沖縄県の偉人:儀間真常 — 「沖縄産業の父」飢饉と貧困から民を救った“イモ・木綿・黒糖”の恩人
プロフィール
儀間 真常(ぎま しんじょう)│ 唐名:麻 平衡(ま へいこう)
1557(嘉靖36)年生│1644(順治元)年11月13日没(88歳)
「沖縄産業の父」「琉球の五偉人」
- 出身地:琉球国真和志間切垣花村(現在の沖縄県那覇市垣花・住吉エリア)
- 肩書き・役職:琉球王府 親方(ウェーカタ)、真和志間切儀間地頭
- 異名・愛称:沖縄産業の父、琉球産業の恩人、琉球の五偉人
- 師弟・関係者:【協力者】野国総管(イモの苗を譲受)、尚寧王(主君)、袋中上人(信仰上の師)
- 主な実績:甘藷(サツマイモ)の普及、木綿栽培・織物の導入、製糖法(黒糖)の確立
- 祀られている場所:世持神社(那覇市奥武山町)、住吉神社(那覇市山下町)
「何とかして、この貧しい島を救いたい」
16世紀末、琉球王国。 度重なる台風と日照りにより作物は枯れ、人々は常に飢えに苦しんでいました。 そんな絶望の淵にあった島で、一人の男が立ち上がります。
儀間真常(ぎま しんじょう)。 彼は、琉球王国の高官(親方)という身分でありながら、自ら泥にまみれて土を耕し、海を渡って技術を求め、琉球に「サツマイモ」「木綿」「砂糖」という三大産業をもたらしました。 現在の沖縄の原風景——風に揺れるサトウキビ畑や、鮮やかな伝統織物——は、すべてこの男の情熱から始まったと言っても過言ではありません。
「沖縄産業の父」「琉球の五偉人」と称えられ、88歳で没するまで民衆の幸福(国利民福)を追い求めた、偉大な実務家の生涯に迫ります。
飢えを救った「赤いイモ」の普及
1557年、那覇の垣花(かきのはな)に生まれました。若い頃から首里王府に勤め、その才覚で昇進を重ねましたが、彼の心は常に貧しい農民と共にありました。
当時の琉球は、食糧不足が深刻な社会問題でした。 1605年、野国総管(のぐに そうかん)という人物が中国から「甘藷(かんしょ=イモ)」の苗を持ち帰ったと聞くと、真常はすぐに彼を訪ねて苗を譲り受け、自ら栽培法の研究に没頭しました。 このイモは台風に強く、痩せた土地でも驚くほど育ちました。真常はこれを自分だけのものにせず、種イモを惜しげもなく配り、熱心に国中へ普及させました。これにより、琉球の人々は餓死の恐怖から救われたのです。 このイモは後に薩摩(鹿児島)へ伝わり、「サツマイモ」として日本全土の飢饉をも救うことになります。
敗戦の屈辱を「木綿」の温かさに変えて
1609年、薩摩藩が琉球に侵攻。琉球は敗北し、尚寧王と共に真常も捕虜として鹿児島へ連行されました。 しかし、真常はこの逆境をもチャンスに変えます。薩摩で人々が着ている「木綿(もめん)」の暖かさに注目したのです。当時の琉球の庶民は、冬でも麻や芭蕉布などの薄着で震えていました。
1611年、帰国の際に木綿の種を持ち帰った真常は、薩摩出身の女性(梅千代・実千代)の協力を得て、栽培と織り方を村の女性たちに教えました。これが後に沖縄の伝統工芸「琉球絣(りゅうきゅうがすり)」へと発展していきます。
国を富ませた「黒いダイヤ(黒糖)」
薩摩への年貢などにより、琉球王国の財政は逼迫していました。「国を豊かにし、民を救うには、高く売れる商品が必要だ」。 真常が目をつけたのは「サトウキビ」でした。当時、キビ自体はありましたが、それを絞って「砂糖」にする技術がありませんでした。
1623年、すでに66歳となっていた真常は、私財を投じて二人の若者を中国(福建省)へ派遣し、製糖技術を学ばせました。帰国後、自らの屋敷に製糖工場を作り、「黒糖」の製造に成功します。 これが王府の専売品となり、琉球経済を支える最大の基幹産業となりました。400年経った今も、サトウキビは沖縄の風景そのものです。
88歳まで貫いた「国利民福」
真常は88歳で亡くなるまで、新しい産業を興し、民衆の生活を向上させることに情熱を注ぎ続けました。 彼の行動原理は常に「国利民福(国の利益と民の幸福)」。 高い地位にありながら、机上の空論ではなく、自らの庭を実験場にして泥にまみれた「実践の人」でした。
儀間真常を深く知る「この一冊!」
「沖縄学の父」伊波普猷・真境名安興の共著になる歴史的名著

琉球の五偉人 Kindle版 / 伊波普猷 (著), 真境名安興 (著)

「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷らが、琉球の歴史を築いた5人の英雄(儀間真常、蔡温、向象賢、程順則、宜湾朝保)の功績を記した名著。真常がいかにして産業を興したかが、歴史的背景とともに詳しく解説されています。
📍【完全網羅版】儀間真常の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト
儀間真常の足跡は、彼の墓所や祀られている神社など、那覇市を中心に見ることができます。
【沖縄県那覇市】 産業振興と眠りの地
- 儀間真常の墓(沖縄県那覇市首里崎山町1-37付近):元々は那覇港近くの住吉町にありましたが、戦後米軍基地(那覇軍港)となったため、現在の首里崎山町(首里カトリック教会南側)に移設されました。墓の左側には「儀間真常之墓表」、右側には「糖業顕彰碑」が建っており、サトウキビ産業への貢献を讃えています。
- 世持神社(よもちじんじゃ)(沖縄県那覇市奥武山町52):奥武山公園内にある神社。「世持」とは「世の中(国)を支える」という意味です。産業の恩人として、儀間真常、サツマイモを持ち帰った野国総管、政治家の蔡温の三人が祀られています。
- 住吉神社(儀間真常を祀る)(沖縄県那覇市山下町2-15):儀間真常の出身地である垣花・住吉地区の人々によって守られてきた神社。元々は住吉町にありましたが、軍港接収により現在地に移転しました。境内には地域の偉人として儀間真常が合祀されています。
- 首里城公園(沖縄県那覇市首里金城町1-2):真常が役人として仕え、尚寧王の側近として活躍した琉球王国の中心地。彼が奔走した王府の雰囲気を感じることができます。
【沖縄県嘉手納町】 イモの恩人との絆
- 野国総管の墓・野国総管宮(沖縄県中頭郡嘉手納町兼久8):真常にイモの苗を分けた恩人・野国総管の墓所とお宮です。真常の功績は、野国総管が持ち帰った苗から始まりました。
💬儀間真常の遺産:現代社会へのメッセージ
儀間真常の生涯は、「技術と知恵で、社会課題を解決する」というイノベーションの精神そのものです。
飢饉にはイモを、寒さには木綿を、貧困には砂糖を。 彼は嘆くのではなく、海外の技術を貪欲に取り入れ、それを自国の環境に合わせて改良し、普及させました。 「何とかしてみんなの暮らしを楽にしてあげたい」。 その純粋で熱い思いと実行力は、現代のビジネスや地域創生においても最も大切な指針となるはずです。
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