
第2回:日本人の「国家意識」と「責任」はどこにあるのか?
国境と文化が一致する「自然生成国家」ニッポン
「日本人は国家意識が強いのか、弱いのか?」
これは古くから議論されてきた問いです。しかし、そもそも日本という国家の成り立ち自体が、欧米諸国とは全く異なると、山本七平氏は指摘します。この独特な国家の形成過程を理解しなければ、日本人の国家観、ひいては戦前の「戦争」と戦後の「平和」に対する意識の変遷を正しく読み解くことはできません。近代国家の形成は、多くの場合、非常に作為的で意図的なものでした。例えばヨーロッパの多くの国は、複数の言語や文化を持つ民族が、歴史の中で意図的に「一つの国」としてまとまりました。スイスは一つの国ですが、スイス語という言葉はなく、ドイツ語、フランス語、イタリア語が話されています。国民は「スイス人」という意識を持っていても、言葉が違うのは当たり前だと考えているのです。これは、日本人からすると非常に不思議な感覚です。なぜなら、私たちは国境、言語圏、文化圏がほぼ一致する「自然生成的国家」に住んでいるからです。私たちは「日本人になる」と決意したわけではなく、ただ日本に生まれたから日本人であり、日本が滅びることを想像することすら難しいほど、国と自分が一体化している感覚を持っています。この感覚は、海外から見ると非常に独特なものです。日本語が堪能なあるベルギー人神父は、日本人の特徴について「どこへ行っても日本語が通じると信じ切っている点」だと語りました。彼の故郷ベルギーでは、同じ国なのに言葉が通じない地域があるため、日本人の「無意識の思い込み」に驚いたのです。
このように、日本人は「国家とは、人為的に作られたものだ」という意識が希薄です。だからこそ、「国家に対して、自分がどういう態度をとるべきか」という問いを、あまり真剣に考えずに済んでしまったのかもしれません。
「軍服への忠誠」に驚いた日本人、その意識の乖離
日本人の国家意識の特殊性は、旧帝国陸軍軍人であった韓国出身の洪思翊(ホン・サイク)中将のエピソードからも読み取ることができます。洪中将は、日本の植民地支配下で育ちながらも、日本の士官学校を卒業し、帝国陸軍の将校となりました。敗戦後、彼の副官であった佐藤さんが「これで母国も独立ですね。おそらく帰国したら、新しい韓国軍の総司令官になられるのでしょう」と尋ねると、洪中将は静かにこう答えました。
「私は今、帝国陸軍の軍服を着ている。自分の忠誠というのは軍服への忠誠であるから、この軍服を着ている以上、そういうことは一切考えない」
この言葉に、佐藤さんは非常に驚いたと言います。なぜなら、多くの日本人兵士にとって、軍服は単なる制服であり、それ自体に忠誠を誓うという意識はなかったからです。洪中将の言葉は、「自分が何者であるか」を、所属する組織との関係性で明確に定義する、近代的な国家意識の表れでした。山本氏もまた、自分自身が軍隊にいた際、軍服への忠誠などという意識は全くなかったと語っています。私たちは、「何となく」軍隊に入り、「何となく」日本国民であることに疑問を持たずに生きてきました。これは、戦前の日本が、天皇という絶対的な象徴を中心に、誰もが「自分も日本の一部である」と無意識のうちに感じていたからです。この「無意識の意識」が、戦後の民主主義社会においても、私たちを突き動かす根源となっているのです。この意識のあいまいさは、反政府なのか、反国家なのか、その違いすら明確でないという問題を生み出しています。国家を人為的に作ったという意識を持たないため、政府への批判が、まるで共同体そのものへの反逆であるかのように捉えられてしまうのです。これは、国家への批判と反逆を明確に区別する欧米の考え方とは大きく異なります。
「道理のおすところ」が法律だった鎌倉時代
日本人の国家観をさらに深く探るには、鎌倉時代に制定された『貞永式目』を読み解く必要があります。これは、武士の慣習をまとめた日本固有の法律で、西暦1232年に北条泰時が制定しました。この法律の最大の特徴は、「いかなる本文にすがりたる事候はねども(何ら法律上の根拠はないが)、ただ道理のおすところを記した」という言葉に象徴されています。つまり、法律を作る際に、天皇からの勅令や中国の思想といった「外部の権威」に頼るのではなく、「すでに存在する社会の道理」をそのまま書き記したのです。これは、欧米や中国のように、国家の権威や正統性を明確な理屈で論証する「正統論(レジティマシー)」とは全く異なる発想です。日本は、国家というものを、人為的な理屈で作るものではなく、まるで自然に生まれてきた「一つの体」のようなものだと捉えていました。この考え方は、その後の日本人の国家意識に深く浸透し、明治時代まで約700年間も続きます。また、この時代には「器量」という独特の実力主義がありました。血縁や家柄ではなく、個人の能力や徳を評価するこの考え方は、日本の近代化を急速に進める原動力となりました。しかし、その一方で、「能力なき者は財産を持っていられない」という厳しい競争社会、そして「下剋上」を肯定するような側面も持ち合わせていました。
「一揆」が組織を動かす、日本の不思議な構造
この「自然生成国家」の感覚は、日本の組織のあり方にも影響を与えてきました。山本氏は、日本の組織が持つ独特の構造を、武士の時代に生まれた「国人一揆」になぞらえています。これは、地方の小領主たちが、将軍の命令よりも自分たちの集団的なルール(集団安全保障)を優先し、自分たちで秩序を守ろうとするものでした。その規約の中には、しばしば「たとへ公方の命なりといへども、一揆に諮り、多勢によるべし」という一文が見られます。これは「たとえ将軍の命令であっても、まずは我々で話し合い、多数決で決めよう」という意味です。この規約が示すように、日本の組織では、最高権力者の命令よりも、その場の「空気」や「集団の合意」が優先される傾向があります。これは、誰が最終的な「決断」を下したのかが曖昧になる、日本独特の「責任の所在の不明確さ」を生み出します。そして、山本氏は、この「一揆」的な構造が、戦前、明治時代に作られたヨーロッパ的な組織を機能不全に陥らせ、「軍部の暴走」につながっていったと指摘しています。
「明治体制」と「朱子学」が果たした役割
しかし、日本の近代化が成功した背景には、徳川時代に中国から伝わった朱子学が果たした重要な役割があります。それまでの日本では、北条泰時が上皇を島流しにするなど、将軍が天皇を差し置いて実権を握ることは当たり前でした。しかし朱子学が伝わると、儒学の思想家たちは天皇こそが「絶対的な正統性」を持つべき存在だと論証し始めます。これは、幕府の政権が「非合法的」であるという意識を人々に植え付け、後の明治維新へとつながる大きな原動力となりました。この朱子学の思想が、天皇という「絶対」と、それを支える「個人の規範」を作り上げたことで、日本はヨーロッパの組織論を導入する土台を築くことができました。しかし、この「朱子学的な規範」と「ヨーロッパ的な組織」は、少々付け焼き刃だったようです。時代が進むにつれ、日本の国家は、ヨーロッパ的な組織論を超えた「一揆」的なものが、実質的に内部で出来上がっていくという、不思議な形になっていきます。
戦後の「先祖返り」と、未解決の課題
敗戦後、日本は「民主主義」という新しい価値観を導入しました。しかし、山本氏は、この戦後社会が、実は戦前の「自然生成国家」の感覚に「先祖返り」していると指摘します。それは、国民が国家を、政治や法律によって運営されるべき「人工的」な存在として捉えるのではなく、まるで自然に存在する「共同体」として捉えていることです。この「先祖返り」は、戦後日本が抱えるさまざまな問題の根源となっています。
- 責任の所在の曖昧さ: 国家の意思決定が誰によって行われているのか、その責任がどこにあるのかが不明瞭なままです。
- 「空気」の支配: 法律や思想よりも、その場の「空気」が優先される傾向が強まっています。
- 「他人の考え」での行動: 自分の頭で考えることを放棄し、マスメディアや世論といった「他人の考え」で物事を判断する傾向が強まっています。
これらの課題は、戦後の日本が、戦前の反省を十分に活かせていないことを示しています。民主主義社会では、国民一人ひとりが主体的に考え、自らの意思で国を選択する意識が不可欠です。しかし、日本人は未だに「自然生成国家」の感覚から抜け出せず、その結果、政治体制や法律について真剣に考える機会を失ってしまっているのです。
(C)【歴史キング】

昭和史 1926-1945 / 半藤 一利 (著)
(平凡社ライブラリー) 文庫 – 2009/6/10

授業形式の語り下ろしで「わかりやすい通史」として絶賛を博し、毎日出版文化賞特別賞を受賞したシリーズ、待望のライブラリー版。過ちを繰り返さない日本へ、今こそ読み直す一べき1冊。
巻末に講演録『ノモンハン事件から学ぶもの』(28ページ)を増補。

昭和史戦後篇 / 半藤 一利 (著)
(平凡社ライブラリー) 文庫 – 2009/6/10

焼跡からの復興、講和条約、高度経済成長、そしてバブル崩壊の予兆を詳細に辿る、「昭和史」シリーズ完結篇。現代日本のルーツを知り、世界の中の日本の未来を考えるために必読の1冊。
巻末に講演録『昭和天皇・マッカーサー会談秘話』(39ページ)を増補。