徳島県の偉人:貫名海屋(菘翁) — 「幕末の三筆」と称された、詩・書・画「三絶」の芸術家
プロフィール
貫名海屋(ぬきなかいおく)│貫名 菘翁(ぬきな すうおう)
1778(安永7)年生│1863(文久3)年6月21日没(85歳)
「幕末の三筆」
「自分は儒家である。書や画で称賛されることは好まない」
そう語りながらも、その筆は近世随一と讃えられ、市河米庵(いちかわ べいあん)、巻菱湖(まき りょうこ)と共に「幕末の三筆」の一人に数えられる偉人。それが貫名海屋(ぬきな かいおく)、晩年の号で貫名菘翁(ぬきな すうおう)です。
阿波国(現在の徳島県)に生まれ、儒学を精神の柱としつつ、空海や王羲之といった古典に深く学び、書と南画(文人画)において孤高の境地を切り拓きました。85歳で中風に倒れてなお、震える手で筆を握り続けたその生涯は、芸術への執念と、儒者としての矜持に彩られています。
阿波の英才、高野山で空海に出会う
貫名海屋(本名:直友、のち苞(しげる))は、安永7年(1778年)、徳島藩の小笠原流礼式家・吉井直好の次男として、徳島城下御弓庁(現在の徳島市弓町)に生まれました。母は藩の御用絵師・矢野常博の娘であり、幼い頃から芸術的な環境で育ちました。
幼少期は狩野派の画法や儒学を学びましたが、彼の人生を決定づけたのは17歳の時の決断でした。母方の叔父を頼って高野山に登り、そこで弘法大師・空海の真蹟(直筆の書)に触れたのです。
📌 古典への回帰と「唐晋風」の確立
当時の書道界は、明・清の流行を追う「唐様(からよう)」が主流でした。しかし、海屋は高野山で見た空海の書、そしてその源流にある中国の晋・唐時代の書(王羲之、顔真卿など)に衝撃を受けます。
「流行を追うのではなく、正統な古典(クラシック)に学ばねばならない」。
彼は安易な手本(墨帖)を捨て、古法帖や碑版を蒐集し、徹底的な臨書(模写)によって書法を研究しました。この「唐晋風」と呼ばれる格調高い書風こそが、彼を「近世第一の能書家」と言わしめた所以です。
儒者としての矜持と、京都での文人生活
22歳で大阪の懐徳堂に入門し、中井竹山に朱子学を学んだ海屋は、その後京都に移り住み、私塾「須静堂(すせいどう)」を開きました。彼はあくまで「儒者」として生計を立て、書画は余技(教養)であるというスタンスを崩しませんでした。
しかし、頼山陽や浦上春琴ら一流の文人たちとの交流の中で、その才能は隠しきれないものとなります。
- 詩:唐詩を好み、頼山陽と韻律を論じるほどの詩才を持ちました。
- 書:楷・行・草のすべてにおいて、古典に裏打ちされた筆力を発揮しました。
- 画:南宗画(文人画)に傾倒し、長崎で日高鉄翁に学ぶなどして、典雅で秀潤な山水画を確立しました。
詩・書・画のすべてに優れた彼は、「三絶(さんぜつ)」の人と称賛されました。
晩年の号「菘翁」と、不屈の「中風様」
71歳の頃、海屋は京都の聖護院村に移り住みます。そこが聖護院蕪(かぶ=菘・すずな)の名産地であったことから、「菘翁(すうおう)」と号しました。現代では、若い頃の号「海屋」と、円熟期の号「菘翁」の双方が親しまれています。
📌 魂で描いた「中風様」
85歳の時、菘翁は中風(脳卒中)に倒れ、右半身の自由と言葉を失います。しかし、彼は筆を置くことはありませんでした。左手で右手を支え、全身全霊を込めて書画に向かいました。この時期の作品は「中風様(ちゅうぶよう)」と呼ばれ、肉体の衰えを超越した、枯淡で気迫に満ちた傑作として高く評価されています。
【網羅版】貫名海屋(菘翁)が遺した書画の世界
貫名海屋(菘翁)は、旅を愛し、関西を中心に多くの足跡を残しました。そのため、美術館だけでなく、各地の寺社や旧家にも珠玉の作品が遺されています。
🖌️ 【書・扁額・屏風】 魂の筆跡と祈り
『いろは大字屏風』(滋賀県・観音正寺 蔵) 安政元年(1854)の作。「いろは歌」を雄大な筆致で六曲一双の屏風に展開した大作です。変体仮名を交えた書は、菘翁の書のスケールの大きさと、日本的な情感の見事な融合を示しています。
『鶴春秋(扁額)』(滋賀県・江頭町自治会 所蔵) 江戸末期の作。長寿の象徴「鶴」と、長い年月を表す「春秋」を組み合わせ、地域の幸福が永く続くようにとの願いが込められています。縦長の画面に合わせた絶妙な構成が見事です。
『芙蓉千古雪』(個人蔵) 文久2年(1862)、85歳時の作品。「芙蓉」はここでは伊吹山などを指し、「千古雪」は永遠の雪を意味します。左右の文字を正方形に近い形で配置し、晩年の菘翁ならではの重厚なバランス感覚が光る逸品です。
『七言律詩』(東京国立博物館 蔵) 海屋が得意とした行書の大作。王羲之や顔真卿の研究から生まれた、重厚でありながら流れるような筆致が特徴で、幕末の書を代表する作品の一つです。
『草書五言律詩』(東京国立博物館 蔵) 流麗な草書で書かれた五言律詩。筆の運びが変幻自在であり、海屋が晩年に到達した、作為を感じさせない自然体の境地が見て取れます。
『臨 褚遂良 枯樹賦』(個人蔵) 唐の書家・褚遂良の名跡「枯樹賦」を臨書(模写)した作品。単なるコピーを超え、原本の気品を我が物とした海屋の楷書の深淵を覗くことができます。
『阿房宮賦屏風』(個人蔵) 杜牧の「阿房宮賦」を六曲一双の屏風に揮毫した大作。圧倒的な筆力と構成力で、書の芸術性を空間全体に展開させた記念碑的作品です。
『読易詩』(個人蔵) 「易経」を読んだ感慨を詠んだ自作の詩を書いたもの。儒者としての深い学識と、書家としての技量が完全に融合した、海屋の精神性を象徴する作品です。
『左手七言絶句』(個人蔵) 中風の後、不自由な右手ではなく左手で書かれたとされる書。肉体の苦痛を超越し、魂で書き上げたかのような枯淡の趣は「中風様」の傑作と称されます。
『西湖柳七絶』(個人蔵) 最晩年、86歳で書かれた絶筆に近い書。震える筆先から生み出された線は、かえって深い精神性を帯びており、見る者の心を打ちます。
『杜甫詩七絶』(岐阜県・光ミュージアム 蔵) 海屋が敬愛した杜甫の詩を、骨太かつリズミカルな行書で書き上げています。漢詩への深い造詣と書の技術が一体となった作品です。
『神融霜雪』(個人蔵) 四文字の大字書。一文字一文字に力が漲り、海屋の「気」が画面から溢れ出るような迫力を持つ作品です。
『前後赤壁賦』(個人蔵) 蘇軾の名文「赤壁賦」を書いたもの。長文を破綻なく、かつ変化に富んだ筆致で書き切る構成力は圧巻です。
🖼️ 【画】 文人の理想郷と真景
『渓山芳信図』(出光美術館 蔵) 天保3年(1832)作、重要美術品。米法山水(点描画風)を消化し、日本の湿潤な風景として昇華させた、海屋南画の最高傑作の一つです。
『蘭亭図巻』(東京国立博物館 蔵) 書聖・王羲之の「蘭亭曲水」の故事を描いた画巻。書家としての憧れが画筆にも乗り移ったかのような、典雅で格調高い作品です。
『那智瀑布図』(京都国立博物館 蔵) 那智の滝を描いた真景図(スケッチに基づく風景画)。実際に旅して目にした自然の厳しさと雄大さを、文人画の筆法で表現しています。
『老松図』(滋賀県立琵琶湖文化館 蔵) 天保12年(1841)作。長寿と節操の象徴である松を、書家らしい筆力のある線と瑞々しい墨色で描いています。
『山觜図』(堺市博物館 蔵) 文政13年(1830)作。「觜(くちばし)」のように突き出した山を描いた独特の構図で、彼の鋭い自然観察眼と構成力が光ります。
『秋景人家図』・『秋景山水自画賛』(兵庫県立美術館 西宮頴川分館 蔵) それぞれ弘化4年(1847)、安政2年(1855)作。秋の静寂な空気感と、文人が好む隠遁の風景が、詩情豊かに表現されています。
『渓山訪友図』(島根県・田部美術館 蔵) 嘉永2年(1849)作。山深い自然の中を友を訪ねていくという、文人画の王道テーマを清々しく描いています。
『山水図』(兵庫県・黒川古文化研究所 蔵) 天保6年(1835)作。黒川古文化研究所には、この他にも海屋の優れた書画が所蔵されており、彼の画業をたどる上で重要です。
『山水図屏風』(徳島県立博物館 蔵) 故郷・徳島の県立博物館には、屏風仕立ての大作が収められており、海屋の雄大な空間構成力を観ることができます。
『万壑松濤図』(個人蔵) 天保2年(1831)作。谷々に響く松風の音さえ聞こえてきそうな、動的な筆致が特徴的な傑作です。
『芦汀晴秋図』(個人蔵) 慶応2年(1866)、最晩年の作品。枯淡の境地に至った筆使いで、秋の水辺の情景が描かれています。
『送行図鑑』(個人蔵) 京から伏見へ向かう路上の風景を描いた真景図。同時代の文人画家・田能村竹田が「自分の及ぶところではない」と絶賛したことで知られる伝説的な作品です。
🪦 【碑文・金石文】 永遠に刻まれた文字
『若冲居士之碑』(京都・石峰寺) 奇想の画家・伊藤若冲の墓のそばに建つ筆塚の碑文。海屋の書の中でも特に傑作とされ、若冲への敬意と、海屋の端正で崩れのない楷書の魅力を今に伝えています。
『伝空海 急就章』(香川・萩原寺) 海屋が58歳の時に滞在し、研究・臨模した空海ゆかりの書。彼はこれを石碑に刻ませ、拓本として世に広めることで、空海の書の偉大さを再評価させました。
『瑞巌寺 扁額』(徳島・瑞巌寺) 故郷徳島に残る扁額。地域の寺社にも海屋の書は大切に遺されており、郷土との深い繋がりを感じさせます。
『城崎温泉の碑文群』(兵庫県・城崎温泉) 城崎温泉を愛した海屋は、温泉寺などに多くの碑文や扁額を残しており、文人としての足跡をたどることができます。
※作品の展示状況は各館・寺社のスケジュールによります
貫名海屋(菘翁)を深く知る「この一冊!」
作家・文人がつづる日本の書人十九家の文学的評伝

日本書人伝 (中公文庫 な 66-2) / 中田 勇次郎 (編集)
文庫 – 2015/8/22

司馬遼太郎、永井路子、白洲正子ら著名な作家・文人が、日本の書人19人の生涯と芸術を綴った評伝集。貫名海屋(菘翁)についても、その人となりや書の世界が文学的な視点から深く掘り下げられており、詳細な年譜も収録されています。
📍貫名海屋(菘翁)ゆかりの地:美の探求路
- 貫名菘翁先生誕生之地碑・菘翁生家跡(徳島県徳島市弓町1):昭和三十八年五月六日 貫名菘翁顕彰会建立・後学・奇石小坂光書
- 菘翁美術館(徳島県徳島市新蔵町1-46):1994年、貫名菘翁 生誕の地、徳島市に田中双鶴 (1912-2000) が設立。30余年に亘る菘翁研究の傍ら収集した菘翁作品を常時約40点展示し、随時展示替えを行っています。現在絶版となっている「貫名菘翁精説」「貫名菘翁書畫集」や書道雑誌「鳥跡」(1948-2000) の閲覧コーナーもあります。開館日:各月第2土曜日(開館時間10時~15時)。
- 観潮院(徳島県徳島市二軒屋町1-44-5):若き日に明の銭穀の画を見て文人画に目覚めた場所です。
- 下鴨神社・蓼倉文庫(京都府):最晩年を過ごした地であり、蔵書を奉納しました。「蓼倉文庫」は、江戸時代後期の書家・貫名海屋は、学問所の教授として氏人組織の一員でした。特に、漢書一一、二五二巻、唐碑帖五十八種の蔵書を学問所へ寄贈され、先生の庵の所在地、山城国愛宕郡蓼倉郷北浦にちなんで北浦文庫と呼ばれていました。現在の西駐車場は、かつてお茶畑でしたが、その北角に所在しました。寄贈後「蓼倉文庫」と称するようになりました。
- 高台寺(京都府京都市東山区高台寺下河原町526):海屋が葬られたと伝わるが、具体的所在については未確認。
💬貫名海屋(菘翁)の遺産:現代社会へのメッセージ
貫名海屋の生涯は、私たちに「流行に流されず、本質を極める強さ」を教えてくれます。彼は、当時の流行であった唐様を安易に追随することなく、その源流である古典を徹底的に研究することで、独自の境地に達しました。
彼の「筆有り墨有るは之を画と謂う、韻有り趣有るは之を筆墨と謂う」という言葉は、単なる技術(筆墨)を超えた、品格や趣(韻)こそが芸術の本質であると説いています。
86歳で筆を握り続けた不屈の精神と、儒者としての深い教養に裏打ちされたその作品群は、現代においても「書の神髄」として輝き続けています。
©【歴史キング】


