滋賀県の偉人:井伊直弼 — 「開国の父」として日本を植民地化から救った、剛毅果断な大老の決断
プロフィール
井伊 直弼(いい なおすけ)
1815(文化12)年11月29日生│1860(安政7)年3月24日没(44歳)
「井伊の赤鬼」「安政の大獄」「桜田門外の変」
「あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」
幕末の動乱期、彦根藩主から江戸幕府大老となり、日本の進路を決定づけた井伊直弼(いい なおすけ)。彼は、長らく「安政の大獄」を断行した「井伊の赤鬼」として、あるいは独断専行の強権政治家として語られることが多くありました。しかし、現代における彼の評価は、それとは対極に位置します。欧米列強の圧力が迫る中、冷静な国際情勢の分析と、自己の命を賭した決断によって日米修好通商条約を締結し、日本を植民地化の危機から救った「開国の父」としての姿です。
滋賀県彦根市に生まれ、不遇の「埋木舎」時代を経て、日本の未来を切り拓いた直弼の生涯と、その決断の真意に迫ります。
「埋もれ木」の青春:文武両道の修練
井伊直弼は、1815年(文化12年)、彦根藩第11代藩主・井伊直中の14男として彦根城内「槻御殿(けやきごてん)」で生まれました。幼名は鉄之介。
17歳の時に父が亡くなると、藩の掟に従い、城内の「尾末町屋敷」に移り住みました。家督を継ぐ見込みのない部屋住み(予備の身分)として、わずか300俵の扶持で暮らす日々。彼はこの屋敷を自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、世俗の出世競争から離れ、自らを磨くことに没頭しました。
📌 茶道「一期一会」と精神の深化
この15年間に及ぶ埋木舎時代、直弼は驚くべき集中力で文武の道を極めました。
- 国学:長野義言(主膳)を師とし、尊王思想や国体論を学びました。
- 茶道:石州流を学び、茶人「宗観」として一派を確立。著書『茶湯一会集』で説いた「一期一会」の精神は、単なる茶道の心得を超え、「二度と戻らぬこの瞬間に、命がけで誠意を尽くす」という、後の大老としての政治姿勢に通じる哲学となりました。
- 居合:新心流を学び、さらに「新心新流」を開くほどの達人でした。
「一日4時間眠れば足りる」と語り、寝食を忘れて修養に励んだこの時期が、孤独に耐え、決断を下す精神的基盤を築いたのです。
藩主就任と、受け継がれる「開国」のバトン
運命は急転し、兄たちの相次ぐ死により、1850年(嘉永3年)、36歳で第13代彦根藩主の座に就きました。そして1853年(嘉永6年)、ペリーの黒船来航により、日本は開国か攘夷かの選択を迫られます。
この国難に対し、当時の幕府首脳たちは苦闘を続けました。
- 阿部正弘:25歳で老中首座となり、人材登用や海防強化を進め、日米和親条約を締結して開国の土台を築きました。
- 堀田正睦:「蘭癖」と呼ばれるほどの開明派で、通商条約の勅許を得るために奔走しました。
彼ら先駆者たちの努力を受け継ぎ、最終的な決断を下す役割を担ったのが、1858年(安政5年)に大老に就任した井伊直弼でした。
「開国の父」としての決断:日米修好通商条約
大老就任直後、直弼は究極の選択を迫られます。アメリカ総領事ハリスは、清国がアロー戦争で敗北したことを引き合いに出し、「今すぐ条約を結べばアメリカが盾になるが、遅れれば英仏の艦隊が押し寄せ、より過酷な条約を強要されるだろう」と強く迫りました。
📌 剛毅果断な「違勅調印」の真実
本来、条約調印には朝廷の勅許(天皇の許可)を得るのが筋でした。しかし、孝明天皇は条約に反対しており、事態は膠着していました。 直弼は考えました。江戸幕府の創設以来、政治的決断は幕府が主導するものであり、緊急時に朝廷の顔色をうかがって国機を逸することは、幕府の政治的伝統にそぐわない、と。
「已むを得ざれば、是非に及ばず」
直弼は、全責任を一身に負う覚悟で、勅許を待たずに調印を断行しました。これは「独断」と批判されましたが、国際情勢を冷静に見極め、日本が欧米列強の植民地となる最悪の事態を回避するための、剛毅果断な決断でした。
この英断により、箱館、神奈川(横浜)、新潟、兵庫(神戸)、長崎の5港が開港され、日本は近代国家への道を歩み始めました。阿部正弘、堀田正睦らが築いた道を、直弼が完遂したのです。彼らこそが、まさに「開国の父」たちでした。
📌 安政の大獄と反動
しかし、この「違勅調印」は尊王攘夷派の激しい怒りを買いました。さらに将軍継嗣問題も絡み、直弼は反対派を抑え込むため、吉田松陰や橋本左内ら多くの志士を処罰する「安政の大獄」を断行します。これは幕府の権威を守り、国内の秩序を維持するための非常手段でしたが、結果として彼自身を標的とすることになりました。
桜田門外の変:雪中に散る
安政7年3月3日(1860年3月24日)、季節外れの雪が降る朝。江戸城桜田門外で、登城中の直弼の行列が水戸脱藩浪士ら18名に襲撃されました。
銃声が轟き、護衛の彦根藩士たちは雪除けの柄袋に阻まれて抜刀もままならず、次々と倒れました。直弼は駕籠から引きずり出され、46歳(満44歳)でその生涯を閉じました。
襲撃の朝、直弼は自らの死を予感していたかのように、側近に警告の書状を残していました。また、事件の2ヶ月前には、自画像と共に辞世とも取れる和歌を菩提寺に奉納しています。
「あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」
現代における再評価:「開国の元勲」
直弼の死後、彼は「国賊」「井伊の赤鬼」と罵られ、彦根藩も冷遇されました。しかし、歴史の霧が晴れるにつれ、その評価は劇的に変化しました。
現在、横浜市西区の高台にある掃部山(かもんやま)公園には、横浜港を見下ろすように井伊直弼の銅像が立っています。これは、彼が開港を決断したことによって横浜が発展したことを称え、顕彰するために建てられたものです。
もし直弼が条約締結を躊躇していれば、日本はアヘン戦争後の中国のように、列強に領土を切り取られていたかもしれません。批判を恐れず、泥をかぶってでも国の未来を守ろうとした彼のリーダーシップこそが、今の日本を形作っているのです。
井伊直弼を深く知る「この一冊!」
「国賊」「井伊の赤鬼」と罵られた男の本当の生涯

花の生涯 上 / 舟橋 聖一 (著)
講談社・単行本 – 1998/2/1

埋木舎での不遇の時代から、大老として国難に立ち向かい、桜田門外に散るまでの井伊直弼の生涯を描いた歴史小説の傑作です。NHK大河ドラマ第1作の原作ともなり、直弼の人間的魅力と、彼を支えた女性・村山たかとの悲恋も鮮やかに描かれています。
花の生涯【合冊版/全2巻】 (祥伝社文庫)│形式: Kindle版
祥伝社 (2022/3/16)

📍井伊直弼ゆかりの地:開国の足跡を辿る旅
井伊直弼の魂は、故郷・彦根と、彼が開いた港・横浜、そして最期の地・東京に今も息づいています。
- 井伊直弼生誕地・楽々園(滋賀県彦根市金亀町・彦根城内):開国の英傑・井伊直弼は1815年10月29日に父・直中の14男として楽々園で生まれました。楽々園前に「井伊直弼生誕地」の石碑が立てられています。
- 埋木舎(滋賀県彦根市尾末町1-11):埋木舎(うもれぎのや)は、後に彦根藩第十三代藩主、さらに江戸幕府の大老となり日米修好通商条約の平和的締結に力を尽くした、井伊直弼が若き日々を過ごした場所です。埋もれ木とは、地中に埋まり外から見えない樹木のことであり、世間から捨てられて顧みられない身の上のことを意味しています。当時の直弼は彦根藩の世継ぎではなく、この屋敷で貧しい一生を送らねばならない不遇の境遇にありましたが、腐ることなく文武の修練に精進しました。この埋木舎での努力が、後に幕府の大老として開国を断行し欧米の侵略から我が国を守った度量と、茶の湯の巨人として高い名声を得た文化的教養とを形作りました。
- 井伊直弼銅像・彦根城金亀児童公園(滋賀県彦根市金亀町・彦根城内)彦根城金亀児童公園にある井伊直弼銅像:金亀児童公園内に、大老井伊直弼公の銅像が建てられています。井伊直弼は、11代藩主直中の14男として生まれました。安政5年(1858年)4月、幕府の大老となった直弼は同年6月「日米修好通商条約」に調印して開国を断行しました。しかし、偉業を成し遂げた直弼も、大老の信条を組むことのできなかった人々によって万延元年(1860年)3月3日桜田門外で春雪に血を染めて横死しました。ときに46歳でした。この銅像は、最後の官職だった正四位上左近衛中将の正装をうつしたものです。
- 花の生涯記念碑(彦根城内・滋賀県彦根市金亀町):世情騒然たる幕末に、開国の英断を下した大老井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた「花の生涯」(作者:舟橋聖一=彦根名誉市民第一号)が発表され、人々に深い感銘を与え、映画・演劇として、またNHK大河ドラマを通じて世の絶賛を博し、「花の生涯」ブームをもたらしました。このことを記念して、昭和39年10月25日建立されたものです。中央の四角い石を大老直弼にみなし、左右の低い石を長野主膳と村山たか女とし、キラキラと輝く砂は、雪を表し、波乱に満ちた「花の生涯」を物語っています。
- 井伊直弼大老歌碑(滋賀県彦根市尾末町):「いろは松」のすぐ近くに井伊直弼の歌碑が建てられています。安政7年(1860年)正月。直弼は正装姿の自画像を狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清凉寺に納めたと伝えられています。
「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」
この歌は琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきた。しかし、わたしは国の平和と安心のため、国政に全身全霊を尽くしてきたので、悔いはない・・・というような心境を表しています。この歌碑は、直弼の死から100年後にあたる1960年(昭和35年)に行われた「大老開国100年祭」に先がけて市内の有志により建てられました。
- 名勝 玄宮園(彦根城内・滋賀県彦根市金亀町3):城の北東にある大名庭園で、琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられました。4代藩主直興が延宝5年(1677年)に造営したとされています。直弼も愛した美しい景観が広がります。毎年11月には「錦秋の玄宮園ライトアップ」が催され、大名庭園ならではの趣が味わえます。
- 彦根城博物館(彦根城内):彦根城博物館は、昭和62年(1987)2月、彦根市の市制50周年を記念して、彦根城表御殿跡地にその復元を兼ねて建てられた博物館です。彦根は、彦根城を中心とする城下町として栄え、数々の歴史・文化を育んできました。 代々彦根藩主を勤めた井伊家には、このことを物語る豊富な美術工芸品や古文書が伝えられてきました。 その数は約4万5千点にのぼり、現在、それらは彦根城博物館所蔵資料の中核となっています。 その他、彦根および彦根藩に関する資料も収集しており、収蔵資料は9万1千件を超えます
- 井伊直弼銅像・掃部山公園(神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘57):直弼の官位「掃部頭(かもんのかみ)」に由来する公園。彼の銅像が横浜の繁栄を見守っています。横浜市の発展は、1859年、横浜港の開港により、世界に開かれた日本最初の貿易都市となった時からはじまりました。この開港に尽力した立役者が井伊直弼大老です。時を経て 、1884年旧彦根藩士が故井伊直弼大老の記念碑建立のために西区にある鉄道山を購入し、その25年後の1909年(横浜開港50年)に苦心の末、銅像を建立しました。銅像建立後、公園敷地と銅像は横浜市に寄付され、現在では鉄道山は井伊直弼の官職から「掃部山(かもんやま)公園」となりました。明治から続く彦根市と横浜市西区の交流。1958年、横浜開港100年祭の年、滋賀県彦根市長ら関係者1,000人の方が、「掃部山(かもんやま)公園」において井伊直弼を偲ぶ記念式典を開催しました。その後も彦根市と西区との交流はつづき、「西区虫の音を聞く会」に彦根市長・彦根鉄砲隊が来浜、鉄砲隊の演武も行われました。
- 井伊掃部守直弼台霊塔・妙雲寺(茨城県水戸市見川2-103):井伊直弼首級埋葬伝説ー妙雲寺には、井伊直弼の首を葬ったとされる「井伊掃部守直弼台霊塔」がある。伝説によれば、事件後に広木松之介は直弼の首を持って、直弼によって蟄居させられた斉昭に届けた。斉昭は丁重に葬るように指示し、広木家の菩提寺だった当寺に葬ったのだという。
- 桜田門外襲撃図・幕末と明治の博物館(茨城県東茨城郡大洗町磯浜町8231):大洗の美しい海に近く、緑の松林に囲まれた高台という恵まれた自然環境のなかに「幕末と明治の博物館」はあります。当館は幕末の志士であり、のちに宮内大臣になった田中光顕伯爵によって昭和4年に創立され、90年以上の歴史をもっています。平成22年6月に(財)常陽明治記念会から大洗町に移管され町営となりました。大洗町の歴史資料も展示しています。末動乱の契機となる瞬間を活写した「桜田門外襲撃図」や最後の将軍・徳川慶喜公の書をはじめ、幕末から明治期の志士・先人達の書画・遺品を数多く収蔵しています。また、茨城や大洗ゆかりの日本画・工芸品も収蔵しています。
- 井伊直弼公敬慕碑(伊豆美神社・東京都狛江市中和泉3-21-8):井伊直弼公敬慕碑は、明治34年(1901)に建てられました。井伊直弼を顕彰する記念碑として最初に建てられたもので、高さは約4メートルになります。この石碑は、開国を成し遂げた井伊直弼の功績と井伊家に儒学者として仕えた小町雄八の遺徳を伝えるものです。伊豆美神社と和泉地域の人々が中心となり、狛江村を挙げての運動によって建てられたと考えられます。石碑が建てられた背景には、江戸時代に和泉村の一部が井伊家世田谷領だったこと、井伊家に儒学者として仕えた小町雄八が和泉村の出身だったことなどがあります。井伊直弼公敬慕碑は、狛江村の村人たちが、自らの村の歴史を顧みつつ、村の誇りとして井伊直弼と小町雄八の功績を広く伝えていくために建てられたものであり、狛江の歴史にとって重要な文化財になります。
- 豪徳寺(東京都世田谷区豪徳寺2-24-7):井伊家の江戸における菩提寺で、直弼の墓所があります。招き猫発祥の地としても知られています。豪徳寺にある彦根藩主井伊家墓所は広大な敷地に大型の墓石が整然と並ぶ、都内でも屈指の大名墓です。2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息子女らが埋葬されています。また、北側の一角には藩士の墓石も置かれ、合計で303基にのぼります。井伊家墓所は国元である滋賀県彦根市の清凉寺、4代藩主が眠る同県東近江市の永源寺にもあり、豪徳寺とあわせて3か所の墓所が同時に国の史跡になりました。
- 桜田殉難八士之碑(豪徳寺・東京都世田谷区豪徳寺2-24-7):井伊直弼墓のすぐ右に見えるのが、桜田門外で落命した8人の彦根藩士の「桜田殉難八士之碑」。墓地にはほかに井伊家旧家臣の墓もあります。
- 井伊直弼画像・豪徳寺(東京都世田谷区豪徳寺2-24-7):世田谷区指定有形文化財(平成15年3月28日指定)、非公開。本図の作者は直弼の三男直安で嘉永4年(1851年)に江戸で生まれました。文久2年(1862年)には越後国与板藩井伊直允の養子となり同年藩主となっています。直安は日本画と洋画を学んでいますが、この作品は直弼の風格を、洋風画法を用いて十分に伝えています
- 清涼寺・井伊家菩提寺(彦根市古沢町1100):井伊家の菩提寺として、また父井伊直政(なおまさ)の墓所として直孝(なおたか)が開基した曹洞宗永平寺派の寺院。釈迦牟尼如来(しゃかむにょらい)を本尊とし、諸国から高僧を招いたので修行道場としての名声が高まり、多い時には2百余名の雲水が修行をしていたといわれます。本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、寺宝に歴代藩主画像などがあります。また、七不思議伝説が伝わっています。寺地が石田三成(いしだみつなり)の名家老といわれた島左近(しまさこん)の屋敷跡で、島左近邸の時からのタブの老木も残っています。この寺院は関ケ原の戦いの戦没者の供養も兼ねています。
- 永源寺・井伊家墓所(滋賀県東近江市永源寺高野町41):歴代の彦根藩主のお墓は、彦根市の清凉寺、東京都世田谷区の豪徳寺、そして東近江市永源寺に所在します。永源寺には、四代当主直興公(1656~1717)とご側室の墓石3基が築かれました。直興公が、永源寺第八十六世南嶺慧詢(なんれいえじゅん)に深く帰依していたためです。
💬井伊直弼の遺産:現代社会へのメッセージ
井伊直弼の生涯は、私たちに「決断の重みと責任」を教えてくれます。
茶道で説いた「一期一会」は、単なる出会いの大切さだけでなく、「今この瞬間に全力を尽くし、悔いを残さない」という、彼の覚悟そのものでした。国難において、誰かが下さなければならない決断を、逃げずに引き受けたその精神は、現代のリーダーにとっても重い問いかけとなっています。埋もれ木のように静かに力を蓄え、嵐の中で日本の未来を切り拓いた開国の父、井伊直弼。彼の精神は、困難な時代を生きる私たちに、不屈の意志と、未来を見据える眼を持つことの大切さを語りかけているのです。


