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石川県/富山県の偉人:高峰譲吉 — 「近代バイオテクノロジーの父」タカジアスターゼとアドレナリンを発見した世界的化学者

郷土博士

石川県│富山県

「いかにして発明国民となるべきか」

この問いは、日本の近代化が始まったばかりの時代に、化学者、事業家、そして国際人として世界を舞台に活躍した高峰譲吉(たかみね じょうきち)が、生涯をかけて追求したテーマです。富山県高岡市に生まれ、石川県金沢市で育った彼は、留学先のアメリカで、消化酵素「タカジアスターゼ」と、ホルモン「アドレナリン」という、二つの世紀の大発見を成し遂げ、世界の医学とバイオテクノロジーの発展に多大な貢献をしました。

幼少期の神童からイギリス留学へ

高峰譲吉は、1854年(安政元)年、越中国高岡(現在の富山県高岡市)の漢方医の長男として生まれました。幼い頃から外国語と科学への才能を見せ、2歳の時に父が洋学校の教授となったため、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)に移住します。12歳で加賀藩から長崎への留学生に選ばれ、英語を学びます。その後、京都の兵学塾、大阪の適塾で学び、さらに化学を学ぶため、大阪舎密学校へと進みました。1874年(明治6年)、20歳で工部大学校(後の東京大学工学部)に第一期生として入学し、1879年(明治12年)に首席で卒業。彼の才能は早くから政府にも認められ、翌年には工部省の命令でイギリスへと留学します。グラスゴー大学で3年間、応用化学を学び、日本の化学工業の未来を担う人材として期待されました。

東京人造肥料の創設と、タカジアスターゼの発見

帰国後、農商務省に入省した高峰は、1884年(明治17年)にアメリカのニューオーリンズ市で開かれた万国工業博覧会に派遣されます。彼は、ここで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約するとともに、日本の農業改良に不可欠な燐鉱石を買い付け、持ち帰りました。そして1886年(明治19年)、彼は東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立。日本の農業に大きな変革をもたらす、日本初の化学肥料の製造を開始しました。しかし、彼の最大の功績は、この後、アメリカで生まれることになります。1890年(明治23年)、日本の麹(こうじ)をウイスキーの醸造に使う「高峰式元麹改良法」がアメリカの酒造会社に採用され、高峰は渡米します。この醸造法の製造過程で、高峰はデンプンを分解する酵素の抽出に成功。1894年(明治27年)、この強力な消化酵素を「タカジアスターゼ」と命名し、特許を取得しました。このタカジアスターゼは、酵素を利用した世界で最初の医薬品であり、世界の医学界に大きな衝撃を与えました。

アドレナリンの発見と「近代バイオテクノロジーの父」

タカジアスターゼの発見後、高峰は製薬会社三共の創業者の一人となり、さらに研究を進めます。そして1900年(明治33年)、牛の副腎から、血管を収縮させ、止血作用を持つ物質「アドレナリン」の結晶化に世界で初めて成功しました。このアドレナリンは、ホルモンを世界で初めて抽出した例であり、外科手術の止血剤や強心剤として、その後の医学の発展に不可欠なものとなりました。彼のこの偉業は、化学と生物学を融合させた、今日の「バイオテクノロジー」の先駆けであり、彼が「近代バイオテクノロジーの父」と称される所以です。しかし、このアドレナリンの発見を巡っては、アメリカの研究者ジョン・ジェイコブ・エイベルから盗作の非難を受け、長年にわたり正当な評価がなされませんでした。しかし、107年後の2006年(平成18年)、日本国内では彼の功績が認められ、正式に「アドレナリン」の呼称が採用されることになりました。

「無冠の大使」と理化学研究所の設立

高峰は、化学者、実業家として成功を収める一方で、その財産を惜しみなく国際親善のために投じました。彼は、日露戦争後、日米関係の悪化を憂慮し、1905年(明治38年)にはニューヨークに日本倶楽部(Nippon Club)を設立。日米の政財界の要人が集う交流の場を設けました。また、ワシントンD.C.のポトマック川に桜並木を寄贈する際には、東京市長・尾崎行雄(おざき ゆきお)と共に尽力し、日米の友好の象徴となる桜の大使として活躍しました。これらの功績から、彼は「無冠の大使」と呼ばれました。さらに、彼は日本にも世界に通用する研究機関が必要だと考え、理化学研究所の設立に奔走。1917年(大正6年)、理化学研究所が設立されると、彼はその理事に就任し、日本の科学研究の発展に貢献しました。

高峰譲吉ゆかりの地:近代科学の足跡を辿る旅

高峰譲吉の足跡は、彼の故郷である富山と石川から、アメリカ、そして東京へと繋がっています。

  • 高峰公園・高峰譲吉生誕地(富山県高岡市):高峰が生まれた場所に整備された公園です。園内には顕彰碑と胸像が建っています。
  • たかしん高峰譲吉記念館(富山県高岡市):高峰公園に隣接する高岡信用金庫本店別館内にあり、高峰の功績を紹介する展示を行っています。
  • 金沢市立ふるさと偉人館(石川県金沢市):高峰譲吉の業績を伝える資料を多数展示しています。
  • 高峰譲吉住居跡(金沢市武蔵町・旧石屋小路):幕末から1872(明治5)年まで高峰家があった場所、現在ビルの壁に「高峰譲吉住居跡」の銘板がはめ込まれています。
  • 高峰譲吉旧邸跡(金沢市大手町・旧梅本町):1872(明治5)年に高峰家が移った場所、現在は道路脇に「高峰譲吉旧邸跡」の石柱が建っています。当時の建物の一部は「黒門前緑地」に移築されており、見学することができます。
  • 旧高峰邸/(金沢市丸の内・黒門前緑地):金沢城の黒門前にある「旧検事正官舎」横に、旧・梅本町にあった高峰邸の一部が移築され、「黒門前緑地」として一般公開されています。2004(平成16)年にアメリカから里帰りした桜も植樹されています。
  • 金沢21世紀美術館金沢大学医薬保健学域医学類大乗寺丘陵公園金沢城公園: 高峰がアメリカに贈った桜の子孫が植樹されており、日米親善の象徴が今も花を咲かせています。
  • 化学肥料創業記念碑(東京都江東区釜屋堀公園):高峰が日本初の化学肥料を製造した東京人造肥料会社の工場跡地に建っています。
  • 高峰譲吉墓所(東京都港区青山霊園):彼の遺骨が眠る墓所です。

高峰譲吉の遺産:現代社会へのメッセージ

高峰譲吉の生涯は、私たちに「情熱と知性を融合させる」ことの重要性を教えてくれます。彼は、化学という学問を単なる知識に留めず、タカジアスターゼやアドレナリンという、人々の命を救う医薬品へと昇華させました。これは、机上の空論ではなく、現実社会に役立つ「実学」を追求した彼の精神の賜物です。彼の「十大発明家」として名を連ねるほどの偉業は、単なる運や才能によるものではありません。そこには、化学者としての徹底した探求心と、事業家としての現実を見据えた実行力、そして何よりも、世界の人々の幸福を願う強い人間愛がありました。高峰の物語は、一人の人間が、その知性と情熱によって、科学の発展に貢献し、人々の暮らしを豊かにし、さらには国と国との友好の懸け橋となることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、挑戦する勇気と、社会貢献という真の豊かさを追求する智慧を、力強く語りかけているのです。

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