広島県の偉人:阿部正弘 — 黒船来航に立ち向かい、「安政の改革」を断行した近代日本の先駆者
「優柔不断、八方美人」
後世、そう酷評されることもあった阿部正弘(あべ まさひろ)ですが、彼の真の姿は、嘉永6年(1853年)の黒船来航という未曾有の国難に際し、鎖国の祖法を破って開国を決断し、日本の近代化への道筋をつけた稀代の調整型リーダーでした。
備後国福山藩主(広島県)の家に生まれた彼は、わずか25歳で老中に抜擢され、39歳の若さで命を燃やし尽くすまで、幕府の総責任者として安政の改革を断行しました。彼の採った「公議世論政治」という手法は、後の明治維新、さらには日本の民主政治の萌芽となりました。
幼少期の聡明さと、異例の出世
阿部正弘は、1819年(文政2年)、備後国福山藩の第5代藩主・阿部正精の五男として、江戸西の丸屋敷で生まれました。阿部家は代々幕府の要職を務める譜代大名の家柄でした。
病弱な兄の跡を継ぎ、18歳で藩主の座についた正弘は、その聡明さから若くして頭角を現します。
- 寺社奉行としての辣腕: 天保11年(1840年)、22歳の若さで寺社奉行に就任。長期政権であった11代将軍徳川家斉の時代の「大奥と僧侶の不純な交友関係」が露見した大事件(中山法華経寺事件)の処理を任せられます。正弘は、将軍家斉の名誉と再発防止という複雑な課題を見事に調整し、事件を収束させました。
- 老中首座への抜擢: この裁断により、第12代将軍徳川家慶の信任を得た正弘は、天保14年(1843年)にわずか25歳で老中に抜擢。さらに弘化2年(1845年)には、時の老中首座・水野忠邦を追放し、27歳で老中首座に就任するという、幕府創設以来最年少の異例の出世を果たしました。
黒船来航:国難への「公議世論政治」
正弘が幕政の責任者であった時期は、まさに日本が対外的脅威に直面した激動の時代でした。
📌 鎖国体制の終焉と情報公開
嘉永6年(1853年)、アメリカのペリー提督率いる黒船4隻が浦賀に来航し、開国を迫るという未曾有の危機が訪れます。当時の日本には、米国と戦争になった場合の勝ち目がありませんでした。
- 公議世論の重視: 正弘は、従来の幕府の秘密主義を破り、ペリーの来日とアメリカ大統領の国書の内容を、朝廷、外様大名を含む諸大名、さらには一般庶民にまで回覧し、広く意見を求めました。これは、幕府の専制的な政治運営を転換させる画期的な手法であり、後の民主政治の萌芽となりました。
- 開国への苦渋の決断: 諸大名からの意見は攘夷論が多数を占めましたが、正弘は欧米列強のアジア侵略という世界情勢を冷静に分析。「武力で勝利することはできない。無謀な攘夷は日本にとって恥となる」と判断。時間を引き延ばしつつ、その間に軍事力を強化する方向性を模索しました。
- 日米和親条約の締結: 翌年、ペリーの再来と軍事的な圧力の中、正弘は通商開始という最大の要求を断固拒否しつつも、薪水・食料の補給と下田・函館の開港を約束する日米和親条約を締結。200年以上にわたる鎖国政策はここに終わりを告げました。
安政の改革:近代化の礎を築く
日米和親条約締結後、正弘は、日本が外国の脅威に対抗しうる国防強化と近代国家建設という大きな国家目標を実現するため、大胆な幕政改革(安政の改革)を断行しました。
📌 調整型リーダーによる挙国一致体制
正弘の政治手法は、自らが属する譜代大名の保身に走ることなく、国家百年の大計を考えた点にあります。彼は、攘夷派・開国派の対立が激化する中で、卓越した調整力を発揮し、挙国一致体制を築きました。
- 人材の大胆な登用: 身分や門閥にこだわらず、若く優秀な人材を登用しました。
- 江川英龍、勝海舟を海軍伝習所に登用。
- 大久保忠寛、永井尚志を目付・外国奉行などに抜擢。
- 国防強化と近代化の促進:
- 軍艦の発注: ペリー初来航のわずか2週間後に、長崎奉行に命じてオランダに軍艦2隻を発注するという、驚異的な即断即決力を見せました。
- 軍制改革: 西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和を行い、江戸湾に品川台場を築造。
- 教育機関の創設:
- 武芸の訓練機関として講武所を設置(後の日本陸軍の基礎)。
- 洋学研究機関として蕃書調所を設置(後の東京大学の前身)。
- 洋式軍艦の操縦などを学ぶ長崎海軍伝習所を設置(後の日本海軍の基礎)。
📌 福山藩での教育振興
藩政を顧みることはほとんどありませんでしたが、藩校「弘道館」を「誠之館(せいしかん)」に改め、身分にかかわらず庶民にも聴講を許すなど、教育に注力しました。この藩校に加増された1万石のほとんどを注ぎ込んだといわれるほど、人材育成に熱意を注ぎました。
優柔不断の評価と、早すぎる死
正弘の採った雄藩大名(島津斉彬、松平慶永、徳川斉昭ら)との協調路線は、結果的に幕府の権威を弱め、諸大名の幕政への介入を許すこととなりました。このため、旧来の幕府専断に固執する譜代大名たちからは「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」と揶揄されるなど、弱気な政治姿勢と見られがちでした。
しかし、彼の政治手法は、人の意見をよく聞き、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」という、極めて冷静で現実主義的な判断に基づいていたのです。
正弘は、老中首座を堀田正睦に譲った後も、外交問題への対応に追われ続け、積年の心労により体調を悪化させました。安政4年(1857年)、39歳の若さで老中在任のまま急死。もし彼が若年で亡くなっていなければ、その後の日米修好通商条約締結や将軍継嗣問題といった幕末の混乱は、違った形で展開していたかもしれない、と言われています。
阿部正弘を深く知る「この一冊!」
史実に基づいた歴史小説!

開国のとき: 小説阿部正弘 / 上條 俊昭 (著)
単行本 – 1996/12/1

黒船来航という未曾有の国難に直面した老中首座・阿部正弘が、いかに苦悩し、開国という大英断を下したかを描いた歴史小説です。彼の人間的な葛藤と、近代日本の扉を開いた功績を深く知ることができるでしょう。
📍阿部正弘ゆかりの地:改革の足跡を辿る旅
阿部正弘の足跡は、彼の生まれ故郷である江戸(東京)から、藩地である広島県福山へと繋がっています。
- 誠之館址碑(福山市中央公園・広島県福山市霞町1-10):誠之館の跡地に石碑が建つ。
- 福山城博物館(広島県福山市丸之内1-8):福山城は、譜代大名、水野勝成によって元和8年(1622年)に築城されたが、1945年の空襲で消滅。1966年天守が再建され、内部は博物館として利用されていたが、2020年より「令和の大普請」と銘うち、天守北面鉄板張りなど消失前の天守への復元と、博物館のリニューアルが行われた。福山城と福山藩の歴史を学ぶことができる展示に特化し、クイズコーナーや体験型コンテンツが新設された。
- 阿部正弘像(福山城二之丸西側上段・広島県福山市丸之内1-8):現在は二代目の像。1978年(昭和53年)に市制施行60周年を記念して、大半が寄付により建立された。像の原型は本市出身の陶山定人により作製され、書物を脇に抱え、一歩踏み出そうとするその姿は、昔ながらのやり方を絶ち、近代国家への舵を切った阿部正弘の生涯を思わせます。
- 阿部正弘公石像(備後護国神社・広島県福山市丸之内1-9-2):阿部家十代、福山藩主七代目の正弘公は、当神社の御祭神であり希望学校の合格、就職の御祈祷を受けられるよう、石像を潜りご希望を叶えて下さい(阿部正弘公石像石像潜り)。
- 備後国福山藩主阿部家江戸屋敷(丸山屋敷)跡(東京都文京区西片):江戸時代に福山藩の阿部家の屋敷があった地域が、明治期に「駒込西片町」となった。東京大学の本郷キャンパスの西側にあり、学者や文人が暮らす「学者町」とも呼ばれた。夏目漱石や魯迅、樋口一葉らの旧居跡を紹介する案内板も立つ。現在は地名は「西片」となり、西片町会の地域に約2千世帯(約4千人)が暮らす。
- 西片公園(東京都文京区西片2):公園の南側には、明治24年(1891年)に阿部伊勢守屋敷の本邸が新築された際にできた広場にあった「大椎樹(おおしいのき)」の歴史を残す石のモニュメントがあります。
- 文京区立誠之小学校(東京都文京区西片2):明治8年(1875年)に開校し、現在は140年以上の歴史ある公立小学校。誠之小学校は、阿部家の丸山屋敷内にあった藩校「誠之館」を母体としており、近隣の第一幼稚園や福山から東京に出てきて勉強する学生たちの寮である誠之舎とともに日本で活躍する多くの人々を輩出しています。
- 阿部正弘墓所(谷中霊園乙11号1付近・東京都台東区谷中7)
💬阿部正弘の遺産:現代社会へのメッセージ
阿部正弘の生涯は、私たちに「危機におけるリーダーシップのあり方」を教えてくれます。彼は、自己の信念を押し通すのではなく、多様な意見を尊重し、対立する勢力をも巻き込む調整型リーダーとして、国難に対処しました。
彼の採った公議世論政治という手法は、後の明治維新、そして民主主義の発展に不可欠な精神的な基盤を提供しました。
阿部正弘の物語は、一国の宰相が、その知恵と調整力によって、国家の存亡という極限の状況下で、最善の道を切り拓くことができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、冷静な状況分析と、国と民の未来を最優先する政治的責任を持つことの大切さを、力強く語りかけているのです。
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