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「陸軍の父」たち│父と呼ばれた日本人

「建軍の父」と「国軍の父」

 戊辰戦争の終結後、明治新政府は軍事制度と組織の整備に着手します。1869年(明治2)7月に兵部省を設置し、1871年(明治4)8月には、東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)に四鎮台を置きます。兵力は、長州藩・薩摩藩・土佐藩から召集された、いわゆる御親兵(ごしんぺい)でした。そのため、新政府にとって、新たな兵の徴収とその訓練、組織体制の確立が急務でした。

 1872年(明治5)、兵部省に代わり陸・海軍省が設けられると、翌年ようやく徴兵令に基づく徴兵が開始され、国軍としての基礎が整います。そして1874年(明治7)、日本軍は初めての海外派兵となる台湾出兵を行います。

 その後、神風連・秋月・萩の乱、西南戦争を通じて、国軍として軍備の充実が図られ、1878年(明治11)に参謀本部が陸軍省から独立し、1882年(明治15)、「軍人勅諭」が下賜されました。

 この陸軍草創期に、軍制・組織の整備に尽くした最大の功労者が、長州藩出身の大村益次郎(ますじろう・1824~1869)と山県有朋です。

 周防国吉敷郡鋳銭司村(よしきぐんすぜんじむら・現山口県山口市)に生まれた大村は、大坂で緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に学び、宇和島藩で蘭学を教えた後、幕府の講武所教授などを歴任します。後に長州藩に迎えられると軍制改革に着手し、奇兵隊を中心とした長州藩諸隊を率いて第二次長州戦争や戊辰戦争において軍略面で活躍、その軍政能力を買われて新政府に迎えられました。

🔵大村益次郎(1824~1869)│「近代日本兵制の父」「日本陸軍の父」

 兵部省が設立され兵部大輔(ひょうぶたいふ) に就任した大村は、ただちにフランス式軍制を導入し、仕官養成機関を設立します。さらに、国民皆兵主義に基づく徴兵制の創設を構想しますが、志半ばで没します。近代軍制の創設に大きく貢献した大村は、「近代日本兵制の父」「日本陸軍の父」と称されています。

 その大村の遺志を継ぎ徴兵制を実現させたのが山県です。山県は、「軍人勅諭」配布による軍人道徳の確立、参謀本部の独立、鎮台廃止後の師団改編、侍従武官制や教育制度の確立など、日本陸軍の屋台骨を築いたことから、「国軍の父」と称されました(第二回「明治維新の父たち」参照)。

 陸軍の創設に多大な貢献をした大村と山県ですが、いずれも「日本陸軍創設の父」とはいわれません。強いていえば、大村が日本陸軍の生みの親であるなら、山県はその育ての親、つまり、山県が「国軍の父」ならば、大村は「建軍の父」というべきかもしれません。この二人の軍政家としての実績のルーツは、長州藩の奇兵隊にあります。そのため、奇兵隊こそが日本陸軍の原型であると論じられます。

日本陸軍のルーツ、「奇」兵隊を組織した高杉晋作

 長州藩では、1864年(元治元)の第一次長州戦争で幕府への恭順を示した保守派が政権を握りますが、翌年、高杉晋作(1839~1867)らが馬関(ばかん・下関)で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめました。奇兵隊を創設したのは、革命児・高杉です。

🔵高杉晋作(1839~1867)│「奇兵隊の父」

 きっかけは、1864年(文久4)にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国が下関を砲撃した、いわゆる下関戦争でした。この時長州藩の砲台が一時的に占拠され、外国兵の上陸に動揺した藩士たちは一人残らず砲台を捨てて逃げてしまいます。そこで、下関の防衛を任されていた高杉は、藩主への建白書で「肉食之士人ら皆事に堪えず(代々禄をもらう士分階級はみんな腰抜けだ)」と述べ、身分によらない志願兵による奇兵隊を結成します。当時の身分制の原理からいえばこれはありえないことで、高杉自身それを自覚し、正規兵に対し「奇兵」と呼んだのです。

 奇兵隊は実に強く、明治維新が薩長の武力を背景に成し遂げられたことを考えれば、奇兵隊の創設は一つの大きな転機だったことは間違いありません。司馬遼太郎氏は、「奇兵隊の成立は、それそのものが幕藩体制に対する革命であった」と述べています。

 高杉が、戦闘能力の強化という軍隊本来の機能と身分にとらわれない「四民平等」的な思想を兼ね備えた「奇」兵隊を創設し、大村によって西洋式兵制の採用をはじめとする軍制改革がなされ、奇兵隊を含む長州軍がその後の討幕へと向かう主戦力となり、さらには、御親兵から日本陸軍へと発展し、山県によって軍制が整備されていったことを考えても、奇兵隊が日本陸軍のルーツであるというのはうなずけます。

「奇兵隊の父」と呼ばれる高杉の墓所(下関市)のすぐ脇には、巨大な顕彰碑が立っています。そこに書かれた「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」から始まる有名な高杉評は、同じく奇兵隊出身の明治の元勲・伊藤博文によるものです。

近代日本警察の父──川路利良

🔵川路利良(1834~1879)│「近代日本警察の父」

 幕末に禁門の変(1864年)で戦功を挙げ、西郷隆盛に見出された薩摩藩出身の川路利良(かわじとしよし・1834~1879)は、明治新政府樹立直後の世情安定を図る目的で東京に3000名の邏卒(らそつ・巡査)が置かれると、その長である邏卒総長に任じられた人物です。

 1872年(明治5)、川路は警察制度視察でヨーロッパに渡ります。帰国後、司法権と警察権の分立を建議し、これに基づき警察は司法省から内務省に移され、1874年(明治7)、東京警視庁が創設されます。川路は初代警視長を経て大警視という最高ポストに就任します。ちなみに、大警視は後に警視総監と改称され、現在も警察官の最高位です。

 1873年(明治6)に征韓論争で破れた西郷が下野した後も、内務卿・大久保利通から厚い信任を受けますが、1877年(明治10)に西南戦争が起こると警察内部は動揺し、西郷の恩恵を受けた川路も西郷軍に合流するのではないかとの風説が流れます。しかし、川路は「私情においては誠に忍び難いことであるが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前に私情を捨ててあくまで警察に献身する」と自己の信念を明らかにしたうえで、警視庁警視隊を率いて西郷軍と戦いました。

 大警視(初代警視総監)となった川路は、近代的警察制度の確立に尽力します。その基本精神をまとめた「警察手眼(けいさつしゅげん)」は、「警察要旨」「警察官ノ心得」「警察官等級ノ別」「部長心得」「巡査心得」「探索心得」の六項目から成り、警察の運営・活動の指針として今日も警察官に広く読み継がれています。川路が「近代日本警察の父」と称されるゆえんがここにあります。

「騎兵の父」と「工兵の父」

 軍隊には階級制度があります。これは軍事組織における上下関係と指揮系統の格付けを示すもので、日本陸軍で最上位に位置したのが陸軍大将です。陸軍大将は、明治の官僚制度で最高位の親任官(天皇の親任式を経て任命される)であり、内閣総理大臣や枢密院議長と同等位にありました。ちなみにわが国初の陸軍大将は西郷隆盛(1873年)で、以後134人の陸軍大将が誕生します。

🔵秋山好古(1859~1930)│「日本騎兵の父」

 陸軍の兵科将校を養成する教育機関・陸軍士官学校は、歩兵科・騎兵科・砲兵科・工兵科・輜重(しちょう)兵科のクラスに分かれていました。陸軍大将はこの分類でいえば歩兵出身者が圧倒的に多く、歩兵以外で大将に進級したのは、134人中、わずか砲兵20人、騎兵11人、工兵3人です。その数少ない騎兵と工兵の出身で、後に陸軍大将に進級したのが、「日本騎兵の父」と称される秋山好古(よしふる・1859~1930)と、「日本工兵の父」と称される上原勇作(1856~1933)です。

 司馬遼太郎氏の国民的大作『坂の上の雲』の主人公の一人として知られる秋山は、伊予国松山城下(現愛媛県松山市)に生まれ、陸軍士官学校(旧制第三期生)、陸軍大学校(第一期生)を卒業後、フランスに留学した将来を嘱望される騎兵科人材でした。

 騎兵第一大隊長として出征した日清戦争では、土城子(どじょうし)における白兵戦でその名を轟かせました。戦後、陸軍乗馬学校(後の陸軍騎兵学校)校長に就任すると、日露戦争を想定した騎兵の編成や戦術などを研究し騎兵科を確立したことから、「騎兵の秋山」の名は陸軍内部で高まります。日露戦争では、陸軍少将・騎兵第一旅団長として、世界最強といわれたコサック騎兵を相手に奮戦し、また、三倍の騎兵団を破る騎兵運用をしました。これらは、日露戦争前に著した『本邦騎兵用法論』を実戦に臨んで完成させたといわれています。

🔵上原勇作(1856~1933)│「日本工兵の父」

 一方、日向国都城(現宮崎県都城市)出身の上原は、陸軍士官学校で秋山と同期(旧第制3期)でした。卒業後、同じくフランスへ留学し、フォンテンブロー砲工学校に学びます。帰国後、日本陸軍にヨーロッパの科学知識と合理精神を伝え、フランス陸軍を範とする工兵の創設に尽くしました。

 第二次西園寺公望内閣の陸軍大臣に就任して陸軍二個師団増設案を提出しますが、受け入れられなかったため1912年(大正元)12月に辞任し、後任者を出さずに同内閣を総辞職へと追い込みます。その際、「陸軍の意向を無視する内閣は潰す」と脅し、それを実現した初の陸軍軍人が上原です。

 長州閥が全盛を誇る当時の陸軍にあって、薩摩藩出身の陸軍大将野津道貫(のづみちつら)の娘婿であった上原は、薩摩閥として孤軍奮闘し、陸軍大臣、参謀総長、教育総監を歴任します。いわゆる陸軍三長官のすべてに就任したのは、上原と後の杉山元はじめの二人だけです。

日本陸軍の武器開発の父たち

 近代日本の軍事的独立性を保つためには、高性能の兵器を整備しなければなりません。
創設間もない陸軍にとってこれは急務であり、西南戦争後、陸軍内には国産軍用銃を求める声が高まります。

🔵村田経芳(1838~1921)│「国産小銃の父」

 薩摩藩士として砲術を学んだ村田経芳(つねよし・1838~1921)は、1863年(文久3)の薩英戦争で武器の性能差を痛感して銃の改良に取り組み、従来筒先から弾を込めていたのを手元から込めるよう改良した元込銃を考案します。維新後、銃器研究のためヨーロッパへ渡り、日本独自の銃開発を決意して帰国。1880年(明治13)にオランダ製ボーモン銃とフランス製グラー銃を参考に改良を加えた初の国産制式小銃「一三年式村田銃」を、さらに改良型の「一八年式村田銃」を開発しました。これは、日清戦争で陸軍が採用した主力小銃です。国産軍用銃の開発と発展に貢献した村田は、「国産小銃の父」と呼ばれています。

 1891年(明治24)、村田の退役に伴って陸軍砲兵工廠(ほうへいこうしょう)所属となった有坂成章(ありさかなりあきら・1852~1915)が、村田銃に代わる初の陸軍制式小銃として採用される「三〇年式歩兵銃」の開発に成功します。

🔵有坂成章(1852~1915)│「兵器の父」

 周防国岩国(現山口県岩国市)に生まれた有坂は、岩国藩銃堡局、陸軍兵学寮(陸軍士官学校)を経て、1882年(明治15)に陸軍砲兵大尉となります。兵器研究のためヨーロッパに赴き、後に砲兵工廠で大砲改良と銃砲製造に当たりました。

 1892年(明治25)に陸軍が速射砲採用の方針を採ると、速射砲の開発に尽力。有坂の考案した速射砲は、1895年(明治28)にイギリスのアームストロング砲などのヨーロッパ諸国の野砲と比較実験が行われ、有坂砲の優秀さが証明されたことから、有坂考案の「三十一年式速射砲」が陸軍に採用されました。

 有坂考案の歩兵銃と速射砲は陸軍全軍に配備され、ロシアの銃砲に勝る性能によって日露戦争を勝利に導いたといわれています。特に、歩兵銃は命中率でロシアのそれを大きく上回りました。村田と並び、日本が誇る銃砲開発者として陸軍中将まで進級した有坂は、日本における「兵器の父」と称されています。

🔵南部麒次郎(1869~1949)│「日本機関銃開発の父」「日本拳銃界の父」

 有坂の部下として歩兵銃を共同開発した南部麒次郎(なんぶきじろう・1869~1949)が1914年(大正3)に開発した「三年式機関銃」は、国産機関銃の信頼性を確立したといわれています。さらに、陸軍が正式採用したオートマチックピストル「南部一四年式拳銃」は終戦まで生産され、主力拳銃として使用されました。

 南部は陸軍中将に進級した後、陸軍を退役すると、1925年(大正14)に「南部銃製造所」(中央工業、新中央工業を経てミネベアに吸収、現ミネベア大森工場)を設立し、「南部一四年式拳銃」より小型の「九四式拳銃」を開発します。その後は機関銃や自動小銃の研究開発、小銃や軽機関銃などの製造に携わりました。現在、日本の警察官が所持する拳銃「ニューナンブM60」(ミネベア社製)などにその名を残す南部は、「日本機関銃開発の父」「日本拳銃界の父」と称されています。

 陸軍にとって銃は不可欠な武器ですが、もう一つ忘れてならないのが戦車です。大正から昭和にかけて、戦車開発で世界技術の先端に到達するほどの技術的功績を残した原乙未生(とみお・1895~1990)は、熊本陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校(第27期生)を卒業後、砲兵少尉に任官します。砲工学校高等科を優等生として卒業したため陸軍大学校優等卒業者と同等に扱われ、卒業時は軍刀を授与されました。

🔵原乙未生(1895~1990)│「日本戦車の父」

 さらに東京帝国大学工学部機械工学科で「戦車設計」を研究し、卒業後、戦車の国産化を具申して、1927年(昭和2)に国産第1号戦車を完成させました。この戦車は野外試験で、最速20キロの「発進」に成功します。当時、ルノー製が時速8キロ、ホイペットA型が時速14キロであったことを考えると、堂々たる国産戦車の誕生でした。

 この時の野外試験について、終戦後、原はマッカーサー司令部の要求に応えて、「各部の機能、抗堪力は十分であって、その成績は良好であった。……軍が部内にみずから有する技術能力を危惧し、不可能と諦めていた認識を改め、国産によって優秀な戦車を生産しうる確信を得たのは、何よりの成功であり、かつ喜びであった。ここにおいて戦車隊に装備する戦車は、国産による方針を確定した」と回想しています。日本の戦車開発の黎明期に中心的役割を果たした原は、「日本戦車の父」と称されています。

東亜の父──石原莞爾

 最後に紹介する陸軍軍人は、独自の戦略的思考を持ち、日本の陸軍にあってひときわ異彩を放つエリート軍人として知られる石原莞爾(いしわらかんじ・1889~1949)です。

🔵石原莞爾(1889~1949)│「東亜の父」

 山形県西田川郡鶴岡町(現山形県鶴岡市)に生まれ、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校(第21期生)、陸軍大学校(第30期生)を優秀な成績で卒業した石原は、軍事研究のためドイツに留学します。熱烈な法華経信奉者で、これに基づく歴史観・戦略観を持つ思想家として知られる石原は、フリードリヒ大王とナポレオンの戦史を研究し、この戦史研究と法華経信仰とを結合して「世界最終戦論」を構想します。石原は、近い将来、東洋文明を代表する日本と西洋文明を代表するアメリカとの間に人類最後の絶滅戦争=世界最終戦が起こると論じ、これに備えるために満蒙を領有し持久戦体制を構築するという満蒙領有論に基づき、関東軍を主導して満州事変ならびに満州国建国を推進しました。

 わずか1万数千の兵力で20数万の敵軍を破り、満州国建国を数カ月で成し遂げた軍事的快挙を賞賛される石原ですが、一方で、日本政府の不拡大方針を無視して戦線を拡大し、これが軍部の暴走を助長したとの批判も根強くあります。

 満州事変後は、参謀本部作戦課長、作戦部長などを歴任しますが、東条英機ら陸軍中枢と対立し、1941年(昭和16)に予備役に編入されます(最終階級は陸軍中将)。その後、立命館大学で教壇に立ち、東亜連盟協会の顧問として欧米帝国主義の圧迫を排除する「日満支」提携による東亜連盟の結成を訴え、熱烈な支持者を得て郷里の山形県鶴岡市を中心に運動を続けるなか終戦を迎えます。「民族協和」の満州国を精神的中核とする日本、朝鮮、満州国、中国などの協力により、21世紀には戦争を廃絶することを目指し、永久平和の到来の早期実現を図るべきことを提唱し続けた石原は、「東亜の父」と称されています。

📍「陸軍の父」10人の墓所

大村益次郎墓所(山口県山口市鋳銭司河原)
高杉晋作墓所(東行庵・山口県下関市吉田)
川路利良墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
秋山好古墓所(青山霊園・東京都港区南青山│鷺谷墓地・愛媛県松山市祝谷東町)
上原勇作墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
村田経芳墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)
有坂成章墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)
南部麒次郎墓所(不明)
原乙未生墓所(不明)
石原莞爾墓所(山形県飽海郡遊佐町菅里)

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「父」と呼ばれた日本人【近代産業編】/ 伊賀神一 (著)

ペーパーバック – 2025/6/11

当サイト、歴史キングのメインライターである伊賀神一が日本の偉人たちをまとめた渾身の一作。

幕末から明治、大正、昭和にかけての激動の時代に、日本は欧米列強を手本として近代国家形成にまい進し、政治、経済、科学技術、司法、文化とあらゆる分野において先駆的役割を果たした偉人たちを多く輩出しました。

「近代日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一、「台湾近代化の父」「満州開発の父」「国際開発学の父」「都市計画の父」など7つの称号を持つ後藤新平、「日本病理学の父」山極勝三郎……
彼らはなぜ、「父」と呼ばれるようになったのでしょう。

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