宮城県の偉人:林子平 — 「寛政三奇人」と称された、海防の先見性を持つ経世論家
「日本橋より唐(から)、阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路なり」
この言葉は、江戸時代中期、鎖国下にあった日本へ、海防の重要性を訴え続けた経世論家、林子平(はやし しへい)が著書『海国兵談』に残したものです。
江戸に生まれ、仙台藩にゆかりを持つ彼は、高山彦九郎、蒲生君平と並び「寛政の三奇人」と称されました。その先見性に富んだ思想は、幕府によって「人心を惑わす」として発禁処分を受け、子平自身も蟄居(ちっきょ)という不遇な最期を迎えましたが、その主張の正しさは、ペリー来航によって60年後に証明されることとなります。
幼少期の苦難と、仙台藩との絆
林子平は、1738年(元文3年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれました。しかし、3歳の頃に父が浪人となり、一家は医師であった叔父の林従吾(はやし じゅうご)に養われるという、苦しい幼少期を過ごします。
彼の運命を変えたのは、姉の存在でした。長姉、次姉が相次いで仙台藩の江戸屋敷に奉公するようになり、次姉の「なお(きよ)」は、その容姿と心ばえから、仙台藩6代藩主伊達宗村(だて むねむら)の側室となり、「お清の方」と呼ばれるまでになります。この縁により、兄の林友諒(ともすけ)が仙台藩士として禄(ろく)を受けるようになり、子平自身も給与のない「無禄厄介(むろくやっかい)」という身分ながら、仙台藩士として生活するようになりました。
📌 全国遊歴と先見的な海防論への覚醒
藩から給与を受けない「無禄厄介」という立場は、子平に自由な行動を許しました。彼はこの身軽さを利用し、みずからの教育・経済政策を藩に建白するも聞き入れられず、禄を返上して兄の部屋住みとなり、本格的な全国遊歴の旅に出ます。
北は松前から南は長崎まで全国を行脚し、大槻玄沢(おおつき げんたく)、宇田川玄随(うだがわ げんずい)ら当時の蘭学者たちと交流を深めました。特に長崎では、オランダ商館長らから直接海外の情勢を聞き、ロシアの南下という東アジアの危機を肌で感じました。
この見聞を通して、子平は「四方を海に囲まれた日本にとって、海防こそが国の存亡をかけた急務である」という、強い確信を得たのです。この地理的視点と、迫りくる国際情勢を見抜く力こそが、子平の最大の先見性であり、後の日本の運命を左右することになります。
時代の先見書と、幕府の弾圧
子平は、鎖国体制下で、ほとんどの知識人が内陸の政治議論に終始していた時代に、海防の必要性を訴える二つの画期的な著作を著しました。
📌 2大著作:「三国通覧図説」と「海国兵談」
- 『三国通覧図説(さんごくつうらんずせつ)』:1786年(天明6年)に刊行。朝鮮、琉球(沖縄)、蝦夷(北海道)の三国の地理を図示・解説した、日本で最初の本格的な世界地理書です。地理を知ることが、国を治め、国を守る上でいかに重要であるかを訴えました。
- 『海国兵談(かいこくへいだん)』:1791年(寛政3年)に自費出版。全16巻の軍事書であり、ロシアの脅威に対して、江戸沿海の防備を急ぎ、大船(おおぶね)を建造して大筒(おおづつ)を備えるべきと具体的に主張しました。この中で、「日本橋より唐(から)・阿蘭陀(オランダ)まで、境なしの水路なり」と述べ、日本の地理的な脆弱性を指摘しました。この著作の序文を、仙台藩医の工藤平助が書いています。
📌 発禁処分と「六無斎」の嘆き
幕府は、これらの書物が「いたずらに人心を惑わす」ものとして、1792年(寛政4年)、『三国通覧図説』と『海国兵談』を発禁処分とし、版木を没収しました。これは、寛政の改革に伴う出版物取締令の一環でした。
子平自身も、仙台の兄宅へ強制的に帰郷させられ、蟄居(ちっきょ)の処分を受けます。
彼は、この失意の中で、「親も無し 妻無し 子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」という和歌を詠み、自らを「六無斎(ろくむさい)」と号しました。
「寛政三奇人」としての評価と、歴史が証明した先見性
林子平は、蟄居を命じられてからわずか1年あまりの1793年(寛政5年)に、56歳で不遇のうちに生涯を閉じました。
📌 寛政の三奇人
林子平は、彼の同時代において、その先見的な思想や、常識に囚われない行動様式から、高山彦九郎(たかやま ひこくろう)、蒲生君平(がもう くんぺい)と並び「寛政の三奇人」と称されました。
- 「奇人」の定義: ここでいう「奇人」とは、単に風変わりな人という意味ではなく、「世の中の多くの人とは異なる視点を持ち、時代に先んじた考えを世に訴えた優れた人物」という賛辞を込めた表現です。
- 林子平の主張: 海防の重要性と世界情勢の分析を訴えました。
- 高山彦九郎の主張: 尊王思想を掲げ、全国を旅して勤王の志を貫きました。
- 蒲生君平の主張: 天皇陵の荒廃を嘆き、『山陵志』を著し、尊王思想に影響を与えました。
この三人は、身分や立場を超えて、日本の将来や皇室のあり方について、当時の保守的な風潮に抗って自説を唱え続けた点で共通しています。
📌 先見性の証明と明治への影響
子平の死後、彼が予見したロシア船の頻繁な来航や、イギリス船の出没といった外国の脅威が現実のものとなると、幕府も海防の重要性を認識するようになります。
- ペリー来航と復刻: 子平の死から約60年後の1853年、ペリーが黒船で来航し、日本の開国が避けられなくなると、その先見性が再評価され、『海国兵談』は「精校海国兵談」として復刻出版されました。
- 富国強兵論の源流: 『海国兵談』で説かれた、海防の強化と国を豊かにすることの結びつきは、幕末の海防論の起源となり、さらに明治時代の富国強兵論にも影響を与えました。
- 伊藤博文の顕彰: 明治政府の重鎮となった伊藤博文は、奥羽(東北)巡視の際に荒廃した子平の墓を訪れ、その偉業を後世に残すため顕彰碑を建立しました。
子平の生涯は、その卓越した先見性が、時代とのズレによって不遇に終わった悲劇的なものでしたが、その思想は後の日本の運命を大きく変える原動力となりました。
📍林子平ゆかりの地:不屈の志を辿る旅
林子平の足跡は、彼の故郷である江戸から、生活の拠点であった仙台、そして知識を得た長崎へと繋がっています。
- 林子平像(宮城県仙台市青葉区本町3・勾当台公園):子平の功績を称える銅像が建っています。
- 林子平ゆかりの地説明板(宮城県仙台市若林区元茶畑4・仙台第一高等学校南側):蟄居処分を受け、兄の屋敷で謹慎した場所。この屋敷跡付近に、子平ゆかりの地として関連資料などを示す説明板が設置されている、
- 林子平記念碑( 宮城県仙台市青葉区川内26・仙台市博物館・建物南側庭園)
- 林子平墓所(宮城県仙台市青葉区子平町19-5・龍雲院):子平が眠る墓所です。その所在地は、彼の名にちなんで「子平町」と改称されました。
子平の墓は鞘(さや)堂に覆われ、そばには明治政府の要職にあった伊藤博文が建立した石碑がある。明治12年に東北巡視した博文が、子平の墓を訪れ、あまりに荒廃していたのを嘆き、子平の偉業を後世に残そうと碑の寄進を決めたという。墓は昭和17年に国の史跡に指定された。
💬林子平の遺産:現代社会へのメッセージ
林子平の生涯は、私たちに「時代と常識に流されない勇気」を教えてくれます。彼は、幕府の訓令を恐れず、自費で書物を出版し、命を懸けて国の危機を警告しました。
彼の「海国兵談」の思想は、現代社会においても、グローバルな視点と安全保障の重要性を示しています。情報が溢れる現代だからこそ、彼のように本質を見抜く先見性と、その信念を貫く「六無斎」の精神が求められます。
林子平の物語は、一人の人間が、その先見性と知恵によって、時の権力や世論に屈せず、真実を語り続けることの尊さを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、自己の役割に真摯に向き合い、真に国益となることを追求する勇気を、力強く語りかけているのです。
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