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群馬県の偉人:高山彦九郎 — 「寛政の三奇人」と称された、尊王の志に生きた旅の思想家

「我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ」

この和歌は、江戸時代中期、幕府の権威が盤石であった時代に、生涯をかけて尊王(天皇を敬う思想)の志を貫き通した高山彦九郎(たかやま ひこくろう)が、光格天皇から間接的に自身への言及があったと聞いたときの感激を詠んだものです。

上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)の郷士の家に生まれた彼は、林子平、蒲生君平と並び「寛政の三奇人」の一人に数えられ、その不屈の行動力と熱情は、後の明治維新の志士たちの精神的な礎となりました。

幼少期の感化と、尊王の志の覚醒

高山彦九郎は、1747年(延享4年)、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)の郷士(名主を務める豪農)の家に生まれました。高山家は、南北朝時代に新田義貞に仕えた平姓秩父氏族の流れをくむ家柄であり、その武士の血統と、新田義貞挙兵の日に生まれたという出自が、彦九郎の思想形成に大きな影響を与えました。

📌 『太平記』との出会いと出奔

彼の人生を決定づけたのは、13歳の時に読んだ軍記物語『太平記(たいへいき)』でした。

  • 勤皇の志: 彼は『太平記』を通じて、後醍醐天皇の南朝が志半ばで潰えた歴史に強い憤りを感じ、「武士が道に外れてどうする」という倫理観を形成。皇室への尊崇の念と、祖先への孝行の心が強く結びつき、勤皇の志を抱くようになりました。
  • 京への出奔: 明和元年(1764年)、18歳になった彦九郎は、置文を残して故郷を出奔。京都へ向かいました。京都に着いた彼は、三条大橋上で皇居(京都御所)を遥拝し、感激のあまり泣き崩れたという逸話は、彼の純粋で激しい尊王の情熱を象徴しています。

旅の思想家:全国を行脚した情報ネットワーク

彦九郎は、生涯のほとんどを旅に費やした「旅の思想家」でした。北は津軽半島、南は鹿児島まで、蝦夷地と四国を除くほぼ全国を旅行し、その旅の記録を膨大な日記として詳細に遺しました。

📌 知識人との交流と情報の媒介者

彦九郎の旅の目的は、単なる見聞を広めることではありませんでした。彼は、全国の有為の士と交流し、情報と知識を全国に拡散する「情報の媒介者」としての役割を果たしました。

  • 幅広い人脈: 江戸では蘭学者の前野良沢、儒学者の細井平洲、京都では公家の岩倉具選芝山持豊、文人の高芙蓉らと深く交友。米沢では上杉鷹山(うえすぎ ようざん)、九州では広瀬淡窓(ひろせ たんそう)を訪ねるなど、その交流範囲は、身分や学派を超えて多岐にわたりました。
  • 日記の価値: 彼の日記には、その土地の地誌里談(民間伝承)、社会状況(うちこわし、飢饉、物価騰貴)、そして忠義・孝行の美談などが精細に記録されています。これは、当時の日本の世情を知る上で極めて貴重な史料となっています。

📌 「寛政の三奇人」としての活動

林子平、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と称された彦九郎は、その独自の活動で知られています。

  • 奇瑞の亀: 琵琶湖で捕獲された緑毛の亀(古代中国で文治政治の兆しとされた祥瑞の象徴)を光格天皇に献上するなど、尊王の志を象徴的な行動で示しました。
  • 海防論との結合: 仙台で林子平と交流し、その海防論に共鳴。尊王思想と、林子平の先見的な危機意識を融合させ、幕末の志士たちに強い影響を与えました。

尊王思想の伝播と、幕末への影響

彦九郎の旅と行動は、当時の幕府には危険思想として警戒されましたが、彼の死後、その尊王思想は、幕末の志士たちに受け継がれ、明治維新の精神的な原動力となりました。

📌 志士たちの「心の鑑」

  • 吉田松陰: 江戸遊学中の吉田松陰は、彦九郎の伝記を読み、「武士たるものの亀鑑(かがみ)このことと存じ奉り候」と感銘を受けました。松陰の辞世の句と、彦九郎の辞世「朽はてゝ身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との呼応は、彦九郎の影響の大きさを物語っています。
  • 幕末の志士たち: 高杉晋作久坂玄瑞西郷隆盛中岡慎太郎など、多くの幕末の志士たちが、彦九郎の墓前を訪れ、その志を継ぐことを誓いました。

📌 悲劇的な最期

寛政5年(1793年)、彦九郎は九州久留米(現在の福岡県久留米市)の森嘉膳宅で自刃。47歳の生涯を閉じました。彼の自刃の理由は、公卿方からの反幕府の密命を帯びて薩摩藩を説得に行ったがうまくいかず、幕府の密偵による監視で京都に戻れなくなったことへの憤慨と無念によるものとされています。

📍高山彦九郎ゆかりの地:尊王の情熱を辿る旅

高山彦九郎の足跡は、彼の故郷である群馬県太田市から、生涯をかけて旅した全国各地、そして最期の地である久留米へと繋がっています。

  • 高山彦九郎記念館(群馬県太田市細谷町1324-7):国指定史跡、高山彦九郎宅跡附遺髪塚の隣接地に立地するサイトミュージアムです。直筆の日記や書簡、旅道具などの遺品や彦九郎に関する資料を展示、幕末の志士たちに影響を与え明治維新を導いたその生涯をたどることができる。
  • 高山神社(群馬県太田市本町48-32):高山彦九郎を祭神として祀る神社。
  • 高山彦九郎宅跡附遺髪塚(群馬県太田市細谷町):生家跡は現在畑となり、井戸・生垣・堀跡等に面影を残しているのみです。遺髪塚は本家である蓮沼家宅地をへだてた西側墓地内にある。
  • 高山彦九郎先生皇居望拝趾(京都市東山区三条大橋東詰):彼が皇居に向かって拝礼した場所を示す碑と、再建された銅像があります。この銅像は「土下座像」とも呼ばれますが、これは「拝跪(拝みひざまずく)」という尊王の精神を表した姿です
  • 高山彦九郎墓所(遍照院・福岡県久留米市寺町56):寛政5年(1793年)身を寄せていた久留米の医師・森嘉膳宅で自決、亡骸は寺町の遍照院に埋葬された。そばには彼の後を追って死んだ酒好きの西道俊のひょうたん墓が立っている。

💬高山彦九郎の遺産:現代社会へのメッセージ

高山彦九郎の生涯は、私たちに「信念を貫く情熱と行動力」の重要性を教えてくれます。彼は、当時の常識や権力に迎合することなく、自らの信じる尊王の志を、旅と著作を通じて全国に広めました。

彼の旅は、単なる個人的な記録ではなく、情報が乏しかった時代に、日本を一つに繋ぐ広大なネットワークを築いた政治活動でした。この情報の媒介者としての役割が、幕末の志士たちに「今、日本は何をすべきか」という共通認識を与える原動力となりました。

高山彦九郎の物語は、一人の人間が、その不屈の精神と行動力によって、時代の流れを動かし、国家の未来に影響を与えることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、自己の志に誠実に向き合い、真の愛国心とは何かを、力強く語りかけているのです。

(C)【歴史キング】

Information

関連する書籍のご紹介

本のご紹介

高山彦九郎 寛政三奇士の一、京都をゆく (日本の旅人) / 野間光辰 (著)

 単行本(ソフトカバー) – 2020/7/8

〈日本史上の人物を「旅人」としての観点でとらえたシリーズ『日本の旅人』からの復刊〉
〈戦前は愛国精神の権化のごとく祭り上げられ、かえって戦後は貶められた高山彦九郎の、その等身大の実像を活写する〉

昭和48年から淡交社より刊行された『日本の旅人』は、池田彌三郎、奈良本辰也両氏を中心に構想され、日本の歴史上の人物を「日本の旅人」として15人を採択し、それぞれ当時の著名な執筆陣を迎えて著された全15巻のシリーズでした。今回、その中から「高山彦九郎」の巻を復刊します。著者の野間光辰(1909 ~87)氏は、井原西鶴研究の第一人者で、『新修京都叢書』(全23巻)の編集を務めるなど、京都在住の国文学者として活躍しました。本書は、「寛政の三奇人」の一人として知られる高山彦九郎の生涯を、「旅人」としての観点から、著者独特の軽妙洒脱な文体で読み解いていきます。

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