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埼玉県の偉人:塙保己一 — ヘレン・ケラーが「人生の目標」とした全盲の大学者

「目あきというのは不自由なものじゃ」

ある夜、講義中に蝋燭の火が消え、慌てふためく弟子たちに向かって、全盲の学者・塙保己一(はなわ ほきいち)はユーモアを込めてこう言いました。

武蔵国保木野村(現在の埼玉県本庄市)に生まれた彼は、7歳で失明するという過酷な運命を背負いながらも、驚異的な記憶力と不屈の精神で学問の道を切り拓きました。彼が生涯をかけて編纂した『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』は、散逸しかけていた日本の貴重な古典を後世に残した偉業であり、現代の日本文化研究の礎となっています。

その生き様は、国境と時代を超え、奇跡の人ヘレン・ケラーをして「私の人生の目標」と言わしめました。

幼少期の暗闇と、母との別れ

塙保己一(幼名:寅之助)は、1746年(延享3年)、武蔵国児玉郡保木野村(現・埼玉県本庄市児玉町)の貧しい農家に生まれました。幼い頃から草花を愛し、物覚えの良い子供でしたが、5歳の時に患った疳の病(胃腸病)が原因で徐々に視力が弱まり、7歳の春、ついに完全な失明に至りました。

光を失った少年にとって、最大の支えは母・きよでした。母は保己一を背負って観音様へ祈願に行き、物語を読み聞かせ、彼の手を引いて歩きました。しかし、保己一が12歳の時、最愛の母は過労と心痛により帰らぬ人となります。

深い悲しみに暮れる保己一でしたが、ある時、絹商人から「江戸には『太平記』を暗記して読み聞かせ、高い位についた盲人がいる」という話を聞きます。「それなら自分にもできるかもしれない」。母が縫ってくれた形見の巾着に23文の銭を忍ばせ、15歳の春、彼は父の反対を押し切って江戸へと旅立ちました。

絶望からの再起:「学問」への道

江戸に出た保己一は、盲人の組織「当道座」の雨富須賀一検校(あめとみ すがいちけんぎょう)に入門し、「千弥(せんや)」と名を改めます。

しかし、当時の盲人の主な生業であった鍼(はり)、按摩(あんま)、琴、三味線の修行は、生来不器用な彼には全く向いていませんでした。兄弟子からは嘲笑され、一向に上達しない自分に絶望した保己一は、ある日自殺を決意します。しかし、直前で思いとどまり、師匠の雨富検校に「自分は芸事には向かないが、学問が好きです。学問で身を立てたい」と正直に打ち明けました。

師匠は彼の熱意と記憶力の良さを見抜き、「3年間だけ面倒を見よう。それで見込みがなければ国へ帰れ」という条件付きで、学問への道を許しました。

📌 驚異の記憶力と「結びの紐」

保己一の勉強法は、他人に本を朗読してもらい、それを一言一句記憶するというものでした。

ある夏の夜、隣家の旗本・高井山城守の夫人が本を読んでくれていた時のことです。夫人は、保己一が自分の両手を紐で縛っていることに気づきました。「何をしているのですか」と尋ねると、彼はこう答えました。 

「蚊に刺されて手を動かすと、気が散ってせっかく読んでいただいている本の内容を聞き漏らしてしまいます。ですから、こうして縛っているのです」

この鬼気迫るほどの学習意欲に夫人は深く感動し、生涯の支援を約束しました。彼は、国学者の萩原宗固賀茂真淵らに師事し、儒学、漢学、律令、和歌など、あらゆる学問を吸収していきました。

一大事業『群書類従』の編纂

1779年(安永8年)、34歳になった保己一(この頃、師の本姓「塙」を継ぎ改名)は、ある決意をします。

 「貴重な書物が各地に散らばり、失われつつある。これらを集めて版木に彫り、いつでも誰でも読めるようにしなければ、日本の文化は消えてしまう」

彼は、日本全国に散逸していた歴史書、物語、日記、和歌集などの文献を収集・校訂し、出版するという壮大なプロジェクト『群書類従』の編纂に着手しました。

📌 和学講談所の設立と41年の歳月

1793年(寛政5年)、保己一は幕府に願い出て、国学の研究機関である「和学講談所」を設立しました。ここを拠点に、多くの弟子たちと共に資料の収集と編纂を進めました。

この事業は、資金不足や火災による版木の焼失など、幾多の困難に見舞われました。しかし保己一は決して諦めず、1819年(文政2年)、着手から実に41年の歳月をかけて、『群書類従』正編666冊を完成させました。版木の総数は約1万7千枚に及びます。

この功績により、彼は盲人としての最高位「総検校(そうけんぎょう)」に昇り詰めました。

ヘレン・ケラーと渋沢栄一:受け継がれる精神

保己一が1821年に76歳で没した後も、その功績は偉人たちによって語り継がれました。

📌 渋沢栄一による「温故学会」の創設

明治時代に入り、『群書類従』の版木が散逸の危機に瀕した際、同じ埼玉県の偉人であり、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が立ち上がりました。渋沢は保己一を深く尊敬しており、版木を保存・管理するために「温故学会」の設立に尽力しました。現在も東京都渋谷区にある温故学会会館で、版木は大切に保管されています。

📌 ヘレン・ケラーの心の支え

1937年(昭和12年)、三重苦の聖女ヘレン・ケラーが来日しました。彼女は幼い頃、母から「日本には塙保己一という、目が見えなくても偉大な学問を成し遂げた人がいる」と教えられ、彼を人生の目標としていました。

温故学会を訪れたヘレン・ケラーは、保己一の坐像や彼が使っていた机に触れ、次のように語りました。 

「私は特別な思いでこの埼玉(ゆかりの地)に来ました。それは、私が心の支えとして、また人生の目標としてきた人物がこの塙保己一先生だったからです。先生のお名前は、流れる水のように永遠に伝わることでしょう」

晩年と遺産

激務と度重なる発行停止処分による心労は、羯南の体を蝕みました。肺結核を発症し、明治39年(1906年)、新聞『日本』の経営権を譲渡。翌明治40年(1907年)、50歳という若さで鎌倉にて永眠しました。

Information

塙保己一を深く知る「この一冊!」

全盲というハンデを負いながら、誰よりも輝いた男が居た

本のご紹介

塙保己一とともに: ヘレン・ケラーと塙保己一 / 堺 正一 (著)

単行本 – 2005/9/1

塙保己一の生涯と、彼を心の師と仰いだヘレン・ケラーとの魂の交流を描いた感動の物語です。障害を乗り越え、世界に光を与えた二人の偉人の絆を知ることができます。

📍塙保己一ゆかりの地:不屈の足跡を辿る旅

  • 塙保己一旧宅(埼玉県本庄市児玉町保木野325):塙保己一が生まれた児玉町保木野地区は、「塙保己一の里」としてゆかりの文化財があります。児玉町保木野には保己一の生まれた入母屋造りの茅葺き二階建ての生家があり、国の史跡に指定されています。
  • 塙保己一記念館(埼玉県本庄市児玉町八幡山368・アスピアこだま内:塙保己一記念館は、平成27年にリニューアルオープンし、保己一の遺品や関係資料を展示しています。八角形の展示室などが特徴の記念館となっています。
  • 塙保己一記念碑・墓所(本庄市児玉町保木野・塙保己一公園内):塙保己一旧宅の西側には、塙保己一の名を冠した公園「塙保己一公園」があり、公園内には塙保己一の墓があります。塙保己一は、文政4年(1821年)、9月12日に76歳で死去しました。没後、江戸四谷の安楽寺に葬られましたが、後にこの寺が廃絶したため、明治31年(1898)に隣接する愛染院に改葬されました。その時に、墓の土を郷里の保木野に持ち帰り墓が建てられたといわれます。現在、墓は塙保己一公園内に移転し、墓の隣には、渋沢栄一題字の塙保己一没後百周年記念碑があります。
  • 東方山龍清寺(本庄市児玉町保木野387):保己一が幼少時によく遊んだ寺。カヤの巨木は市指定天然記念物。境内に三日月不動尊という日本三大不動様がある。
  • 歓喜山實相寺(本庄市児玉町児玉100):實相寺は、塙保己一が生まれた荻野家の菩提寺です。實相寺には、検校塙保己一が寛政12年(1800)に奉納したローソク立て(燭台)が残されています。このローソク立ては、若くして江戸に出て、多忙な毎日に追われ、郷里保木野に帰るできなかったが、実家のこと、ご先祖様のことなどを心配していた塙保己一が、「暗闇の中でも灯りは誰の心にもへだてなく希望を与えるものだ」と考え、また、子どもの頃から目が見えず、「明るさ」への気持ちを考えて、このローソク立てを奉納したといわれます。このローソク立てには両親の戒名が刻まれており、両親の菩提を弔うためであったと思われます。
  • 塙保己一少年像(JR上越新幹線・本庄早稲田駅前・埼玉県本庄市早稲田の杜1-1-1):【塙保己一像―旅立ちの朝―】この銅像は15歳で希望を胸に故郷から江戸へ向けて旅立つ塙保己一少年の姿を表したものです。知り合いの絹商人に伴われて江戸に出た後、保己一は盲目でありながら、幾多の困難を乗り越え、歴史に残る偉業を達成しました。盲・聾・唖の三重苦克服し、世界中に福祉を提唱した『奇跡の人』ヘレン・ケラーも塙保己一を尊敬する人物として挙げています。
  • 和学講談所跡(東京都千代田区三番町24)東京都指定旧跡・塙検校和学講談所跡。保己一が設立した学問所の跡地です。ここで多くの門弟を育てるとともに、水戸藩から依頼された大日本史の校正をはじめ数々の資料等の編集事業を行います。文政2年(1819)には着手以来41年をかけた群書類従(670冊)を刊行しました。多くの有名な学者を輩出した和学講談所は、保己一が亡くなった後もその子孫に引き継がれ、江戸幕府が崩壊するまで約75年間続きました。当時の建物は残っておらず、跡地を伝えていた標柱と銘板も現在は撤去され、管理者の保管となっています。
  • 塙保己一像温故学会会館(東京都渋谷区東2-9-1):『群書類従』の版木全点を保管・展示しており、ヘレン・ケラーが訪れた場所としても知られます。『群書類従』の版木を管理・保存する目的で、斉藤茂三郎(第2代温故学会理事長)が渋沢栄一、三井八郎右衛門ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て建てられた。
  • 塙保己一墓所(東京都新宿区愛染院2-8-3):墓所は最初、安楽寺という寺にありましたが、明治30年(1897)に廃寺となったため、愛染院(あいぜんいん)に移されました。正面右手には師の雨富検校が、周りには塙家代々が一緒に眠っている。

💬塙保己一の遺産:現代社会へのメッセージ

塙保己一の生涯は、私たちに「ハンディキャップは可能性の限界ではない」ということを教えてくれます。彼は、視覚を失った代わりに、記憶力と聴覚を研ぎ澄まし、常人には成し得ない偉業を達成しました。

『群書類従』がなければ、『源氏物語』や『枕草子』などの多くの古典文学や歴史資料は、今日読むことができなかったかもしれません。日本の文化と歴史を守り抜いた彼の執念と、「世のため後のため」という高い志は、現代を生きる私たちに、困難に立ち向かう勇気と、文化を継承することの尊さを力強く語りかけています。

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