青森県の「父」たち
🍎青森開拓の「父」たち
「津軽のじょっぱり」と称され、頑固者だが辛抱強い津軽人に対して、開放的で粘り強い性質をもつといわれる南部人というように、今でも気質が大いに違うといわれる青森県ですが、開拓精神を持つ多くの人々が津軽海峡を渡り北海道に移住したといわれています。しかし、そんな青森県にあって、明治維新前後に郷土の開拓に尽力した「父」も存在します。
🔵新渡戸傳(にとべ つとう)── 開墾の父・三本木開拓の父
青森の開拓で必ず語られる筆頭が新渡戸傳(1793~1871)です。 南部藩士の子として花巻(現岩手県花巻市)に生まれた傳は、27歳の時、父・維民が藩の政策に反対し川内(青森県下北郡)に流され、家計を助けるため商人となりました。以来17年間材木を中心に商いをし、商才を発揮して大きな利益を上げたのです。
56歳で藩の勘定奉行を命ぜられ、特に開拓事業に力を発揮して花巻近辺で多くの開田に成功します。63歳の時には、藩の財政をさらに立て直すため、三本木原開拓を藩に願い出ますが、当時の三本木原は住む人もいない荒れ果てた原野でした。傳はこの原野に水路を通し、稲作地帯へと開削する決意をしました。財政難の藩からの開拓資金はあてにできないため、有志から、あるいは自らの武具を売るなどしてお金を集め、1855年(安政2)新田御用掛として着手します。
三本木原の南には奥入瀬川が流れていますが、高低差が30メートルもあり、水をかなり上流から引く必要がありました。また、途中の山にはトンネルを掘る必要もありました。硬い岩盤を貫く難工事でしたが、2,540mと1,620mの2つのトンネル、約8kmにもおよぶ人工川を完成させます。工事開始から4年後の1859年(安政6)、初めて奥入瀬川の水が音を立て三本木原を流れたのでした。
人工河川・稲生川を開削し、十和田市を米や野菜などを生産する豊かな地帯へと発展させる基礎を築いた傳は、「開墾の父」「三本木開拓の父」と称されています。最晩年は七戸藩設立に奔走し、1869年(明治2)七戸藩家老、後に大参事(現在の副知事)となりました。1871年(明治4)三本木(現青森県十和田市)で逝去し、太素塚に埋葬されました。新渡戸記念館(十和田市)には当時の開拓資料が多く所蔵され、また、水路に水が初めて流れた5月4日頃、太素祭(たいそさい)(太素は傳の別名)を催し、その業績をたたえています。日本初の農学博士で『武士道』の著者・新渡戸稲造は、孫にあたります。
🔵工藤轍郎(くどう てつお)── 上北地方近代化の父
七戸町出身の工藤轍郎(1849~1927)は、七戸藩に出仕して傳の薫陶を受け、廃藩置県により青森県が誕生すると、青森上北郡各地の開拓に一生を捧げることを決意します。
原久保(現七戸町)の水田開発にはじまり、天間林村(現七戸町)に野崎新田を開き、また、萩之沢(現七戸町)の広大な原野を開墾して牧場をはじめ馬産も手がけました。この間、自らが開拓した集落には私財を投じて小学校を建設しています。1882年(明治15)には念願の七戸荒谷平(さらがたい)平原(七戸町と十和田市にまたがる地域)382ha(東京ドーム約81個分)の開拓に着手します。
三本木同様の火山灰台地で困難な水路工事であるという技術上、財政上の問題ばかりでなく、複雑な権利関係が存在し、傳でさえ手を付けられない開拓ではありましたが、馬耕を積極的に取り入れ、自ら鍬を振るい水温調整や施肥などを研究し、青森でははじめて化学肥料を使用するなど、火山灰土に悩むこの地方の農産物収穫高を飛躍的に増大させ、「上北地方近代化の父」と呼ばれました。
「耕地は耕すものに持たせ、熟田をつくりあげる」という轍郎の遺志は遺族によって実現され、1945年(昭和20)荒谷平の水田500haを小作人に開放しました。これは戦後の農地改革に先駆けた画期的な出来事でありました。
🔵三浦泉八(みうら せんぱち)── 宇樽部開拓の父
五戸町出身の三浦泉八(1845~1913)は、新郷村から十和田湖宇樽部(現十和田市)に通じる道を1885年(明治18)に完成させました。さらに宇樽部を開拓して集落をつくり、「宇樽部開拓の父」と呼ばれています。
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