「海軍の父」たち│父と呼ばれた日本人
海軍生みの親と育ての親
日本の海軍は、勝海舟(1823~1899)が基礎をつくり、山本権兵衛(1852~1933)が育てたといわれます。二人は共に、後に「海軍の父」と称されますが、それは偶然ではありません。二人を引き合わせたのは西郷隆盛です。山本は、勝から「洋学の知識がなければ海軍術を身につけることはできない」と諭され、開成所に通いながら勝の薫陶を受けました。
勝は、咸臨丸の艦長として太平洋を横断したことで有名ですが、何といっても彼の功績は、海軍士官養成機関と海軍工廠の創設を幕府に建言し、神戸海軍操練所で坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐亨(すけゆき)などを育成して、後の日本海軍の基礎をつくったことです。

🔵勝海舟(1823~1899)│「海軍の父」
下級旗本出身の勝が世に出る好機をつかんだのは、ペリー来航の際に提出した「海防意見書」でした。これが、時の老中阿部正弘の目にとまり、幕府海防掛の大久保忠寛(ただひろ)の知遇を得て、長崎海軍伝習所で六年間、オランダ人教官から伝習を受けることができました。
維新後は、1872年(明治5)に海軍省の初代海軍卿に就任しますが、自身で言うようにほとんど活躍しませんでした。勝の評価として定着しているのは、幕府最後の政治家として「建国以来未曾有の革命をして腥風(せいふう)血雨の惨毒なく終結」(『勝海舟』民友社)させ、また、明治の功臣として国家建設に尽くし、政治的教訓に富む談話を残したことでしょう。
これに対し、福沢諭吉は『痩我慢の説』で江戸城無血開城を取り上げ、たとえ相手が強敵であろうと国を立てるために「痩我慢」を通して断固抵抗して戦うところに日本人の気風があったと勝を痛烈に批判し、また、勝が新政府に仕え爵位を得たことを非難しました。
これについて、勝は一言、「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすることだ。その評価は他人がするのであって自分はあずかり知らぬことと考えている)」(『氷川清話』講談社学術文庫)と述べています。
勝が残した数々の談話を読むと、「海軍の父」に収まり切らない人物であったと感じます。たとえば、日本が日清戦争に勝利した直後に新聞に掲載された談話があります。
「日本人もあまり戦争に勝ったなどと威張っていると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争に勝っても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思うと、おれはひそかに心配するヨ」
勝の高い慧眼は、『海舟語録』に残され、いまなお我々に大事な教訓を与えてくれます。
その勝の薫陶を受け、西郷から海軍入りを勧められた山本は、薩摩藩出身で、生家は西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎らと同じ町内でした。1869年(明治2)、18歳で藩の留学生として上京し、昌平坂学問所、開成所を経て海軍兵学寮に転じました。

🔵山本権兵衛(1852~1933)│「海軍の父」
海軍に入った山本は、1891年(明治24)、西郷従道(つぐみち)海軍大臣によって海軍省大臣官房主事に抜擢され、海軍の改革、対陸軍の地位向上に尽くします。
1892年(明治25)には参謀本部(陸軍)の統括下にあった海軍軍令機関を軍令部として独立させ、また1893年(明治26)には、清国やロシアの海軍に勝る海軍をつくるため、将官約10名、左官・尉官約90名の大人員整理を断行しました。この時、山本が掲げた方針は、「同郷(薩摩藩)出身の先輩で、維新当時から勲功を積み、将官級の地位にあっても、あるいは自分と親交があっても、海軍の将来の計画に対して、淘汰しなければならないと求める者は淘汰し、逆に、自分に対して悪口を放つ者でも、将来国家有用の人材と認める者は残す」という私情を廃したものでした。
山本は、わずか十数年で世界屈指のロシア海軍に勝利する近代海軍をつくり上げ、当時、「権兵衛なくして日本海軍なし」とまでいわれました。しかし、日露戦争後、海軍大将に進級した後、二度にわたり内閣総理大臣を務めますが、シーメンス事件や虎ノ門事件で総辞職に追い込まれます。
山本は、海軍行政の中枢にあって制度・人事・造艦・造機・艦隊編成・戦略に至るすべてにおいて采配を振るい、その間、日本海海戦においてロシア海軍壊滅という海戦史上稀に見る一方的勝利を演出し、「勝てる日本海軍」をつくり上げた功労者です。舞鶴鎮守府司令長官として退職一歩手前の地位にあった東郷平八郎を対ロシア戦の最高指揮官、常備艦隊(戦時は連合艦隊)司令長官に大抜擢したことも、山本の大きな功績の一つです。
二人の「造船の父」
海軍草創期、日本人による西洋式軍艦の造船に成功し、近代日本の造船技術と海軍の基礎固めに大きく貢献したことから、「日本造船の父」と呼ばれた人物が二人います。赤松則良(のりよし・1841~1920)と上田寅吉(1823~1890)です。
🔵赤松則良(1841~1920)│「日本造船の父」
🔵上田寅吉(1823~1890)│「日本造船の父」
赤松がみずからの設計で軍艦四隻(清輝・天城・海門・天竜)を建造したのは、横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠)所長を務めた1876年(明治9)頃のことです。そして、この四艦の製図を引いたのが上田寅吉でした。
江戸深川(現東京都江東区)で幕臣の家に生まれた赤松は、蘭学を学んだ後、長崎海軍伝習所に留学します。幕府軍艦操練所勤務等を経て、1860年(安政7)、咸臨丸で渡米し、さらに二年後、榎本武揚(たけあき)や西周(にしあまね)、上田らとオランダに留学し、1868年(明治元)5月に帰国するまで、物理・化学・理学・造船工学を学びました。
1870年(明治3)から兵部省に出仕し、海軍創設後は海軍兵学校大教授などを経て、横須賀造船所所長に就任します。1887年(明治20)に海軍中将に進級した後は、佐世保と横須賀の鎮守府司令長官を歴任し、退役後20年間、日本造船協会会長(現日本造船学界)を務めました。
その赤松が、「わが造船史上の一大恩人」と讃辞を惜しまなかったのが上田です。彼が近代日本造船界の一大恩人といわれるようになったきっかけは、ロシア遣日使節プチャーチン提督の乗艦するディアナ号の座礁でした。
1854年(嘉永7)11月3日、日露和親条約締結の第一回交渉が下田で行われ、翌日、いわゆる安政東海地震による大津波でディアナ号が損傷しました。修理のためにディアナ号は戸田(へだ)港目指して駿河湾を北上しますが、再び嵐に襲われ、数日間の漂流後、宮島村(現静岡県富士市)沖で沈没します。
プチャーチンは代船建造を幕府に請願し、幕府は韮山(にらやま・現静岡県伊豆の国市)代官・江川英龍(ひでたつ)を建造取締に任命します。この時、造船世話掛に選ばれた船大工棟梁七人のうちの一人が上田でした。
同年(安政元)12月24日、ロシアの乗組員から指導を受けた上田たちは、日本初の本格的洋式帆船の建造を開始し、翌年3月、二本マスト帆船、87トン、50人乗りの「ヘダ号」が進水しました。日本人の手によるこの快挙について、勝海舟は「このロシアの一大不幸がわが国にとって幸いとなり、日本の職人たちは、大変な苦労をしたものの、西洋式の造船方法を、知らず知らずのうち実地に会得したことが多い。……まさに日本国の幸いといわざるを得ない」と述べています。
伊豆国君沢郡戸田村(現静岡県沼津市)の船大工の家に生まれた上田は、長崎海軍伝習所、オランダ留学、横須賀造船所と、赤松とほぼ同じ経歴を持ちますが、すでに留学前、欧式船舶建造の知識を備えていました。
帰国後、戊辰戦争に参加しますが、降伏後、横須賀造船所に造船技術者として出仕し、赤松の述懐のとおり、日本人技術者だけによる西洋式船艦の造船に成功しました。
海軍「実戦の父」たち
先述の神戸海軍操練所で勝海舟の下、海軍士官としての教育を受け、後に「実戦面における真の日本海軍の父」と呼ばれた人物が、伊東祐亨(1843~1914)です。

🔵伊東祐亨(1843~1914)│「実戦面における真の日本海軍の父」
薩摩藩出身の伊東は独学で海軍の精神と技術を学び、維新後は軍艦の副長・艦長を歴任します。日清戦争に際しては、初代連合艦隊司令長官に任命され、清国水師提督・丁汝昌(テイジョショウ)率いる北洋艦隊と戦い、豊島(ほうとう)沖海戦、黄海海戦を制して黄海の海上権を獲得、威海衛(いかいえい)で北洋艦隊を降伏させました。
伊東は、日本海軍の精神的風土をつくり上げた「武士道精神の提督」としても有名です。北洋艦体壊滅後、自害した丁汝昌の遺体を乗せた軍艦が出港する際、伊東は日本の全艦船に半旗の掲揚と礼砲の発射を命じました。礼節をもって敵将を送り返した日本海軍の武士道精神は、世界中から称賛され、列強の日本に対する認識を改めさせました。
海軍軍令部長となり、また海軍大将に進級しても、伊東は政治権力には近づかず、純然たる武人としての生涯を貫きました。明治の軍指導者の多くはこの点をよくわきまえ、軍人としての資質を磨き、実戦を制することを追求しました。特に後者において決定的な影響を与えたのが、天才戦術家と呼ばれた海軍中将秋山真之(さねゆき・1868~1918)です。

🔵秋山真之(1868~1918)│「海軍兵学の父」
1890年(明治23)7月、海軍兵学校を首席で卒業し、日清戦争で砲艦「筑紫」の航海士として従軍した後、アメリカに留学した秋山は、日露開戦に備え戦術を研究します。「天気晴朗なれども波高し」の名文で幕を開けた日本海海戦では、連合艦隊主席参謀として参戦し歴史的勝利に導きました。上官たちは秋山の頭脳の優秀さに舌を巻き、ほとんどの作戦を彼に一任したといわれています。
丁字(ていじ)戦法をはじめ、乙字戦法、総掛かり戦法、水雷攻撃を駆使する秋山兵学は、日露戦争後、絶対的評価を受け不動の地位を得ます。連合艦隊司令長官の東郷平八郎に「智謀湧くがごとし」と評され、また、松山中学校(現松山東高等学校)時代の同級生正岡子規や兄好古(よしふる)と共に、『坂の上の雲』(文藝春秋)の主人公としてあまりに有名な秋山は、「海軍兵学の父」と称されています。
日本海海戦には、もう一人、父の称号を持つ参謀が参戦しています。連合艦隊先任参謀として旗艦「三笠」に搭乗した有馬良橘(りょうきつ・1861~1944)です。称号は「手旗信号の父」、日本海軍の「手旗信号」を創案した功労者です。
🔵有馬良橘(1861~1944)│「手旗信号の父」
創設当初の日本海軍が、海上での他艦との交信に用いた旗旒(きりゅう)信号法(信号旗を掲揚して通信する方法)は信号書と照らすのに時間がかかるため、有馬ら若い海軍士官たちは簡便な方法の発明に熱中します。有馬は余暇を利用して基本練習を繰り返し、ついに紅白二本の小旗を使って簡略文字の形成に成功します。イロハのカタカナ符号を用いて信号を送るという有馬が考案した手旗信号法は、1888年(明治21)9月、海軍に採用されました。手旗信号法はその後も改良が加えられ、今日までその効用が大きく評価されています。
紀伊国和歌山城下(現和歌山県和歌山市)生まれの有馬は、21歳で上京し、海軍兵学校を経て海軍に入ると、緻密で几帳面な性格を買われ、日露戦争では島村速雄(はやお)参謀長の下、秋山らと作戦参謀を担当、後に「軍神」となる広瀬武夫(たけお)が戦死したことで有名な旅順閉塞作戦を東郷に進言します。東郷は、生還の見込みの少ないこの作戦を当初は許しませんでしたが、緻密な作戦内容と、参謀みずからが指揮官となることで、二度の閉塞作戦を許可します。結局作戦は失敗に終わりますが、有馬は「旅順閉塞作戦生き残りの英雄」として、広くその名を知られることになります。後に海軍大将まで進級した有馬は、海軍教育本部長として士官教育に尽くし、退役後は枢密顧問官や明治神宮宮司を長く務めました。
八八艦隊の編成と軍縮
日露戦争後、海軍は大艦巨砲主義の道を歩み、アメリカを仮想敵国とする戦艦八隻、巡洋艦八隻を主力とする大艦隊整備計画に力を注ぎます。いわゆる「八八艦隊」の編成です。この計画の技術面を指導したのが平賀譲(ゆずる・1878~1943)です。
🔵平賀譲(1878~1943)│「軍艦設計の父」
東京芝生まれの平賀は、東京帝国大学工科大学造船学科を卒業後、海軍造船中技士に任官。1905年(明治38)、イギリス海軍大学校に留学します。渡英後すぐに日本海海戦の勝報を受けたことで大いに発奮し、造船技術の習得に勤しみました。
帰国後、戦艦「山城」の設計責任者として新技術を採用し、「長門」「陸奥」ならびに八八艦隊の全主力艦の基本設計を担当します。1922年(大正11)のワシントン海軍軍縮条約によって戦艦の建造が中止されると、船殻(せんこく)重量の最小化と武装の最大化を眼目として巡洋艦「夕張」「古鷹」「妙高」などを設計し、世界有数の軍艦設計者としてその名を知られ、「軍艦設計の父」と呼ばれました。
1918年(大正7)からは東京帝国大学工科大学教授を兼任して軍艦の設計・構造などの講義を担当するほか、海軍委託学生室でもマンツーマンの厳しい指導をしたそうです。太平洋戦争中、海軍造船官の多くは平賀の門弟であり、海軍造船中将に進級した平賀もA140計画(戦艦大和)の設計指導に当たりました。
退官後、東京帝国大学第13代総長に就任した平賀を待ち受けていたのは、経済学部の派閥抗争でした。河合栄治郎教授らによるファシズム批判と、土方成美(せいび)学部長を中心とする国家主義派が対立し、正常な運営ができなくなっていた経済学部を再建するため、平賀は独断で両名を休職処分にし、これに反発した教授13名が辞職する事態に発展しました。いわゆる「平賀粛学(帝大教授の処分)」です。
平賀が陸軍出身の荒木貞夫文部大臣のバックを得たことから、世間は「ファシズムによる大学弾圧」と非難し、軍人が帝国大学のトップに就任したことに皮肉を込め「軍艦学長」と呼びました。しかし、事件の真相は、大学トップがみずからの判断で非常時体制を確立し、事態を収拾しようとしたことにあったようです。事実、平賀は大学の自治と学問の自由を守り、また、翼賛体制下での学徒動員に対し、文部省に激しく抵抗しています。
話を先のワシントン軍縮会議に戻しましょう。この軍縮は、膨大な額に及ぶ八八艦隊の建造費によって圧迫される国家財政を救うものとなりました。この時、首席全権委員として軍縮条約に調印したのが、海軍大臣の加藤友三郎(ともさぶろう・1861~1923)です。

🔵加藤友三郎(1861~1923)│「軍縮の父」
広島藩士の三男に生まれ加藤は、海軍軍人であった兄を頼って上京、海軍兵学校を二番で卒業後海軍に入り、海軍大学校(第一期生)を経て海軍軍人として順調に経歴を重ねていきます。日本海海戦では東郷、秋山らと共に連合艦隊旗艦「三笠」に参謀長として乗艦し、戦後は、第二次大隈重信内閣、寺内正毅内閣、原敬内閣、高橋是清内閣の海軍大臣を務めた後、第21代内閣総理大臣に就任した海軍の知性派として知られています。
ワシントン会議に出席したのは原敬内閣の海軍大臣を務めていた時です。軍縮条約は、主力艦のトン数比率を米英の10に対して日本を6とし、10年間主力艦の建造を休止するというものでした。加藤は、当時の国際情勢と国益を踏まえ、国際協調による平和維持の観点からこれを妥当と判断します。加藤でなければ、軍部の反対を抑え、条約締結にこぎつけることはできなかったといわれます。果敢な行動力を見せた加藤に対し、条約参加国は「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスを持つ提督)」と高く評価しました。
実は、その前年、原首相は八八艦隊の膨大な予算を認めていました。加藤も海軍大臣として八八艦隊を推進しましたが、「国内は自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やってください」と言って加藤を送り出すのです。二人の信頼関係がワシントン会議の成功を後押ししたといえるでしょう。これは、戦前日本の政治と軍事のバランスが取れた最後の局面であったといわれています。
その後、1922(大正11)に高橋是清内閣退陣の後を受けて、内閣総理大臣兼海軍大臣に就任します。加藤の顔はロウソクのように細長く痩せていたため、「燃え残りのロウソク」「残燭(ざんしょく)内閣」と揶揄されますが、海軍軍縮を履行して軍艦一四隻の廃棄や海軍内のリストラを進め、さらには、陸軍初の軍縮を山梨半造(やまなしはんぞう)陸軍大臣の下で成功させました。加藤が「軍縮の父」と称されるゆえんです。
🔵大西瀧治郎(1891~1945)│「特攻の父」
太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官で、日本を代表する提督として知られる山本五十六と共に、早くから大艦巨砲を排して航空機の重要性を説いたのが大西瀧治郎(たきじろう・1891~1945)です。
兵庫県氷上郡芦田村(現兵庫県丹波市)生まれの大西は、日露戦争の「軍神」広瀬に憧れて海軍を志し、海軍兵学校を経て海軍に入り、イギリスへ留学後、海軍航空隊の養成に努めます。終戦まで航空界に身を置いたことから、「海軍航空育ての親」といわれました。
1943年(昭和18)、海軍中将に進級した大西は、翌年10月、第一航空艦隊司令長官としてアメリカ軍侵攻直後のフィリピン島へ着任します。従来の航空攻撃では、もはや敵軍艦に打撃を与えられないと判断した大西は、特攻戦法を採用し、10月25日、アメリカ空母に特攻隊を突入させました。以後これが海軍の主攻撃法となったことから、大西は「特攻の父」と呼ばれます。
それが事実であるならば、悲惨な「特攻隊」を生み出しただけの愚将という評価になるでしょうが、真実は違うようです。半藤一利氏は、特攻隊作戦が開始された前後の史実を詳細に分析し、「大西さんは、発案者でも何でもなく、むしろ海軍中央の総意の実行者だったのです」(『昭和史』平凡社)と断じています。大西を「特攻の父」として定着させることで、大西一人に責任を負わせるという海軍の責任逃れであったというわけです。
それでも、大西が「特攻の父」と称されたことを否定することはできません。確かに「特攻」は、功績というより、むしろ反省すべき史実です。この点、これまで紹介した「父」たちに付与された称号とは意味が異なります。しかし、我々は、「特攻の父」のような称号が持つ意味を考える必要があると思うのです。なぜならこの称号は、戦争の反省のみならず、みずからの職責を考えさせるものだからです。
半藤氏が「(大西さんは)総意の実行者だった」と述べているように、大西が特攻隊を出撃させ、数多くの若い生命を奪った司令官であったことは事実です。そのことは、大西自身がよく理解していました。
1945年(昭20)8月16日、終戦日の翌日に大西は割腹自決を図りました。遺書には、次のように書かれていました。
「特攻隊の英霊に日(もう)す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華(さんげ)せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副(そ)い奉(たてまつ)り、自重忍苦するの誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿(なか)れ。諸子は国の宝なり。平時に処し、猶(なお)克(よ)く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ」
📍「海軍の父」10人の墓所
勝海舟墓所(洗足池公園内・東京都大田区南千束)
山本権兵衛墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
赤松則良墓所(吉祥寺・東京都文京区本駒込)
上田寅吉墓所(大行寺・静岡県沼津市戸田)
伊東祐亨墓所(海晏寺・東京都品川区南品川)
秋山真之墓所(鎌倉霊園・神奈川県鎌倉市十二所)
有馬良橘墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
平賀譲墓所(多磨霊園・東京都府中市多磨町)
加藤友三郎墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
大西瀧治郎墓所(総持寺・神奈川県横浜市鶴見区鶴見)
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「父」と呼ばれた日本人【近代産業編】/ 伊賀神一 (著)
ペーパーバック – 2025/6/11

当サイト、歴史キングのメインライターである伊賀神一が日本の偉人たちをまとめた渾身の一作。
幕末から明治、大正、昭和にかけての激動の時代に、日本は欧米列強を手本として近代国家形成にまい進し、政治、経済、科学技術、司法、文化とあらゆる分野において先駆的役割を果たした偉人たちを多く輩出しました。
「近代日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一、「台湾近代化の父」「満州開発の父」「国際開発学の父」「都市計画の父」など7つの称号を持つ後藤新平、「日本病理学の父」山極勝三郎……
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