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熊本県の偉人:横井小楠 — 「明治の父」が描いた、公共と交易の思想

「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南洲だ」

この言葉は、幕末の勝海舟が、横井小楠(よこい しょうなん)の恐るべき先見性と、その思想を実践する西郷隆盛(さいごう たかもり)の実行力を結びつけて語ったものです。

熊本藩士の家に生まれた小楠は、鎖国体制下にあって、いち早く開国貿易による富国安民の必要性を説き、公議(議会制)に基づく近代国家の構想を提示しました。その思想は、坂本龍馬の「船中八策」、そして明治新政府の「五箇条の御誓文」の礎となり、まさに「明治国家の父」として、近代日本の骨格づくりに多大な影響を与えました。

幼少期の聡明さと、「実学」への志

横井小楠、本名・時存(ときひろ)は、1809年(文化6年)、肥後国熊本城下(現在の熊本市)に、家禄150石の熊本藩士の次男として生まれました。幼い頃から藩校「時習館(じしゅうかん)」で学び、後に塾生最高位である居寮長(塾長)を務めるほどの俊英でした。

彼の学問への探求心は飽くことを知らず、天保10年(1839年)には藩命により江戸へ遊学。藤田東湖(ふじた とうこ)ら水戸学の学者と交流し、その思想的な洗礼を受けました。

📌 挫折からの再起と「実学党」の結成

しかし、酒宴での喧嘩がもとで藩に咎められ、翌年、帰国と70日間の逼塞(ひっそく)を命じられます。この挫折を機に、小楠は、理論理屈に偏りがちな朱子学から離れ、「学問の本領は実践躬(み)にあり」という実学の精神に目覚めました。

帰国後、彼は私塾「小楠堂」を開設。藩の保守的な学風を批判し、藩政改革を目指す同志たちと共に研究会を結成しました。これが、後の「実学党(じつがくとう)」となり、小楠の思想的影響は、徳富一敬(後の蘇峰・蘆花兄弟の父)ら、豪農層の門弟たちへと広がっていきました。

越前藩での活躍と、「国是七条」の提言

保守的な熊本藩では不遇をかこっていた小楠でしたが、その才能は藩外に轟いていました。

📌 松平春嶽の政治顧問へ

安政5年(1858年)、小楠は、越前福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)に「賓師(ひんし)」という特別顧問の立場で招かれ、藩政改革の指導にあたります。熊本では不遇だった小楠にとって、この福井藩での活躍は、彼の才能を存分に発揮する舞台となりました。

  • 藩の財政再建: 門弟の由利公正(ゆり きみまさ)らを指導し、藩の財政を立て直すとともに、生糸輸出などの殖産貿易事業を推進し、藩財政を黒字化させるという具体的な成果を挙げました。
  • 「富国安民」の思想: 小楠は、富国とは藩の財政が豊かになることではなく、「領民を豊かにする」ことこそが先決であると主張。新しい技術の導入や技術指導を藩が負担し、利益は民に還元するという、画期的な経済思想を実践しました。

📌 幕政改革の青写真「国是七条」

松平春嶽が幕府の政事総裁職に就任すると、小楠はそのブレーンとして幕政改革に関与。幕府への建白書として『国是七条(こくぜしちじょう)』を起草しました。

  • 将軍の恭順と参勤交代の廃止: 将軍が朝廷に無礼を謝し、諸侯の参勤交代を廃止することで、藩の財政と人材を国元に戻すことを提案しました。
  • 公議と人材登用: 「大いに言路を開き、天下公共の政をなせ」と、広く意見を出し合い、有能な人物を身分を問わず登用する公議政治の必要性を説きました。

この「国是七条」は、後の坂本龍馬が構想した「船中八策」や、明治政府の「五箇条の御誓文」に直接的な影響を与えた、近代日本の国家構想の原点となりました。

浪々の生涯と、明治政府での暗殺

小楠は、幕政改革を推し進める中で、藩内の保守派や尊攘派の反感を招きました。酒宴中に刺客の襲撃を受けた際、小楠は護衛役の友を残して逃げたため、「士道忘却(しどうぼうきゃく)」の罪に問われ、知行召し上げ・士席剥奪という重い処分を受け、浪人として沼山津(ぬやまづ)の「四時軒(しじけん)」に蟄居(ちっきょ)を余儀なくされました。

しかし、その名声は依然として高く、蟄居中の四時軒には、坂本龍馬井上毅(いのうえ こわし)由利公正、元田永孚(もとだ ながざね)など、明治維新の立役者たちが次々と訪問し、小楠の思想を学びました。

📌 新政府への出仕と殉節

明治維新後の1868年(明治元年)、小楠は岩倉具視(いわくら ともみ)の懇望により、藩の反対を押し切って士席を回復され、新政府の参与に就任します。岩倉具視は、その政治的見識を高く評価し、小楠を頼りに相談していました。

しかし、明治2年(1869年)1月5日、小楠は参内の帰途、京都寺町通で、新政府の開国政策に不満を持つ保守派の十津川郷士(とつかわごうし)ら6人組に襲撃され、暗殺されました。享年61。彼の遺志は、その死によって悲劇的に中断されましたが、門弟たちによって明治政府の中枢へと受け継がれていきました。

📍横井小楠ゆかりの地:実学の精神を辿る旅

横井小楠の足跡は、彼の故郷である熊本市から、藩政改革に携わった福井、そして最期の地である京都へと繋がっています。

  • 横井小楠記念館・四時軒(熊本県熊本市東区沼山津1-25-91):小楠が晩年に蟄居し多くの志士が訪れた旧居が保存されています。
  • 横井小楠生誕地と「清正公井」跡(熊本県熊本市中央区内坪井町4):小楠生誕の時、産湯として使用したと言われる井戸が残っている。
  • 小楠公園・横井小楠銅像(熊本県熊本市東区沼山津4-11):小楠の功績を称える銅像が建っています。
  • 横井小楠をめぐる維新群像(熊本県熊本市中央区千葉城町1・高橋公園):高橋公園の中に、横井小楠や坂本龍馬、勝海舟、松平春獄、細川護久が立てられている。
  • 横井小楠、三岡八郎像(福井県福井市大手2-10・内堀公園内):安政5年(1858)冬、横井小楠は一時帰国のため三岡八郎を同行して九州に旅立った。この像は九州に旅立つ三岡八郎(後の由利公正)と横井小楠の姿を表現したものである。
  • 横井小楠寄留地跡(福井県福井市中央3):小楠が福井に訪れた際の寄留宅跡地。坂本龍馬が勝海舟の命で来福した際にこの居宅を訪れている。弟子の由利公正宅とは足羽川を挟んで向かい合っていた。
  • 横井小楠殉節地(京都市中京区寺町丸太町下る東側):新政府の参与として出仕した小楠は、明治2(1869)年正月5日,御所参賀の帰途この地で暗殺された。
  • 肥後横井小楠之神霊石碑・京都護国神社(京都市東山区清閑寺霊山町1)
  • 横井小楠墓所(京都市左京区南禅寺福地町・南禅寺天授庵):小楠の遺骸は京都・南禅寺天授庵に、遺髪は熊本・沼山津の小楠公園に埋葬された。

💬横井小楠の遺産:現代社会へのメッセージ

横井小楠の生涯は、私たちに「普遍の思想と実践」の重要性を教えてくれます。彼は、封建社会にあって、共和制交易重視の開国論といった、現代にも通じる普遍的な政治思想を構想しました。

彼の「公議」に基づく政治の理念は、多様な意見が尊重される現代社会において、民主的な議論を通じて、国や組織の進むべき道を決定することの重要性を示しています。横井小楠の物語は、一人の思想家が、その卓越した先見性と知恵によって、時代の閉塞感を打ち破り、日本の未来を形作る青写真を描くことができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、知識を現実の行動に活かす「実学」の精神と、良心に基づく公の政治を追求することの大切さを、力強く語りかけているのです。

(C)【歴史キング】

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