高知県の偉人:坂本龍馬 — 「議会の父」が描いた、新国家日本の青写真
「天下の政権を朝廷に返還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事」
この一文から始まる坂本龍馬の構想は、単なる倒幕を超えた、近代国家の骨格を提示するものでした。
坂本龍馬(さかもと りょうま)は、天保6年(1836年)、土佐藩の裕福な郷士の家に生まれ、33歳の短い生涯を、日本の未来のために奔走しました。「薩長同盟」の仲介、「大政奉還」の実現への貢献、そして何よりも「公議」という議会制の原理を新国家の設計図に組み込んだことで、「議会政治の父」として日本の歴史に不朽の足跡を残しました。
幼少期の感化と、剣術への傾倒
坂本龍馬は、天保6年(1836年)、土佐国土佐郡上街本町(現在の高知市)で、土佐藩郷士(下士)の家に生まれました。坂本家は質屋、酒造業などを営む豪商「才谷屋」の分家であり、龍馬は裕福な家庭で育ちました。
幼少時、龍馬は泣き虫で弱虫な少年でしたが、3歳年上の姉・乙女(おとめ)が母代わりとなって彼を厳しく教育します。12歳まで夜尿が治らなかった龍馬を克服させたのも乙女でした。龍馬は終生、乙女への感謝と恋慕を失わず、直筆の手紙の多くは乙女宛に残されています。
📌 江戸での修行と開国論への転換
14歳で剣術道場に入門し、腕前を上げた龍馬は、17歳の時、武術修行のために江戸へ自費遊学。北辰一刀流の桶町千葉道場の門人となりました。
龍馬が江戸に到着した直後、ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航します。龍馬も品川の守備の任務に就き、当初は父への手紙で「異国人の首を打ち取って帰国します」と攘夷思想を表していました。
しかし、剣術修行の傍ら、当代の軍学家・佐久間象山(さくま しょうざん)の私塾に入門し、また、ジョン万次郎の漂流記を編んだ河田小龍(かわだ しょうりゅう)から海運の重要性を説かれ、大いに感銘を受けます。この出会いを機に、龍馬は攘夷の間違いを悟り、開国論者へと転身しました。
海軍興隆への奔走と「日本一の人物」
土佐へ帰国した龍馬は、藩の公武合体路線と、友人の武市半平太が率いる尊王攘夷派の「土佐勤王党」の対立を目の当たりにします。藩論に絶望した龍馬は、1862年(文久2年)3月24日、藩の禁を犯して脱藩しました。
脱藩後の龍馬は、江戸へ出て幕府軍艦奉行並の勝海舟(かつ かいしゅう)を訪ねます。龍馬が海舟の門人となった劇的な出会いの逸話は有名ですが、龍馬は海舟から世界情勢と海軍の必要性を説かれ、「日本第一の人物」と称賛し、心服しました。
📌 神戸海軍操練所と亀山社中の設立
龍馬は勝海舟の片腕として、神戸海軍操練所の設立に奔走。これは、幕臣だけでなく、諸藩の志士を教育する海軍塾でもあり、龍馬はここで海軍の知識と技術を磨きました。
しかし、八月十八日の政変や池田屋事件を経て、海軍操練所は閉鎖に追い込まれます。行き場を失った龍馬は、薩摩藩の支援を受け、長崎で「亀山社中」(のちの海援隊)を結成します。これは、貿易会社と政治組織を兼ねた、日本初の近代的な商社に近い組織であり、後の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)もその存在を注視していました。
薩長同盟と「船中八策」の真実
亀山社中を率いた龍馬の最大の功績は、当時の「水火のごとき関係」であった薩摩藩(西郷隆盛)と長州藩(桂小五郎)を和解させ、薩長同盟の成立に協力したことです。
📌 「盟約」に尽くした周旋の才
武力討幕を目指す長州藩は幕府から武器の購入を禁止され、兵糧に苦しむ薩摩藩は米の調達に窮していました。龍馬は、薩摩藩名義で武器を調達し、長州藩へ流す「武器の密輸」を提案し、亀山社中がその実行を担いました。これにより、両藩の焦眉の急が解決し、両藩の和解が成立。龍馬は、この歴史的な盟約成立の場に立ち会いました。
📌 「船中八策」に込められた公議の精神
龍馬の生涯を語る上で欠かせないのが、新政府の基本方針をまとめたとされる「船中八策」です。これは、後藤象二郎と共に土佐藩船「夕顔」に乗船中に策定されたというエピソードが有名ですが、龍馬自身が後に記した自筆の政治綱領「新政府綱領八策」がその実質的な原典です。
龍馬が新国家構想に込めた最大の歴史的意義は、まさにこの「公議」の精神にありました。
- 大政奉還: 「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ…」と、政権を朝廷に戻すことを第一に掲げました。
- 公議の確立: 「上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ(略)万機宜シク公議ニ決ス」と、二院制の議会を持つ国家を空想。龍馬は、この公議(議会制)という回路を、日本の新国家に組み込むことを目指しました。
この龍馬の空想設計図は、土佐藩の大政奉還建白、そして明治新政府の五ヶ条の御誓文と受け継がれ、日本に議会制の理念を組み込む礎となりました。
日本初の新婚旅行と、謎多き最期
薩長同盟成立直後、龍馬は伏見の寺田屋で伏見奉行の役人に踏み込まれ、両手指を斬られる重傷を負います。この危機を、恋人のお龍の機転と、三吉慎蔵の助けで逃れた龍馬は、治療のため西郷隆盛の勧めもあり、お龍と共に薩摩の霧島温泉へ新婚旅行に出かけます。これが、日本最初の新婚旅行とされています(よくクイズ番組などで見かけますよね)。
しかし、大政奉還が成立し、新国家の建設に向けた準備が進む最中の慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は、盟友中岡慎太郎と共に京都河原町の近江屋において暗殺されました。実行犯は見廻組説が有力ですが、その黒幕は今なお謎に包まれています。
📍坂本龍馬ゆかりの地:近代化の足跡を辿る旅
- 高知市立龍馬の生まれたまち記念館(高知県高知市上町2-6-33)
- 高知県立坂本龍馬記念館(高知県高知市浦戸城山830)
- 坂本龍馬誕生地(高知県高知市上町1-7-34)
- 坂本龍馬銅像(高知県高知市浦戸)
- 龍馬歴史館(高知県香南市野市町大谷928-1)
- 坂本龍馬先塋の地・龍馬公園と坂本神社(高知県南国市才谷大浜屋敷)
- 旧立川番所書院・龍馬と水戸浪士との会見の地(高知県長岡郡大豊町荷宿)
- お龍・君枝の銅像(高知県安芸郡芸西村琴ヶ浜)
- いろは丸展示館(広島県福山市鞆町鞆843-1)
- 坂本龍馬新婚の旅碑(鹿児島県鹿児島市天保山町・天保山公園内)
- 寺田屋(京都市伏見区南浜町263)
- 坂本龍馬寓居趾(京都市中京区河原町通三条下る一筋目東入北側)
- 明保野亭跡(京都市東山区清水二丁目・産寧坂東側)
- 坂本龍馬遭難地(京都市中京区河原町通蛸薬師下る西側)
- 霊山歴史館(京都市東山区清閑寺霊山町1)
- 坂本龍馬墓所(京都市東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社内)
- 坂本家墓地(高知市山手町70の東)

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💬坂本龍馬の遺産:現代社会へのメッセージ
坂本龍馬の生涯は、私たちに「変化を恐れず、未来を構想する勇気」を教えてくれます。彼は、攘夷、幕府、藩といった既存の枠組みに囚われず、常に日本の進むべき新しい国家像を、誰よりも明確に持っていました。
彼の最大の功績は、薩長両藩の和解という具体的な行動に留まらず、新国家の設計図に「公議」という、議会制民主主義の原理を組み込んだことにあります。
坂本龍馬の物語は、一介の浪士が、その柔軟な思考と卓越した人脈、そして明確なビジョンによって、国の未来を根底から変えることができることを証明しています。彼の精神は、現代社会に生きる私たちに、閉塞感を打ち破り、新しい時代を創造するための勇気を、力強く語りかけているのです。
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