大分県の偉人:広瀬淡窓 — 門下生3000人を育てた、日本最大級の私塾「咸宜園」の創設者

大分県
「休道他郷多苦辛、同袍有友自相親」(他郷での勉学に苦労は多いと言うなかれ、そこには苦労を共にする仲間がいて、自然と仲良くなるのだから)
この言葉は、江戸時代の儒学者、教育者である広瀬淡窓(ひろせ たんそう)が、自らの私塾「咸宜園(かんぎえん)」の門下生に贈った漢詩の一節です。豊後国日田(現在の大分県日田市)の商家の長男として生まれた彼は、家業を弟に譲り、生涯を教育に捧げました。その塾には、身分や年齢、出身地を問わず、日本各地から3,000人以上もの若者が集まり、高野長英や大村益次郎といった、幕末から明治にかけて活躍する多くの俊英を輩出しました。
幼少期の神童から教育者への道
広瀬淡窓は、1782年(天明2年)、豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれました。幼い頃から聡明で、10歳で漢詩や文学を学び始め、13歳で藩の代官に『孝経』を講義するなど、その才能は早くから認められていました。しかし、19歳の時に大病を患い、一時は命も危ぶまれるほどの療養生活を余儀なくされます。この病が原因で、彼は家業である商業を諦め、弟の久兵衛に家督を譲りました。その後、一度は医者の道を志しますが、「学問教授こそ天命だ」という医師・倉重湊(くらしげ みなと)の言葉に心を動かされ、学者・教育者としての道を歩むことを決意します。
「三奪の法」と「月旦評」:先進的な教育理念
淡窓は、24歳になった1805年(文化2年)、日田の長福寺の一角を借りて塾を開き、これを「桂林荘(けいりんそう)」、そして「咸宜園(かんぎえん)」へと発展させました。「咸宜」とは、「ことごとくよろし」と読み、「どんな階級の出身者でも学ぶことができる」という意味が込められています。
咸宜園の教育理念は、当時の封建社会の常識を覆す、極めて先進的なものでした。
- 三奪の法: 入塾の際には、身分、年齢、学歴を一切問わないという制度を導入。これにより、武士の子弟だけでなく、農民や商人といった庶民にも教育の門戸が開かれました。
- 月旦評(げったんひょう): 毎月の学業の成果を、19段階の等級で評価する制度です。身分や家柄ではなく、純粋に個人の実力と努力によってのみ昇級できるという、徹底した実力主義を貫きました。
- 「詩学」の重視: 彼は、漢詩や作詩をカリキュラムに取り入れ、物事の本質を見抜く「引き算」の思考法を門下生に教えました。
淡窓は、塾生一人ひとりの個性を尊重し、その才能を伸ばす教育を心がけました。彼の教育にかけた情熱は、生涯で3,000人以上もの門下生を集め、咸宜園を日本最大級の私塾へと発展させました。
敬天思想と「万善簿」:儒学者の信念
淡窓は、自らの思想を『約言(やくげん)』という著作で体系化しました。彼の思想の核心は、「敬天思想」です。これは、「天」という絶対的な存在を畏れ敬い、その「天道」に沿って生きることが、人間にとって最も大切な道であるという考え方です。この思想は、後に西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」にも影響を与えたと言われています。彼は、この「敬天思想」を実践するために、「万善簿(まんぜんぼ)」という独自の記録をつけました。これは、良いことをしたら白丸、悪いことをしたら黒丸をつけ、白丸から黒丸の数を引いたものが1万になることを目指すものでした。過食や妄想、蚊を殺すことまでも悪行と見なし、厳しい基準を自らに課し、生涯にわたって自身の行動を律し続けました。
咸宜園の遺産と後世への影響
淡窓の咸宜園は、彼が亡くなった後も、弟の広瀬旭荘(きょくそう)らによって運営され続け、明治30年(1897年)に閉鎖されるまでの92年間で、4,000人を超える塾生を輩出しました。その門下生の中には、高野長英(蘭学者)、大村益次郎(兵学者)、清浦奎吾(きようら けいご、首相)といった、幕末から明治にかけて活躍した多くの偉人がいました。彼らは、咸宜園で学んだ実力主義と教育理念を胸に、それぞれの分野で日本の近代化に貢献しました。
広瀬淡窓ゆかりの地:教育者の足跡を辿る旅
広瀬淡窓の足跡は、彼の故郷である大分県日田市に集中しています。
- 咸宜園跡(大分県日田市淡窓2):淡窓が開いた私塾の跡地で、国指定史跡となっています。
- 桂林荘公園(大分県日田市城町1-305-1):「咸宜園」の前身である「桂林荘」の跡地に作られた公園です。敷地内には淡窓の石像や詩碑が建てられています。
- 廣瀬資料館(廣瀬淡窓旧宅)(大分県日田市豆田町9-7):淡窓の生家であり、彼の著作や遺品を展示しています。
- 広瀬淡窓墓所・長生園(大分県日田市中城町):墓所は生前から淡窓自らが選定し「長生園」と呼称。咸宜園から約200m、廣瀬資料館からは約300mの場所にある。
広瀬淡窓の遺産:現代社会へのメッセージ
広瀬淡窓の生涯は、私たちに「教育は最大の善行である」という信念を教えてくれます。彼は、身分や階級にとらわれず、誰もが学べる環境を創り、個人の才能を伸ばすことこそが、社会全体の発展に繋がると考えました。彼の教育理念は、現代の教育制度や、ダイバーシティ(多様性)が叫ばれる社会において、その重要性を増しています。誰もが能力を発揮できる社会を築くためには、生まれながらの環境に左右されず、個人の実力と努力を評価する仕組みがいかに大切かを、彼は身をもって示してくれました。広瀬淡窓の物語は、一人の教育者が、その情熱と知性によって、時代の常識を乗り越え、多くの人々の人生を豊かにすることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、学ぶことの大切さと、社会貢献という真の豊かさを追求する智慧を、力強く語りかけているのです。