前に芳崖が没すると、彼らはなぜか表舞台から消え、忘れ去られた存在となってしまいました。
その「芳崖四天王」にスポットを当てたのが本書です。
彼らはじつは、近代日本画の本筋とは異なる「もうひとつの水脈」を形成し、狩野派のその後を伝えた重要な存在だったのです。
その知られざる画業を紹介するとともに、芳崖とともに生きた橋本雅邦、木村立嶽、狩野友信の作品や、芳崖亡きあとを牽引した岡倉天心の日本美術院に属する横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月、木村武山の作品を紹介します。
時代に翻弄されて変容し消えゆく狩野派の残光と、近代化を克服してキラ星のごとく日本画の歴史に燦然と輝く大家たちの代表作(重要文化財3点含む)を、図版満載で堪能できる一冊です。

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もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派 (アート・ビギナーズ・コレクション) / 安村 敏信 (著)

単行本 – 2006/12/20

瀟洒端麗な画風で狩野派を一変させた江戸狩野派の祖狩野探幽と、以降に活躍した選りすぐりの絵師15人の生涯と作品。血縁関係で結ばれた日本絵画史上最大の絵師集団「狩野派」の流れを、江戸狩野派を軸にダイナミックにたどる。狩野派はつまらないという従来の見解を打破する魅力と個性にあふれた作品ばかり。
一門の一大事業、二条城障壁画制作の裏側や御用絵師の暮らしぶり、弟子の教育、京狩野の動向など、狩野派の全貌に迫る特集も必見。
内容=序幕:狩野派前史/第1部:狩野探幽/第2部:江戸狩野の15人(尚信…久隅守景/英一蝶/常信/典信…一信/河鍋暁斎/芳崖)

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