広島県の偉人:靉川光郎(靉光) — 戦火に散った「魂の画家」、異端と孤高の軌跡
プロフィール
靉川 光郎(あいかわ みつろう)
画号:靉光(あいみつ) │本名:石村 日郎(いしむら にちろう)
1907(明治40)年6月24日生│1946(昭和21)年1月19日没(38歳)
「洋画家」「魂の画家」異端の画家」
- 出身地:広島県山県郡壬生町字梅之木(現・北広島町)
- 職業・肩書き:洋画家(シュルレアリスム、新人画会)
- 代表作:『眼のある風景』『シシ』『帽子をかむる自画像』『自画像(白衣の自画像)』など
- 功績:西洋の前衛美術(シュルレアリスム)と東洋の写実を見事に融合させ、日本近代洋画の一つの到達点を示した。戦時下においても芸術の自由を求め「新人画会」を結成した。
「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい」
国家が戦争へと突き進み、芸術家たちに戦意高揚のための「戦争画」を描くことが強く求められた時代。その激流の中で、決して体制に迎合することなく、己の内面と深く向き合い、泥臭くも圧倒的な生命力を放つ絵を描き続けた画家がいました。 「魂の画家」と呼ばれた広島県出身の洋画家、靉川光郎(あいかわ みつろう)、のちに自ら名乗った画号・靉光(あいみつ)です。
西洋のシュルレアリスム(超現実主義)と東洋の宋元画の凄みを見事に融合させた独自の画風は、当時の画壇において「異端」とも呼ばれました。代表作『眼のある風景』や、出征直前に描かれた凄絶な『自画像(白衣の自画像)』は、近代日本洋画の最高到達点の一つとして現在も高く評価されています。
将来を嘱望されながらも38歳の若さで戦病死し、さらに故郷・広島への原爆投下によって残された作品の多くが灰燼に帰すという悲劇に見舞われました。しかし、奇跡的に戦火を免れたわずかな作品群は、今もなお私たちの心を強烈に揺さぶり続けています。 不器用に、しかしどこまでも真摯に絵画を探求し続けた靉光の、太く短い生涯に迫ります。
印刷所の見習いから、丸眼鏡の「靉光」へ
1907(明治40)年6月24日、広島県山県郡壬生町字梅之木(現在の北広島町壬生)の農家に、本名・石村日郎(いしむら にちろう)として生まれました。 1914年(大正3年)、7歳の時に父方の伯父夫婦の養子となり、広島市内の鉄砲町へと転居します。高等小学校を卒業後、1922年に地元の印刷所に奉公に出され、図案や版下を製作する製版技術の見習い職人として働き始めました。
しかし、少年の心の中には「画家になりたい」という強い情熱が燃え上がっていました。周囲の反対を押し切り、1924年に大阪へと出て天彩画塾で絵を学び始めます。この頃から「靉川光郎」と名乗り、やがてそれを縮めた「靉光(あいみつ)」という画号を用いるようになります。 極度の近視であった彼は、常に分厚い丸眼鏡をかけていました。「靉光」の「靉」という見慣れない漢字は、眼鏡を意味する古い言葉「靉靆(あいたい)」から取ったものだと言われており、彼のユーモアと自己認識が窺えます。
17歳となった1925年、本格的に絵を学ぶために上京し、谷中に住み込みながら太平洋画会研究所に通い始めます。当時の日本は、ゴッホやマティス、ルオーといったフランス近代絵画の影響が押し寄せていた時代でした。若き靉光も様々な画家のスタイルを吸収し、油彩に溶かした蝋(ロウ)を混ぜて削り出す独特の「蝋画(ろうが)」技法などを生み出しながら、泥臭く自らの表現を模索していきます。
ライオンの眼と『眼のある風景』の誕生
1926年、19歳で二科展に初入選を果たします。以降、昭和初期の若い芸術家たちが集い、夜な夜な芸術論を戦わせた熱気あふれるアトリエ村、通称「池袋モンパルナス」界隈に身を置き、独自の画風を追求していきました。
1934年には岩手県出身でろう学校の教師をしていた桃田キエ(キヱ)と結婚。妻の献身的な支えによって生活の基盤を得た靉光は、次第に前衛的な作品を生み出していきます。 転機となったのは、1936年の第6回独立美術展でした。彼は上野動物園に通い詰め、ライオンを執拗にスケッチし、『ライオン(シシ)』の連作を発表します。動物の姿を借りて物質の圧倒的な存在感や異形の生命力を表現したこの作品は、一躍注目を集めました。
そして1938年、彼の名を日本の美術史に永遠に刻むこととなる代表作『眼のある風景』(発表時の題名は『風景』)を第8回独立美術展に出品し、見事に独立美術協会賞を受賞します。 名状しがたい巨大な肉塊のような物体の中に、見開かれた「眼」が爛々とこちらを見つめているこの怪作は、ライオンの眼のスケッチから発展したものだと言われています。単なる西洋シュルレアリスムの模倣ではなく、東洋の深い精神性をも感じさせるこの作品は、迫り来る戦争の足音と不穏な時代の空気を予言するかのような、圧倒的な密度を持っています。
描けなかった戦争画と「新人画会」の祈り
1939年、靉光は福沢一郎らとともに前衛的な美術団体「美術文化協会」の設立に参加します。しかし、時代は日中戦争から太平洋戦争へと向かい、シュルレアリスムや前衛芸術は「危険思想」として特高警察の弾圧の対象となっていきました。1941年には福沢らが治安維持法違反の疑いで検挙され、画壇全体が萎縮してしまいます。
当局からは軍部に協力する「戦争画」を描くよう圧力がかけられますが、不器用で誠実な靉光はどうしても戦争を美化する絵を描くことができませんでした。「わしにゃあ、戦争画はよう描けん」と妻の前で泣くように嘆きながらも、彼は自らの内なる表現を手放すことはありませんでした。
1943年、息苦しい社会状況に抗うように、靉光は松本竣介、麻生三郎、鶴岡政男ら気脈を通じる同志たちと「新人画会」を結成します。銀座の画廊で開催された彼らの展覧会は、声高な反戦運動ではなく、ただ純粋に「どんな時代であっても、芸術の灯を絶やさない」という祈りのような試みでした。
絶筆の『自画像』と原爆の悲劇、そして上海の土へ
戦局がいよいよ絶望的となった1943年から翌年にかけて、靉光は自らの姿を見つめ直すように、立て続けに3点の『自画像』を制作します。特に1944年に描かれた『自画像』(白衣の自画像)は、静かな怒りと悲しみ、そして自らの運命を受け入れたような澄み切った眼差しで観る者を射抜く、凄絶な傑作です。
この『白衣の自画像』が完成した直後の1944年、36歳の靉光に赤紙(召集令状)が届きました。彼は「ようやく戦時下の男になれそうです」と兄に手紙を書き残し、大切な作品を友人たちに託して中国大陸へと出征します。
そして1945年8月6日。彼の故郷である広島に原子爆弾が投下されました。妻と3人の子供は原爆投下前に妻の郷里である岩手県へ疎開していたため難を逃れましたが、爆心地から近い広島市鉄砲町の実家に残っていた養父母は被爆。さらに、靉光が実家に残していた初期作品やデッサン、膨大な資料のほとんどがこの時、一瞬にして灰燼に帰してしまいました(養父は2年後、養母は4年後に原爆症で亡くなっています)。
同年8月15日、中国で終戦を迎えた靉光ですが、過酷な軍隊生活の中で胸膜炎とマラリア、アメーバ赤痢を併発していました。十分な治療も食事も与えられないまま、復員船に乗ることも叶わず、1946(昭和21)年1月19日、上海郊外の兵站病院で息を引き取ります。享年38。 日本で待つ遺族の元に届けられたのは、遺骨ではなく、友人から送られた遺品の「飯盒(はんごう)」ただ一つでした。
戦後、友人たちの尽力によって遺作展が開かれ、焼け残った靉光の作品は日本近代美術における「奇跡の結晶」として高く再評価されることになります。泥にまみれながらも純粋に絵を描くことだけを愛した男の魂は、今もカンヴァスの中で静かに、そして力強く燃え続けています。
靉川光郎(靉光)を深く知る「この一冊!」
洋画家・靉光の生涯~ドロでだって絵は描ける~

戦没画家靉光の生涯: ドロでだって絵は描ける / 窪島 誠一郎 (著)
単行本(ソフトカバー) – 2023/9/11

「無言館」の設立者であり、戦没画家の足跡を追い続ける著者による傑作評伝。戦争という理不尽な暴力に命を奪われながらも、最期まで「絵を描くこと」への執念を燃やし続けた靉光の苦悩と人間像に迫る、涙なしには読めない感動の一冊です。
📍【完全網羅版】靉川光郎(靉光)の足跡を辿る — 全国作品収蔵美術館リスト
生前に自ら作品を破棄する傾向があり、さらに原爆によって故郷の作品群が焼失したため、靉光の現存する油彩画は約60数点しかありません。しかし、奇跡的に残された傑作たちは、現在全国の主要な美術館に所蔵され、厳重に守られています。
前述の通り、靉光は終戦後、上海の兵站病院で戦病死し、遺族の元には遺品(飯盒)のみが届けられました。そのため、彼自身の遺骨が納められた公的な墓所(史跡としての墓)は存在しません。しかし、彼の魂は残された作品群と、彼を顕彰する故郷の取り組みの中に確かに生き続けています。
【広島県】 生誕の地と、魂の帰る場所
- ギャラリー森(靉光記念 北広島町児童生徒自画像展)(広島県山県郡北広島町有田 サンクス内2F):
- 靉光の生誕地である北広島町では、彼の偉業を後世に伝えるため、町内の児童・生徒が描いた自画像を展示する「靉光記念 自画像展」を毎年秋に開催しています。彼を顕彰する最も重要なゆかりの地の一つです。
- 広島県立美術館(広島県広島市中区上幟町2-22):
- 故郷を代表する美術館として、『コミサ(洋傘による少女)』(1930年)、『二重像』(1941年)、『花園の虫』(1942年頃)、そして晩年の傑作である『帽子をかむる自画像』(1943年)など、極めて重要なコレクションを所蔵しています。
- 広島市現代美術館(広島県広島市南区比治山公園1-1):
- 『蝶』(1941年)や『静物(魚の頭)』(1941年)などの油彩画を所蔵しています。
- ひろしま美術館(広島県広島市中区基町3-2 中央公園内):
- 日本の近代洋画コレクションの中で靉光の『瓶花』を所蔵しています。
- ウッドワン美術館(広島県廿日市市吉和4278):
- 広島県内の豊かな自然に囲まれた美術館で、『ばら』『静物』『かます』(いずれも1943年頃)といった貴重な作品群を所蔵しています。
【東京都】 靉光の最高傑作に出会える最重要拠点
- 東京国立近代美術館(MOMAT)(東京都千代田区北の丸公園3-1):
- 靉光の画業を知る上で絶対に外せない美術館です。最高傑作である『眼のある風景』(1938年)や、出征直前に描かれた絶筆とも言える『自画像(白衣の自画像)』(1944年)をはじめ、『シシ』(1936年)、『蝶』(1942年)、『馬』(1936年)など、主要な油彩画や素描を多数所蔵しています。
- 東京都現代美術館(東京都江東区三好4-1-1):
- 『静物(雉)』(1941年)などの貴重な作品を所蔵しています。
- 東京藝術大学大学美術館(東京都台東区上野公園12-8):
- 靉光が残した3点の重要な自画像のうちの一つである『梢のある自画像』(1943年)を所蔵しています。
- 練馬区立美術館(東京都練馬区貫井1-36-16):
- 『葡萄』(1934年)、『花と蝶』(1941-42年頃)などの作品を所蔵しています。
- 板橋区立美術館(東京都板橋区赤塚5-34-27):
- 「池袋モンパルナス」の作家たちの作品収集に力を入れている当館では、靉光の『風景(豊島区長崎町周辺)』(1930年頃)などの作品を所蔵しています。
- 府中市美術館(東京都府中市浅間町1-3):
- 『花』(1944年頃)、『ダリア』(1943年)などの晩年の作品を所蔵しています。
【全国その他主要美術館・施設】 奇跡的に残された名画たち
- 長野県立美術館(長野県長野市箱清水1-4-4):
- 戦没画家の作品を収集してきた「旧・信濃デッサン館」から移管された、靉光の『静物』(1926-27年頃)などの作品を所蔵しています。
- KAITA EPITAPH 残照館(旧・信濃デッサン館)(長野県上田市東前山300):
- 作品自体は移管されましたが、現在も村山槐多らを顕彰する施設として再オープンしており、隣接する戦没画学生の慰霊美術館「無言館」とともに、戦時下を生きた画家たちの息遣いを感じることができる聖地です。
- 京都国立近代美術館(京都府京都市左京区岡崎円勝寺町):
- 『花(やまあららぎ)』(1942年)や『壺に入った花』(1938年頃)など、シュルレアリスム的要素が色濃く出た静物画を所蔵しています。
- 大川美術館(群馬県桐生市小曽根町3-69):
- 日本の近代洋画を多数所蔵する当館では、靉光の『静物(洋梨)』(1942年)を所蔵しています。
- 神奈川県立近代美術館(神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1):
- 『警察病院風景』(1941年)を所蔵しており、過去に関根正二との二人展が開催されるなど、靉光の評価確立に大きく貢献した美術館です。
- 横須賀美術館(神奈川県横須賀市鴨居4-1):
- 『グラジオラス』(1942年頃)を所蔵しています。
- 愛知県美術館(愛知県名古屋市東区東桜1-13-2):
- 模索期の代表的な作品である『編み物をする女』(1934年)や『自顔像』(1934年)を所蔵しています。
- メナード美術館(愛知県小牧市小牧5-250):
- 『馬』(1934年)を所蔵しています。
- 岐阜県美術館(岐阜県岐阜市宇佐4-1-22):
- 細密描写と幻想性が融合した重要作『花園』(1936年)を所蔵(個人蔵からの寄託)しています。
- 三重県立美術館(三重県津市大谷町11):
- 素描『鷺』(1937年)や、水彩画『とげ抜き』(1934年)などを所蔵しています。
- 岡山県立美術館(岡山県岡山市北区天神町8-48):
- 油彩画『風景』(1930年代)を所蔵し、西日本における貴重な靉光作品の鑑賞拠点となっています。
- 宮城県美術館(宮城県仙台市青葉区川内元支倉34-1):
- 『鳥』(1940年)などの作品を所蔵しています。
- 岩手県立美術館(岩手県盛岡市本宮字松幅12-3):
- 岩手県は妻・キエの故郷であり、遺族が原爆の難を逃れた疎開先です。盟友・松本竣介の記念室がある同館では、貴重な靉光の油彩画も収蔵されており、共に展示されることがあります。
💬靉川光郎(靉光)の遺産:現代社会へのメッセージ
「芸術とは、決して時代に迎合するものではなく、己の内なる真実を抉り出すものである」
靉光の生涯を振り返るとき、私たちが強く感じるのは、狂気に満ちた時代状況の中にあっても、決して自らの「眼」を曇らせることなく、キャンバスに向かい続けた一人の人間の途方もない誠実さです。 「戦争画を描け」という全体主義的な圧力に対し、彼は大声で反体制を叫んだわけではありませんでした。ただ、自らの内面を見つめ、静かに、そして圧倒的な熱量で「眼のある風景」や「自画像」を描くことで、人間としての尊厳と芸術の自由を守り抜こうとしました。
現代社会においても、私たちは時に同調圧力や「世間の空気」に流され、自分自身の本当の声を見失いそうになることがあります。 上海の冷たい土に還った「魂の画家」が、その短い命を削って残した強烈な絵画群は、私たちにこう問いかけています。「あなたは今、自分の眼で世界を、そして自分自身をしっかりと見据えているか」と。 靉光の遺した作品の前に立つとき、爛々と見開かれた絵画の中の「眼」は、時代を超えて、今を生きる私たちの魂の奥底を深く見つめ返してくるのです。
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