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沖縄県の偉人:謝花昇 — 沖縄民権運動の父が築いた、「平等」への不屈の道

「長い間、虐げられてきた農民を救うために戦う」

この強い決意を胸に、沖縄県民が本土の人々と同じ権利(参政権)を獲得するため、その短い生涯を捧げたのが、謝花昇(じゃはな のぼる)です。

東風平間切(現在の八重瀬町)の貧しい農家に生まれた彼は、差別と逆境を跳ね返し、沖縄初の農学士として県庁に奉職。しかし、旧特権階級を優遇する県政と対立し、官僚の地位を捨てて「沖縄倶楽部」を結成しました。その運動は、全財産を投じても志半ばで潰えてしまいますが、彼の勇気ある行動は、沖縄の民衆の権利意識を覚醒させた「沖縄民権運動の父」として、今も語り継がれています。

幼少期の苦学と、沖縄初の「農学士」へ

謝花昇は、1865年(慶応元年)、東風平間切(現在の八重瀬町)の農家に、父・勝太郎の長男として生まれました。幼い頃から頭脳明晰でしたが、「百姓に学問はいらぬ」という父の反対にあい、母の説得があるまで、教室の外から授業を聞くという苦学を強いられました。この逆境を乗り越えて勉学に励んだ昇は、17歳で沖縄師範学校に進学。師範学校には士族の子どもがほとんどを占める中、農民出身の昇は「いなか者」と蔑まれながらも、負けじ魂で優秀な成績を収めました。

📌 沖縄初の県費留学生

彼の才能は県庁にも認められ、1882年(明治15年)、第1回県費留学生5名の中の唯一の平民出身者として上京。学習院中学科、東京山林学校を経て、帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)に進学しました。上京した昇は、中江兆民の教えを受けるなど、自由民権運動の思想に触れ、大きな影響を受けます。「長い間、虐げられてきた農民を救うために戦う」という自由民権運動に感動した昇は、「大学に残るより、故郷の農民を救おう」と決意。1891年(明治24年)、沖縄県初の農学士として故郷に錦を飾ります。

📌 技師としての活躍と県民の誇り

帰郷後、沖縄県庁に技師として採用された昇は、当時鹿児島県出身者が多数を占めていた県庁の中で、沖縄出身者として活発に活動しました。農業技術の指導や、現品納税制度から貨幣制度への改善、農工銀行の設立など、その熱誠と事務的手腕は目覚ましい実績を上げました。他府県出身者に見下されていた当時の沖縄の人々は、「農民の子でも偉くなれる」と、昇の活躍に大きな勇気を得ました。彼は、当時の沖縄県民にとって、階級打破の象徴、そして出世の代名詞となったのです。

権力との対立と「沖縄倶楽部」の結成

謝花昇の熱意と実績は、当時の県知事奈良原繁(ならはら しげる)の専制的な県政と、真っ向から対立することになります。

📌 杣山問題と県庁退職

昇が対立した最大の要因は「杣山(そまやま)開墾問題」でした。これは、王府の指導下で農民が管理・利用していた山林を、貧窮士族救済の名目で開墾させようとする政策でした。しかし、実際に行われたのは、下級士族を救うという名目とは裏腹に、有力士族や本土の商人、高級役人に優先的に山林が払い下げられるという、沖縄人(ウチナーンチュ)差別を伴うものでした。農民の生活が脅かされる上に、旧特権階級や本土出身者だけが利益を得るという実態を知った昇は、強く反発します。謝花昇は、この不公正な施策を止めようと奈良原知事と対立し、ついに県庁を退職。官僚の地位を捨てて野に下ることを決意しました。

📌 参政権獲得運動と悲劇的な挫折

県庁を辞した昇は、1899年(明治32年)に當山久三(とうやま ひさく)らと政治結社「沖縄倶楽部」を結成。機関誌『沖縄時論』を発行し、奈良原県政を攻撃するとともに、沖縄県民の自治権および参政権獲得の必要性を訴える運動を展開しました。彼は、自由と平等、人道の理想を掲げ、この運動に全財産を投じました。しかし、奈良原知事をはじめとする旧支配層は、権力を背景に「沖縄倶楽部」を激しく弾圧。運動は資金が尽き、わずか2年で挫折してしまいます。職と財産を失った昇は、失意のあまり神経衰弱となり、職を求めて本土に向かう途中の神戸駅で突如発狂し、倒れてしまいます。その後、沖縄に戻された昇は、病が回復することなく、1908年(明治41年)、43歳という若さでこの世を去りました。沖縄県民が初めて選挙権を獲得し、国会へ代表を送れるようになったのは、謝花昇の死後4年後の1912年(大正元年)のことでした。

謝花昇ゆかりの地

  • 八重瀬町立具志頭歴史民俗資料館・1F謝花昇コーナー(沖縄県島尻郡八重瀬町字具志頭352):八重瀬町立具志頭歴史民俗資料館では、謝花昇の関連資料を常設展示しています。第1回県費留学生たちと撮影した写真や、学習院中学時代の成績表、県庁時代の写真まで、さまざまな資料から謝花昇の44年に及ぶ生涯を追い、その功績を学ぶことができます。
  • 謝花昇銅像(沖縄県島尻郡八重瀬町東風平1014):東風平運動公園の南入り口近くにある。高台にある銅像までは、謝花昇が病没した年齢と同じ44段の階段が続いている。

謝花昇の遺産:現代社会へのメッセージ

謝花昇の生涯は、私たちに「勇気ある不屈の行動」の重要性を教えてくれます。彼の運動は、志半ばで挫折し、全財産と健康を失いましたが、その勇気ある行動は、沖縄の人々の権利意識を深く覚醒させました。彼は、沖縄の教育と政治、そして農民の権利という、国政の根幹にかかわる課題に真っ向から取り組みました。沖縄民権運動の先駆者として、階級打破の象徴、民族的英雄として、その精神は今も語り継がれています。謝花昇の物語は、一人の人間が、その信念と勇気によって、社会の不正に立ち向かい、未来の世代に希望を託すことができることを証明しています。彼の精神は、現代社会に生きる私たちに、不公正な権力に屈せず、平等と自由という普遍的な価値を追求することの大切さを、力強く語りかけているのです。

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