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岩手県の偉人:石川啄木 — 貧困と流離の果てに「生活の真実」を詠んだ国民的歌人

「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」

このあまりにも有名な一首を残した石川啄木(いしかわ たくぼく)は、明治という新しい時代の光と影を一身に背負い、26歳という若さで駆け抜けた彗星のような歌人です。

岩手県日戸村(現在の盛岡市)に寺の長男として生まれた彼は、神童と称えられた自尊心の強さと、理想と現実のギャップに苦しみ続けました。貧困、病苦、そして家族の不和。凄絶な日常の中から絞り出された彼の短歌は、当時の既成概念を打ち破る「三行分かち書き」という新しい形式を伴い、今なお日本人の心に深く刺さり続けています。

渋民の神童:文学への「あこがれ」

石川啄木(本名:一(はじめ))は、1886年(明治19年)、岩手県南岩手郡日戸村にある常光寺住職の長男として生まれました。翌年、一家は渋民村(現在の盛岡市渋民)の宝徳寺に移ります。

幼少期の啄木は体が弱かったものの、一家唯一の男児として両親から溺愛されました。その環境が、彼の類まれな自信家としての性格と、繊細な感性を育みました。渋民小学校を首席で卒業し、盛岡尋常中学校(現在の盛岡第一高校)に入学すると、先輩の金田一京助らを通じて雑誌『明星』に触れ、与謝野鉄幹・晶子夫妻が主導する浪漫主義文学に傾倒していきます。

📌 中退と上京、そして挫折

文学に没頭するあまり学業を疎かにした啄木は、試験での不正疑惑や欠席過多もあり、卒業を目前に中学校を退学します。「文学で身を立てる」という野望を抱き上京しますが、職を得られず病に倒れ、わずか半年で帰郷を余儀なくされました。

1905年(明治38年)、19歳で処女詩集『あこがれ』を刊行。天才詩人として華々しくデビューしたかに見えましたが、この時期、父が住職を罷免されるという悲劇が一家を襲います。これ以降、啄木は「一家の糊口(ここう)を凌ぐ」という重い十字架を背負うことになったのです。

北海道漂泊の旅:ジャーナリストとしての覚醒

渋民での代用教員生活に失敗した啄木は、1907年(明治40年)、新天地を求めて北海道へと渡ります。函館、札幌、小樽、釧路。約1年間にわたる流浪の生活の中で、彼は新聞記者として働きながら、厳しい現実社会の矛盾を見つめ続けました。

📌 釧路での日々

特に釧路新聞社では事実上の編集長として腕を振るい、芸妓・小奴との交流など束の間の華やかな日々もありましたが、中央文壇への焦燥感は消えませんでした。「小生の文学的運命を極限まで試験する」と決意し、1908年(明治41年)、彼は家族を函館に残したまま、再び単身で東京へと向かいます。

本郷の苦闘:『一握の砂』の誕生

東京に戻った啄木を待っていたのは、極限の困窮でした。親友・金田一京助の援助を受けながら創作に励みますが、期待した小説はことごとく出版社に拒絶されます。

📌 小説への挫折と短歌への回帰

彼にとって短歌は当初、小説が書けない鬱憤を晴らすための「悲しい玩具(がんぐ)」に過ぎませんでした。しかし、その「玩具」に込めた生活の実感こそが、彼を不滅の歌人へと押し上げます。

1909年(明治42年)、東京朝日新聞社の校正係として採用され、ようやく収入の安定を得た彼は、本郷弓町の床屋「喜之床(きのとこ)」に家族を呼び寄せます。この時期の苦悩を綴った「ローマ字日記」は、人間のエゴイズムと真実を曝け出した日記文学の傑作として高く評価されています。

📌 三行書きの革命

1910年(明治43年)、第一歌集『一握の砂』を刊行。

  • 三行分かち書き:それまでの一行書きの常識を破り、視覚的なリズムを生み出しました。
  • 口語的表現:日常の話し言葉を用い、ありふれた生活の喜びや悲しみを歌に込めました。

思想の深まり:「大逆事件」と文明批評

啄木の文学は、単なる叙情詩に留まりませんでした。1910年に起きた大逆事件(幸徳事件)は、彼に決定的な衝撃を与えます。国家権力によって社会主義者が抹殺される現状を目の当たりにし、彼は急速に社会主義思想への関心を深めました。

📌 「時代閉塞の現状」

彼は評論「時代閉塞の現状」を執筆し、閉ざされた時代の中で「明日」への活路を見出すべきだと主張しました。「時代に没頭していては時代を批評することは出来ない」という彼の言葉は、現代を生きる私たちへの警句でもあります。

自然破壊が進む文明に対し、「それは地獄の門に至る道」と警告を発した先見性は、彼が単なる「生活派歌人」ではなく、鋭い批評精神を持った思想家であったことを物語っています。

絶筆と終焉:悲しき玩具

病魔(肺結核)は容赦なく啄木と彼の家族を蝕みました。母カツが結核で亡くなり、その1ヶ月後の1912年(明治45年)4月13日、啄木もまた、妻の節子、父の一禎、友人の若山牧水に見守られながら、26年の短い生涯を閉じました。

死後2ヶ月を経て刊行された第二歌集『悲しき玩具』には、病床で最期まで書き続けた、より鋭く、より切実な叫びが収められています。

Information

石川啄木を深く知る「この一冊!」

新編石川啄木 (講談社文芸文庫)

本のご紹介

新編石川啄木 (講談社文芸文庫) / 金田一 京助 (著)

文庫 – 2003/3/1

10代で夭逝した天才歌人・石川啄木と、同郷の先輩で親友、言語学者として大成した著者は、啄木の才能を惜しんで、時に生活を共にし、陰に陽に物心両面で彼を支えた。後年、折にふれて綴った啄木追慕の文章は、人間啄木の素顔を活写し、『定本 石川啄木』として本に纏まった。本書は、『定本 石川啄木』に「啄木の追慕」「啄木の終焉」など5編を増補し、新たに編集したものである。

📍石川啄木ゆかりの地:漂泊の足跡を辿る旅

石川啄木の魂は、今も各地の歌碑や記念館に息づいています。

  • 「石川啄木生誕之地」の碑(常光寺・岩手県盛岡市日戸古屋敷71):明治19年2月20日石川啄木はこの寺に生まれた。境内には啄木の生涯の友であった金田一京助の揮亳による「石川啄木生誕之地」の碑がある。また、啄木の宝徳寺に転住するまで過ごした部屋が一部復元保存されている。
  • 石川啄木記念館(岩手県盛岡市渋民字渋民9):故郷である渋民に、啄木の顕彰と資料収集、保存、情報提供を目的として1970年に開館しました。現在の記念館は、啄木がかつて理想の「家」を詩に託した白い西洋風の家をイメージし、生誕100年を記念して1986年に建てられました。

館内は、啄木文学の原点から終焉まで啄木の人生を直筆書簡、ノート、日誌のほか、遺品、写真パネル、映像等で紹介しています。敷地内には啄木が代用教員を務めた旧渋民尋常高等小学校や一家が間借りした旧齊藤家が移築されており、当時の雰囲気を今に伝えてくれます。また啄木と子供達のブロンズ像と岩手山の雄姿が来館者を温かく迎えてくれます。

2023年から玉山歴史民俗資料館と複合化して改築、啄木の命日の日付にあわせた2025年4月13日にリニューアルオープン]。4月26日に開駅した道の駅もりおか渋民からは、遊歩道を通してアクセスできる。

  • 道の駅もりおか渋民(岩手県盛岡市渋民渋民80-42): 石川啄󠄁木記念館と隣接し、石川啄󠄁木の短歌をコンセプトとして設計されている。啄木が過ごした時代の渋民の風景である、ふるさとの山を背景に家々の屋根が並ぶ様子をイメージし、6つの棟で構成しています。各棟の外壁には、啄木の歌集「一握の砂」中、ふるさと渋民に想いを馳せて歌った「煙 二」に収録された作品のうち、6つの歌から想起される色を用いています。

道の駅もりおか渋民の建物配色 ~啄木の短歌から~

A棟 わかれをれば妹いとしも 赤き緒の 下駄など欲しとわめく子なりし

(解説)幼い時に「赤い鼻緒の下駄がほしい」と泣きわめいていた妹のことを想い出す。今は離れて暮らしている妹がいとしいことだ。少し遠い記憶として残る情景の中の「赤」であることから、少し色褪せ、やわらかな光に照らされたような色合いとしました。

B棟 あはれ我がノスタルジヤはのごと 心に照れり清くしみらに

(解説)ああ、自分の郷愁の思いは、金のように、濁った心を洗い清めて照り輝いている。ふるさと、過去のすべてのものへの懐かしさが放つ、金のような高貴な光。豪華さではなく落ち着きとあたたかさのある色としました。

C棟 ふるさとの停車場路の 川ばたの 胡桃の下に小石拾へり

(解説)渋民の家から好摩駅に向かう川端の道の途中、ふと何げなく胡桃の木の下で小石を拾ったこともあったことよ。ふるさとの停車場とは渋民ではなく、好摩のこと。旅立ちの駅へ向かう道沿いに静かに立つ胡桃の木をイメージしました。

D棟 馬鈴薯のうす紫の花に降る 雨を思へり 都の雨に

(解説)都会に降る雨に憂鬱になる時、ふるさとのじゃがいも畑に咲く馬鈴薯のうす紫の花に降っていた雨を想い出し、郷愁の思いがこみ上げる。天候は雨。明るいうす紫ではなく、花弁を湿らす雨を勘案した色としました。

E棟 やはらかにあをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

(解説)柔らかく柳が青く芽吹いている北上川の岸辺が、今でも目に浮かんできて、望郷の涙を誘うようだ。北上川の風景と柳の葉のやわらかさを思い浮かべるような緑系の色を採用しています。

F棟 ふるさとのに向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

(解説)ふるさとの山に真正面から向かっていると、ただただ感無量で言葉は必要なく感謝している。故郷の山はありがたいなぁ。光と空気との兼ね合いで青みがかる遠景の岩手山を想起する色としました。

(解説):森義真元石川啄木記念館長

  • 宝徳寺(岩手県盛岡市渋民2-1):万治元年(1658)に開基され区内一の檀家を擁するこの寺は、石川啄木が幼少時代を過ごした寺。岩手山を真正面に見る境内には「ふるさとの寺の畔のひばの木のいただきに来て啼きし閑古鳥」の歌碑が建っている。平成12年の建替えの際に、啄木が使用していた部屋が復元された。
  • 愛宕の森・愛宕神社(岩手県盛岡市渋民字愛宕13-68):啄木が「命の森」と呼び、好んで散策し、詩想を練った「愛宕の森」があります。その森の上に「愛宕神社」が祀られています。緑に包まれた、「防火の神」を祀った神社です。
  • 渋民公園・第1号啄木歌碑(岩手県盛岡市渋民泉田15-5):石川啄木記念館前の国道4号を横断した北上川のほとりに広がる渋民公園。ここには1922(大正11)年4月13日に建てられた第1号啄木歌碑があり、「やはらかに柳あをめる北上の岸邊目に見ゆ泣けとごとくに」と刻まれている。
  • 石川啄木歌碑・盛岡城跡公園(岩手公園)(岩手県盛岡市内丸1):盛岡城跡公園には、「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」の歌碑が立っている。少年時代の啄木が学校の窓から逃げ出してきて、文学書、哲学書を読み、白日の夢を結んだのが盛岡城二の丸。歌碑の文字は金田一京助の書。
  • 石川啄木歌碑(盛岡駅前広場・岩手県盛岡市盛岡駅前通1):盛岡駅前広場には「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と刻まれた歌碑がある。東京朝日新聞時代に勤めていた時代に詠んだもので、その郷愁を誘う歌は多くの人に親しまれている。また、駅正面外壁に掲げられた「もりおか」の文字は、啄木自筆の文字を集字して使用したもの。
  • 少年啄木像(岩手県盛岡市大通2-7-28):彫像の立つ辺りは昔、盛岡城菜園の路地でした。中学校の頃の石川啄木にとって、あぜ道と城跡は詩情の泉だったようです。本田貴侶作の啄木像は、希望に胸ふくらませてきびしい北風の中に立つ少年のひたむきな姿を、あますところなく表現しています。台座には歌集「悲しき玩具」の中の一首、「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はないけれど」と刻まれています。
  • 啄木望郷の丘・啄木望郷の像(岩手県盛岡市新庄岩山52):啄木夫妻の鎮魂のために郷土の山河を望む岩山山頂「啄木望郷の丘」には「啄木望郷の像」が建立されている。像はふるさとの姫神山に向い、啄木が最も愛した「岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を何と聴くらむ」の望郷歌の一首が刻まれている。そばには全国的にも例をみない詩人夫妻の「夫婦歌碑」が建てられ、啄木の「汽車の窓 はるかに北にふるさとの山見え来れば 襟を正すも」と、妻節子の「光り淡く こほろぎ啼きし夕より 秋の入り来とこの胸抱きぬ」の2句が刻まれている。志なかばにしてわずか20代の若さで貧しさのうちに病に冒され、相次いで世を去った二人は、今は歌となってふるさとの山河を見つめている。
  • 啄木新婚の家(岩手県盛岡市中央通3-17-18):堀合節子との新婚生活を送った家が当時のまま残されています。現存する盛岡唯一の武家屋敷。藩政末期に建築されたと推定されており、盛岡市指定有形文化財に指定されています。屋根は防火のため鉄板で覆われていますが、もともとは茅葺き屋根でした。

「啄木新婚の家」に入ると直ぐ、石川啄木と妻・節子の大きな写真パネルが出迎えてくれます。中央の部屋には、啄木の年表や、妻・節子とのエピソード、連載していた新聞「岩手日報」について紹介されており、啄木のひととなりや暮らしぶりについて詳しく知ることができます。年表には啄木の引っ越し歴も記載されています。渋民、盛岡、東京、北海道と放浪の人生をたどり、「漂泊の歌人」と呼ばれる理由が分かります。

  • 啄木の妻・堀合節子誕生の地と古井戸(岩手大学・岩手県盛岡市上田3-18-8): 節子誕生の地として2008年(平成20年)に井戸が復元され、啄木と節子の歌碑が作られた。節子の生家は現在の岩手大学農学部の温室を含む一面であることが分かり、そこには古井戸があり大正2年(1913)の写真を参考に車井戸を平成20年(2008)に復元された。
  • もりおか啄木・賢治青春館(岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-25):旧第九十銀行本店を利用した、啄木と宮沢賢治の青春時代を紹介する施設です。明治期に竣工した銀行を保存活用しこの地で青春を育んだ石川啄木と宮沢賢治や盛岡のまち、暮らしをテーマにした展示・企画を行っています。

日本を代表する文学者となった二人は、時期はすれ違っていますが同じ盛岡中学校に学びました。当時の盛岡は近代的な洋風建築が建ちはじめ、モダンな雰囲気が漂う街でした。啄木と賢治が愛した当時の盛岡の街と二人の青春時代に思いを馳せながら、青春館でのひとときをお楽しみ

  • 石川啄木歌碑(下橋中学校校庭・岩手県盛岡市馬場町1-1)啄木の母校盛岡高等小学校(現:下橋中学校)校庭にある啄木の歌碑。啄木の2年上級で少年時代より晩年まで親交が厚く、堅い友情で結ばれていた金田一京助が啄木の歌を後年書いたもので、昭和52年秋、旧職員有志により建立された。「その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠 いかになりけむ」
  • 啄木・父子の歌碑(岩手県盛岡市馬場町9・御厩橋付近):石川啄木の「中津川や 月に河鹿の啼く夜なり 涼風追ひぬ夢見る人と」と、彼の父一禎の「中津川 流れ落ち合ふ北上の 早瀬を渡る夕霞かな」の「父子の歌碑」が建てられています。
  • 石川啄木・若山牧水 友情の歌碑(下橋中学校校門前・岩手県盛岡市下ノ橋町5):啄木が晩年もっとも心を許しあい、最後をみとった友人牧水の二人の作品が刻まれた「石川啄木・若山牧水 友情の歌碑」。「教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな」(石川啄木)と「城跡の古石垣にゐもたれて 聞くともなき 波の遠音かな」(若山牧水)。
  • 石川啄木歌碑(JR平館駅前・岩手県八幡平市平舘11):石川啄木の父、一禎は八幡平市平舘の出身。JR平館駅前には「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」の歌碑がある。
  • 石川啄木歌碑(大泉院及び周辺・岩手県八幡平市平舘24-41)「わが父は六十にして家をついで師僧の許に聴聞ぞする」八幡平市平舘、大泉院の歌碑。啄木の父一禎は平舘出身。大泉院で仏門に入った。ここには啄木の祖先の墓もある。また、JR平館駅構内に「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」、県立平舘高校前には「かの家のかの窓にこそ春の夜を秀子とともに蛙聴きけれ」がある。「秀子」は啄木の代用教員時代の同僚、文学上の友人だった堀田秀子のこと。
  • 石川啄木函館記念館・啄木浪漫館(北海道函館市日乃出町25-4):石川啄木函館記念館・啄木浪漫館(土方・啄木浪漫館)は、建物の老朽化と運営会社の事業停止により、2024年10月31日をもって閉館しました。函館ゆかりの土方歳三と石川啄木の貴重な資料が展示されていましたが、雨漏りなど施設維持が困難になり、1300点以上の収蔵品は現在、一括で引き取ってくれる先を探している状況です。
  • 石川啄木小公園(北海道函館市日乃出町25):啄木が愛した大森浜にあり、砂山に座る啄木像が海を見つめています。青年時代に啄木の詩に触れ感銘を受けた本郷新(1905~1980、札幌市出身)は、彫刻家として啄木の像をいつかつくりたいと思っていました。その願いがかない、53歳の時に制作した作品です。写真を参考にしましたが、本人に似せた肖像彫刻としての啄木の姿ではなく、本郷が感銘を受けた詩人啄木にするために、内面を深く追及した造形を目指しました。「考える人間啄木」であり「もの思う人啄木」です。

函館の啄木について本郷は、「散歩するのに、はかまをはいて歩くのが常だったから、かすりの着物にはかま、素足と下駄の姿、しおれてものを思うのではなく、何か抗しつつ、ものを思うというような感じがほしかった。その抗して思う対象は、われでも、生活でも、社会でも世界でもいい、とにかく、それに向かって物を思う啄木。それで、低い石に腰を下ろさせて見た。22歳頃、初めて詩集をもって函館に渡ったという話なので、左手に本をもたせ、文学者であることも付け加え、着物も袴も石も荒けずりの面を生かして、ごつごつとしたものの方が似合うように思った」とあります。

台座には、「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(ハマナス)よ今年も咲けるや」の歌が刻まれています。歌の字体は、啄木の直筆との意見もありましたが、きっちりした形の文字を希望した本郷が、髙橋錦吉氏に依頼し、活字体のような文字になりました。啄木の石膏原型は、函館市文学館2階に展示されています。

  • 函館市文学館(北海道函館市末広町22-5): 函館市文学館は,函館ゆかりの作家の業績と風土に根ざした土着の文学空間を視野に入れ,函館が育んだ多くの文学者と文学空間を永く後世に顕彰し,語り継いでいくことを目的に,平成5年に開館しました。詩人・石川啄木、作家・亀井勝一郎や久生十蘭、佐藤泰志、彫刻家・挿絵画家の梁川剛一などの展示をご覧いただくことができます。
  • 石川啄木居住地跡(北海道函館市青柳町15):1907年(明治40年)、石川啄木は津軽海峡を越えて函館に降り立つ。青柳町に居を構え、家族を呼び寄せたのがこの付近である。その後、大火に遭遇して札幌に移住。
  • 石川啄木歌碑(函館公園・北海道函館市青柳町17):明治40年に函館に渡航し、家族を呼び寄せて落ち着いた青柳町の旧居跡にも近い函館公園内に建つ歌碑。有名な「函館の青柳町こそかなしけれ」の歌が刻まれている。
  • 地蔵寺「万平塚」(北海道函館市船見町23-2):石川啄木の歌に、「むやむやと 口の中にてたふとげの事を咳く乞食もありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。一例を上げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の茶箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ…」などとある。この塚は、大阪から所用で来た鉄工場主「藤岡惣兵衛」が、万平にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4年(1915年)万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。
  • 港文館(北海道釧路市大町2-1-12): 旧釧路新聞社を復元した建物。「啄󠄁木資料室」が開設されている。平成5年(1993年)に竣工した釧路市の施設。

建物は明治41年に建造(昭和40年に取り壊し)された旧釧路新聞社社屋の一部を忠実に復元したもので、当時東北海道唯一のレンガ造りの洋風建築物として建てられた。また、釧路港関連施設「港湾休憩所」として位置づけられている。

1階展示コーナーには港湾を中心に栄える釧路市の足跡をしのばせる港湾計画図や明治末期の市外図などが展示されている。

2階展示コーナーには釧路ゆかりの歌人石川啄木の資料が展示されて市民や観光客に文化と教養の場を目的とするため建築された。

  • 石川啄木歌碑(JR上野駅1F構内・「三相の像」の後ろ・東京都 台東区上野 7-1-1): 「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」(一握の砂)岩手から上京した啄木が、上野駅に着いて詠んだ歌です。1985年(昭和60年)、東北新幹線上野駅に乗り入れた際に建てられた。
  • 石川啄木歌碑(上野駅前通り商店街入口・東京都台東区上野7):JR上野駅構内と同じ句の歌碑が駅前通り商店街にも建つ。
  • 石川啄木歌碑(東京都中央区銀座6-6-7朝日ビル前):啄木が京橋区滝山町の朝日新聞社に勤務したのは明治42年(1909)から45年、26歳でこの世を去るまでの約3年間でした。短い生涯の大半を放浪のうちに過ごした啄木は、彼に冷淡であった故郷をなお思い、校正係の仕事に従事しながら創作を続け、優れた望郷の歌を数多く残しました。朝日新聞社の跡地には、「京橋の 滝山町の新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな」と刻まれた歌碑があります。
  • 石川啄木歌碑(等光寺・東京都台東区西浅草1-6-1):啄木の葬儀は、親友の土岐善麿(歌人)の生家・等光寺で行われた。啄木の葬儀の1か月前には母カツの葬儀も行われている。長女京子、二女房江の葬儀も等光寺だった。啄木生誕70年にあたる1955年(昭和30年)に建てれた歌碑が境内にある。「浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」(一握の砂)
  • 赤心館跡(東京都文京区本郷5-5):啄木ゆかりの 赤心館跡(せきしんかんあと)オルガノ株式会社(本郷5-5)内/石川啄木(1886~1912)は、「文学の志」やみがたく、明治41年5月、北海道の放浪の旅をおえて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後、金田一京助を頼って、ここにあった“赤心館”に下宿し、執筆に励んだ。赤心館での生活は4ヵ月。その間のわずか1ヵ月の間に、「菊池君」「母」「天鵞絨(びろうど)」など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。このようななかで、数多くの優れた短歌を残した。収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助 の援助で共に近くにあった下宿 ”蓋平館別荘” に移っていった。

たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず (赤心館時代の作品)

文京区内の啄木ゆかりの地

○初上京の下宿跡(明治35年11月~36年3月)現・音羽1-6-1

○再度上京の下宿跡(明治37年10月~同年11月)現・弥生1-8あたり

○蓋平館別荘跡(赤心館~明治42年6月)現・本郷6-10-12 太栄館

○喜之床(蓋平館~明治44年8月)現・本郷2-38-9 アライ理髪店

○終焉の地(喜之床~明治45年4月13日死去)現・小石川5-11-7 宇津木産業

郷土愛をはぐくむ文化財 東京都文京区教育委員会 平成元年3月

  • 蓋平館別荘跡(東京都文京区本郷6-10-12):歌人・詩人・評論家として知られる石川啄木(1886~1912)は、北海道での放浪を切りあげ創作活動に専念するため同郷の先輩金田一京助を頼って上京し赤心館(本郷5-5-16)に暮らすことになった。しかし下宿代が滞ったため、明治41年にわずか4か月で新築間もないここに移った。この地では、『鳥影』を執筆するとともに、文芸雑誌『スバル』の発行名義人となった。北原白秋や木下杢太郎、吉井勇などが出入りしていたという。その後、朝日新聞社に定職を得て、家族とともに本郷の喜之床の2階に移り住んだ。当時の建物は昭和29年に焼失した。
  • 石川啄木喜之床跡(啄木旧居・文京区本郷2-38-9・理容アライ):明治の歌人・詩人・評論家、石川啄木(1886~1912)の旧居跡。蓋平館の住まいから、新築間もない理髪店「喜之床」の2階に移り、家族そろっての生活を始めた。明治42年から小石川に移るまでの2年間の住まいである。なお、旧家屋は愛知県犬山市の「明治村」に移築保存されている。
  • 切通坂(東京都文京区湯島3丁目と4丁目の間):喜之床に間借りしていた石川啄木が、夜勤の帰りに通った坂で、湯島天満宮前に啄木が詠んだ歌を刻んだ碑があります。「二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな 」
  • 石川啄木終焉の地(東京都文京区小石川5-11-7):啄木(1886~1912)の終焉の地。明治44年、啄木は家族と共に本郷の喜之床(きのとこ)からこの地に移った。啄木も母も病身であり、翌年3月には母が亡くなった。そして明治45年4月13日、肺結核で啄木は26歳で生涯を終えた。平成27年3月22日、隣接地に「石川啄木終焉の地歌碑」及び「石川啄木顕彰室」(高齢者施設内)が設置された。
  • 石川啄木終焉の地歌碑・顕彰室(東京都文京区小石川5-11-7):歌碑には啄木最後の歌とされる、第二詩集『悲しき玩具』冒頭の二首を陶板にしてはめ込んであります。碑材には盛岡市玉山区渋民(旧渋民村)に建てられた第一号歌碑と同じ「姫神小桜石」を使用しています。顕彰室では啄木の足跡、とりわけ文京区との関わりを中心に写真やパネル、年表等でご紹介します。また、歌碑に使用した直筆原稿やこの地から送った手紙に関する展示を行っています。
  • 石川啄木一族墓所(北海道函館市住吉町16・立待岬):「死ぬ時は函館で死ぬ」。石川啄木は、義弟の宮崎郁雨へ宛てた手紙の一節にこう書き残しています。26歳だった1912(明治45)年に、東京で病死した啄木。彼を慕う郁雨と、市立函館図書館の初代館長・岡田健蔵は、函館を啄木の永眠の地にすることで悲願を叶えます。

函館山の南端にある立待岬へ向かう坂の途中に、石川啄木一族の墓として建立。墓面に「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の一首が刻まれているように、この短歌の舞台とされる大森浜を一望できる高台に選んだのは、啄木を尊敬する2人による精一杯のはからいだったに違いありません。

啄木の死を受け、岡田健蔵は啄木の妻・節子の名代と称して上京。啄木、その長男・真一、母・カツの遺骨を、預けていた寺院から引き取ります。函館に戻った後、函館図書館に3人の仏を仮安置するうち、間もなく節子が死去。節子の四十九日にあたる日に、現在地よりやや下方の場所に木製の墓標を建て、4人分の遺骨を埋葬します。1926(大正15)年に現在地に墓碑が建て替えられて以降、1931(昭和6)年に啄木の長女・京子の夫・石川正雄によって、京子、次女の房江、啄木の父・一禎、そして1968(昭和43)には正雄の遺骨が追葬され、一族8人が眠る墓となっています。

北に正面を向ける墓石は、将棋の駒を思わせる個性的な形。樺太の北緯50度線に設けられていた日露境界標石を模したのだそう。ロシアに強い関心を抱いていた啄木の心情を象徴するものかもしれません。

💬石川啄木の遺産:現代社会へのメッセージ

石川啄木の生涯は、私たちに「自己を誤魔化さずに生きる」ことの厳しさと尊さを教えてくれます。彼は、自分の弱さ、ずるさ、貧しさを隠すことなく、ありのままを言葉に変えました。

彼の歌が今も愛されるのは、そこに「生きるための誠実な苦闘」があるからです。私たちは、啄木の歌を通じて、どんなに困難な時代であっても、自分の心の手を「ぢつと見る」ことの重要性を学びます。

石川啄木の物語は、一人の若者が、ペン一本で自分の内面を曝け出し、時代の壁に穴を穿とうとした壮大な人間ドラマです。彼の精神は、現代に生きる私たちに、不条理な現実に屈せず、言葉の力で「明日」を拓く勇気を与えてくれています。

C)【歴史キング】

2号

「石川啄木」が、女性に溺れ、借金を繰り返し、あまり働かなかった…という説があります。いわゆる【クズ男】説です😂

若くして亡くなってしまった彼なので、【クズ男】説が真実だったとしても、若気の至り…的なことで、後に人が変わったようになったかもしれません。…ただ、【クズ男】エピソードは、“そもそもの人間性が終わっている”と思わせるもの多数…。そのへんは良く分かりませんが、歌人としての才能は抜群というか、本物というか、超人だった!ということは紛れもない真実でしょう。

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