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「殖産興業の父」たち1️⃣│父と呼ばれた日本人

明治国家誕生のための父たち(ファーザーズ)

 近代日本の幕開けについて、司馬遼太郎は、「明治国家というものは、江戸二百七十年の無形の精神遺産の上に成立し、財産上の遺産といえば、大貧乏と借金と、それに横須賀ドックだった」と述べています(『「明治」という国家』日本放送出版協会)。この横須賀ドック(洋式造船所)の建設に尽くしたのが、「日本近代化の父」「明治の父」と呼ばれる小栗忠順(おぐりただまさ・1827~1868)です。

🔵小栗忠順(1827~1868)│「明治国家誕生のための父たち」

 小栗は神田駿河台(現東京都千代田区)の旗本の家に生まれ、後に大鳥圭介・榎本武揚(たけあき)と共に「幕末三傑」の一人に数えられる幕臣ですが、若い頃から急進的な開国思想の持ち主で、ペリー来航後、常々、「貿易というものは、座って待つものではない。みずから進んで海外に出て通商貿易をなすことである。それには、三本マストの木造船を建造して、中国までも進出して大いに貿易をやるべきだ」と語ったといわれています。

 井伊直弼大老から外国掛に抜擢され、1860年(安政7)、日米修好通商条約批准書を交換するため、遣米使節目付(監察)として渡米します。小判と金貨の交換比率の見直し交渉では、現地の新聞が「あきれるほどの忍耐心であった」と報道するほど粘り強く、日本側に不利のない契約をまとめ上げました。当時の幕臣に、このように財政に明るく外交交渉に長けた人物がいたことに驚きを感じます。

 当時の国内情勢は、攘夷論一辺倒でしたが、アメリカで造船所を見学し、日本の製鉄技術との差に驚愕した小栗は、強硬に開国論を主張します。これについて、幕臣から維新後ジャーナリストとして活躍し福沢諭吉と並び「天下の双福」といわれた福地源一郎(ふくちげんいちろう)は『幕末政治家』(岩波文庫)のなかで、「上野介(こうずけのすけ・小栗の通称)ただ一人憚ることなく、アメリカの文物の優れた点を説明し、日本においても、政治、軍事、経済などの面で欧米を模範として、これからの日本を改革しなければならないと論じ、幕閣を驚かせた」と語り、彼の信念と勇気を称賛しています。

 帰国後、勘定奉行となった小栗は、1865年(慶応元)、開国に向け横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設に着手します。工期4年、総工費240万ドル、製鉄・造船・兵器廠を備えた東洋一の大工場に加え、横浜には中規模工場を建設するという大事業計画でした。

 これについて、他の幕臣から「莫大な費用をかけて造船所をつくっても、完成する頃、幕府がどうなっているかわからない」という声が上がりますが、小栗は「幕府の運命が尽きたとしても、日本の運命には限りがない」と答えたといいます。その言葉どおり、造船所が完成した時、すでに幕府も小栗もこの世に存在していませんでした。

 戊辰戦争の際、官軍の江戸入城前に小栗は上野国群馬郡権田村(現群馬県高崎市倉渕町)の東善寺を住まいとし、学問塾の教師や水田整備の日々を送りますが、薩長軍に捕らえられた翌日、処刑されます。東善寺から程近い烏川(からすがわ)畔の処刑地には、「偉人小栗上野介、罪なくして此処に斬らる」と書かれた石碑があります。

 小栗が建設した横須賀製鉄所は明治新政府が引き継ぎ、後に海軍工廠となって、近代日本の造船技術を生み出す唯一の母胎になります。日本海海戦でロシア艦隊を撃滅した東郷平八郎は、小栗の遺族に対し、「日本海海戦の完全勝利は、小栗さんが横須賀造船所をつくってくれたおかげです」と礼を述べたといいます。

 司馬遼太郎は、近代国家の必須条件である海軍の基礎を築いた人物として小栗と勝海舟を挙げ、「明治国家誕生のための父たち(ファーザーズ)」と評価しています。そして、「いわゆる薩長は、かれらファーザーズの基礎工事の上に乗っかっただけともいえるのです」と述べています。また、明治政界の実力者・大隈重信も、「小栗上野介は、謀殺される運命にあった。明治政府の近代化政策は、そっくり小栗が行おうとしていたことを模倣したことだから」と語ったと伝えられています。

 二人の言葉どおり、小栗は日本の近代化政策、殖産興業政策に不可欠な遺産をつくった大恩人なのです。

🔵前田正名(1850~1921)│殖産興業の父

 明治政府の殖産興業政策の指導者・大久保利通の右腕として政策遂行を助け、大久保没後、それを継承した人物として、松方正義、品川弥二郎、前田正名(まさな・1850~1921)の三名がよく知られています。松方は後に大蔵省に転じ財政行政で辣腕を振るい、品川は産業組合法の立法化に尽力し、殖産興業政策とは一線を画した功績により、それぞれ「近代日本財政の父」「農業協同組合の父」と呼ばれます(第六回「資本主義の父」、第七回「法曹界の父」参照)。

 三人のなかでただ一人、一貫して殖産興業政策の推進に当たったのが薩摩藩出身の前田です。前田は、9歳で緒方洪庵門下の八木称平に師事して洋学を学びながら、師が行っていた琉球密貿易を手伝ったといわれます。1865年(慶応元)、長崎の何礼之(がのりゆき)の語学塾に藩費留学した時、イギリス帰りで薩摩藩外国掛として長崎に赴任してきた五代友厚から大きな影響を受けたと、後年前田は語っています。

 薩摩藩イギリス密航留学生(第四回参照)の選抜に漏れた前田ですが、洋行を諦めきれず、1869年(明治2)、兄献吉らと『和訳英辞書』を出版し、念願のフランス留学を果たします。「薩摩辞書」といわれたこの辞書は、明治20年頃まで6回も復刻され、日本人の英語学習に大きく貢献しました。

 留学中、各国の経済事情を視察し、農業・産業政策を研究して7年ぶりに帰国した前田は、すぐさま内務卿・大久保にパリ万国博覧会への参加を進言します。そして、これが認められると博覧会事務官として再びフランスに渡り、1879年(明治12)、大蔵省御用掛となり帰国します。この間、大久保が暗殺されますが、前田は、「将来の国家の大目的は、ひたすら殖産興業の任務に献身すべきである」という大久保の遺志を継いで殖産興業政策の一端を担うべく、その後の人生を歩んでいきます。

 1881年(明治14)、大蔵省ならびに農商務省の大書記官に就任し、1884年(明治17)には国内産業の実情を調査して、殖産興業のための報告書『興業意見』全三〇巻を編纂します。これは、松方財政による不況下の各産業界の現況と、資本供給、法規整備、地方産業の優先的近代化、政府保護の必要性などの政策をまとめたものです。現在の産業白書の原点ともいうべきもので、経済史研究の基本文献とされています。

 しかし、これによって、地方産業の犠牲のうえに軍備を拡張し、政商資本に手厚い保護を加える松方財政グループと対立し、この抗争に敗れた前田は一時非職となります。数年後、山梨県知事として復帰し、農商務相工務局長、東京農林学校長、農商務次官などを歴任するかたわら、全国規模の農事調査を実施しますが、今度は農商務大臣の陸奥宗光と対立し、再び下野します。かつて長崎の語学塾で机を並べ、同門のなかでも特に親しかった二人が、政府高官として対立することになるとは、人生とはまことに不思議なものです。
官を辞してからは、全国をくまなく行脚して、生糸・茶・織物などの輸出産業を中心に地方在来産業の育成と振興に生涯を捧げた前田は、「殖産興業の父」「明治産業の父」と称されています。

 「前田行脚」「前田実業」「布衣(ほい・江戸時代の旗本の服装)の宰相」「無冠の農相」と呼ばれるほど、全国津々浦々を行脚し地方産業を振興した前田の所信は、「今日の急務は国是・県是・郡是・村是を定むるにあり」というものでした。これが地方産業の担い手たちを大いに発奮させ、町村是(農村計画・地域計画)運動の潮流を生むのです。

 一例を挙げると、これに強く共感した波多野鶴吉(はたのつるきち)は、何鹿(いかるが)郡(現京都府綾部市)の発展のためには、農家に養蚕を奨励することが「郡是(郡の急務)」であると考えます。そして、蚕よう糸さん業振興を目的とする「郡是製糸(現グンゼ)」を設立し、日本を代表する繊維メーカーとして発展するのです。

🔵大島高任(1826~1901)│日本近代製鉄の父

 南部藩の医師の子として陸奥国岩手郡盛岡(現岩手県盛岡市)に生まれた大島高任(たかとう・1826~1901)は、江戸に出て箕作阮甫(みつくりげんぽ) や坪井信道(しんどう)に蘭学や医学を学んだ後、藩命により長崎で兵学・砲術・採鉱・製鉄などを学びました。

 1852年(嘉永5)、再び江戸で伊東玄朴(げんぼく)の塾に入門し、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の知遇を得て製鉄技術者として招かれ、1854年(安政元)に那珂湊(現茨城県ひたちなか市)で大砲鋳造用の反射炉建設に着手し、1856年(安政3)、砂鉄から精錬した銑鉄(せんてつ)で大砲をつくることに成功します。

 ところが、砂鉄銑が原料の大砲は、西洋の鉄製大砲に太刀打ちできません。そこで、良質の鉄鉱石を産する故郷南部藩の釜石(現岩手県釜石市)に洋式高炉を建設し、1857年(安政4)12月1日、わが国で初めて洋式高炉による製鉄に成功しました。

 大島が洋式高炉を完成させる前、薩摩藩が洋式高炉を建設していますが、薩英戦争の折に破壊されており、鉄材の安定的供給という意味では大島の洋式高炉が日本初の操業と位置づけられ、12月1日は「鉄の記念日」となっています。

 大島は、新政府でも製鉄・鉱山事業に尽力し、1871年(明治4)には岩倉使節団に加わり欧米の鉱山を視察し、ドイツではヨーロッパ最古の鉱山大学といわれるフライベルク大学で鉱山技術を学びました。帰国後は、小坂鉱山(現秋田県鹿角郡小坂町)や佐渡鉱山(現新潟県佐渡市)の鉱山局長などを歴任した後、1890年(明治23)には日本鉱業会初代会長に就任します。生涯にわたり日本における近代製鉄技術の基礎づくりと鉱山業の開発に尽くした大島は、「日本近代製鉄の父」と称されています。

工部大学校第一回卒業生――志田林三郎と小花冬吉

 殖産興業政策を支える工部省管轄の教育機関として1871年(明治4)に開校した工部省工学寮は、工部大学校(現東京大学工学部)に発展し、世界に先駆け実学を重んじた高等教育機関として、日本の近代化に重要な役割を果たします。この工部大学校の創設は、伊藤博文と山尾庸三の尽力によるものです(第三回「長州ファイブ」参照)。

 工部大学校第一回卒業生で、日本初の電気工学士となった志田林三郎(しだりんざぶろう・1855~1892)は、今日の高度情報化社会を予言した日本初の工学博士です。

🔵志田林三郎(1855~1892)│「日本電気工学の父」

 肥前国多久邑(たくゆう)別府村(現佐賀県多久市)に生まれ神童と呼ばれた志田は、佐賀藩官費給付生として上京し工学寮に入学します。成績は常にトップ、在学中数多くの賞を受け、1879(明治12)、電信科を首席で卒業しました。

 翌年、イギリス・グラスゴー大学に官費留学して、物理学の大家ケルビン卿(ウィリアム・トムソン)に師事します。ここでも秀才ぶりを発揮し、師に「数ある教え子のなかのベストスチューデント」と言わしめました。

 1883年(明治16)に帰国してからは、工部省技官として電信電話事業に携わりながら、工部大学校教授として世界初の快挙である導電式無線通信実験を行うなど研究に励み、また後進の専門教育に当たりました。

 1888年(明治21)には電気学会(初代会長は榎本武揚)を創設して、第一回総会で「将来可能となるであろう十余のエレクトロニクス技術予測」と題した演説を行い、高速多重通信、長距離無線通信、海外放送受信、光通信利用など、今日の無線、映像(テレビ)、録音、通信、送電などの電信・電気技術の出現を予言しています。

 1892年(明治25)、惜しくも三六歳という短い生涯を閉じますが、近代日本の電気工学という学問分野の道筋を示し、電気工学が実現しうる未来技術の先見性を示した志田は、「日本電気工学の父」と称されています。

 志田と同じ工部大学校第一回卒業生に、もう一人の「父」と呼ばれた人物がいます。「わが国鉱業界の父」と呼ばれる小花冬吉(おばなふゆきち・1855~1934)です。

🔵小花冬吉(1855~1934)│「鉱業界の父」

 幕臣の三男として江戸に生まれた小花は、工部大学校卒業後、イギリスに留学し、冶金(やきん)学を修めます。帰国後、工部省鉱山局鉱山課に出仕した後、官営広島鉱山の冶金技師として、中国地方に残る古来の砂鉄製錬法を改良しました。

 1887年(明20)、再び渡欧し、フランスで製錬技術を習得した小花は、政府が掲げる「殖産振興、富国強兵」の実現には良質の鉄が不可欠であり、官営製鉄所を創設することが急務であると、大山厳(いわお)元勲たちに説いて回ります。明治政府は、日清戦争後、議会の承認を経て官営八幡製鉄所の建設に着手し、小花は同製鉄所の初代製銑部長として高炉技術部門を指導しました。

 近代日本の鉱業界に貢献した技術者は数多いますが、そのなかで小花が「鉱業界の父」と称されるのは、農商務技師として鉱業法を立案したほか、鉱業技術者の育成に努めたことが挙げられます。1910年(明治43)、母校東京帝国大学教授に就任後、ドイツのフライベルク鉱山大学に比す鉱業学校の設立に奔走し、翌年、秋田鉱山専門学校(現秋田大学工学資源学部)の設立と同時に初代校長に就任し、多くの後進を輩出しました。

📍「殖産興業の父」1️⃣│5人の墓所

小栗忠順墓所(東善寺・群馬県高崎市倉渕権田/雑司ヶ谷霊園・東京都豊島区南池袋)
前田正名墓所(妙定院・東京都港区芝公園)
大島高任墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)
志田林三郎墓所(宝蔵寺・佐賀県多久市東多久町大字別府/青山霊園・東京都港区南青山)
小花冬吉墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)

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本のご紹介

「父」と呼ばれた日本人【近代産業編】/ 伊賀神一 (著)

ペーパーバック – 2025/6/11

当サイト、歴史キングのメインライターである伊賀神一が日本の偉人たちをまとめた渾身の一作。

幕末から明治、大正、昭和にかけての激動の時代に、日本は欧米列強を手本として近代国家形成にまい進し、政治、経済、科学技術、司法、文化とあらゆる分野において先駆的役割を果たした偉人たちを多く輩出しました。

「近代日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一、「台湾近代化の父」「満州開発の父」「国際開発学の父」「都市計画の父」など7つの称号を持つ後藤新平、「日本病理学の父」山極勝三郎……
彼らはなぜ、「父」と呼ばれるようになったのでしょう。

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