北海道・東京都の偉人:有島武郎 — 「愛」に生き、「愛」に殉じた白樺派の巨星
プロフィール
有島 武郎(ありしま たけお)
1878(明治11)年3月4日生│1923(大正12)年6月9日没(45歳)
「小説家・評論家」「北海道文学の父」
- 出身地:東京府小石川(現・東京都文京区)
- 肩書き:小説家、評論家
- 所属:白樺派
- 代表作:『或る女』『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『惜しみなく愛は奪ふ』『小さき者へ』
- 親族:【弟】有島生馬(画家)、里見弴(小説家) 【長男】森雅之(俳優) 【妹の孫】山本直純(指揮者)
「愛は惜しみなく奪う」
この鮮烈な言葉を残し、愛する女性と共に軽井沢の霧の中に消えた作家、有島武郎(ありしま たけお)。 彼は、明治・大正という激動の時代において、最も誠実に、そして最も苦悩しながら「個」の生き方を問い続けた知識人でした。
華族の家に生まれ、皇太子の学友にも選ばれたエリート中のエリート。しかし、彼はその特権的な地位に安住することなく、北海道の荒野で「神」と対峙し、やがて「社会主義」の理想に燃えて、父から譲り受けた広大な農場を小作人たちへ無償で解放してしまいます。
理想と現実、信仰と本能、そして愛と死。 二つの相反する力に引き裂かれながらも、最期まで人間らしくあろうともがいた「北海道文学の父」の、あまりにも純粋で劇的な生涯に迫ります。
華族の長男、北の大地へ
1878年(明治11年)、東京・小石川(現・文京区)に、旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の長男として生まれました。 学習院中等科を卒業後、彼は周囲の反対を押し切り、新渡戸稲造や内村鑑三らが教鞭を執る札幌農学校(現・北海道大学)へ進学します。
当時の札幌は、まだ開拓の槌音が響く荒野でした。都会の軟弱な少年だった有島は、大自然の中でたくましく成長し、キリスト教に入信。生涯の友となる信仰と、厳しくも美しい自然観をこの地で獲得します。 (※現在も北海道大学の校歌として歌われる『永遠の幸』は、在学中に有島が作詞したものです)
信仰の喪失と「白樺」での開花
卒業後、アメリカへ留学。ハーバード大学などで学びますが、そこで彼は大きな挫折を味わいます。科学的合理主義と人間の本能への目覚めにより、キリスト教への信仰を失ってしまったのです。
帰国後、札幌で英語教師となりますが、弟・有島生馬や志賀直哉、武者小路実篤らと出会い、同人誌『白樺』に参加。ここから作家・有島武郎が誕生します。 1916年(大正5年)、最愛の妻・安子と父を相次いで亡くし、札幌から東京(現在の新宿区新小川町)へ転居。この地で孤独と向き合いながら、北海道の過酷な自然と小作人の悲哀を描いた『カインの末裔』、自我に目覚めた女性の愛欲と破滅を描いた傑作『或る女』などを次々と発表し、文壇の寵児となりました。
「宣言一つ」農場解放という衝撃
有島文学の根底には、常に「有産階級(ブルジョア)である自分」と「労働者階級」との格差に対する激しい苦悩がありました。 「私は労働者諸君に頭を下げる。しかし、私は労働者にはなれない」。
1922年(大正11年)、彼はその思想を行動に移します。北海道狩太村(現・ニセコ町)にあった父譲りの広大な「有島農場」を、小作人たちに無償で解放したのです(『宣言一つ』)。 「土地は耕す者のものである」。 この画期的な試みは、当時の社会に巨大な衝撃を与えましたが、同時に彼自身の財産と精神的支柱を失わせる結果ともなりました。
軽井沢、愛の果てに
農場解放後、彼は創作の筆を折り、虚無感に苛まれるようになります。 そんな中出会ったのが、『婦人公論』の記者で人妻であった波多野秋子でした。禁断の恋は燃え上がり、やがて逃れられない運命へと二人を導きます。
1923年(大正12年)6月9日。 雨の降る軽井沢の別荘「浄月庵」で、二人は縊死(心中)。 「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」。
遺書に残されたこの言葉と共に、45年の生涯を閉じました。
有島武郎を深く知る「この一冊!」
紐解かれる有島文学

有島武郎――地人論の最果てへ (岩波新書) / 荒木 優太 (著)
新書 – 2020/9/19

土地や血統の宿命からは決して逃れられないと知りつつも、普遍的な個性や愛を信じようとした有島武郎。二つの力学が絡み合うなか、『或る女』『カインの末裔』『生れ出づる悩み』などの有島文学は産み落とされた。矛盾に満ちた葛藤の果てに有島が夢見た地平をめざして、その作品と生涯を読み解いていく一冊です。
📍【完全網羅版】有島武郎の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト
有島武郎の足跡は、彼の精神を育んだ「北海道」、作家として生きた「東京」、そして最期を迎えた「軽井沢」に点在しています。
【北海道】 理想と青春の地
- 有島記念館(北海道虻田郡ニセコ町字有島57):解放された有島農場の跡地に建つ記念館。彼の思想や農場解放の経緯、作品資料が豊富に展示されています。
- 有島農場解放記念碑(ニセコ町・有島記念館敷地内):小作人たちが有島の恩義に報いるために建立した碑。「相互扶助」の精神が刻まれています。
- カインの末裔文学碑(ニセコ町・有島記念館敷地内):代表作『カインの末裔』の一節が刻まれています。
- 有島武郎旧邸(札幌市南区芸術の森2-75):1913年(大正2年)に有島が札幌市北区に建て、妻・安子と暮らした洋風邸宅。現在は「札幌芸術の森」に移築・復元されています。
- 北海道大学(旧・札幌農学校)(札幌市北区北8条西5):青春時代を過ごした母校。構内(サクシュコトニ川周辺)に、彼が作詞した校歌「永遠の幸」の歌碑があります。
- 有島武郎文学碑(大通公園)(札幌市中央区大通西9):大通公園内にあり、『小さき者へ』の一節「小さき者よ、不幸な而して同時に幸福な…」が刻まれています。
- 旧有島家住宅(札幌市厚別区厚別町小野幌50-1):有島の父・武が建てた家。武郎も滞在したことがあり、現在は「北海道開拓の村」に移築保存されています。
- 木田金次郎美術館(北海道岩内郡岩内町万代51-3):小説『生れ出づる悩み』のモデルとなった画家・木田金次郎の作品を展示。有島との交流資料も展示されています。
- 「生れ出づる悩み」文学碑(岩内町・カスペノ岬):雷電海岸の景勝地にあり、有島と木田の友情を伝えています。
【東京都】 生誕と作家活動の拠点
- 有島武郎旧居跡(説明板)(東京都新宿区新小川町1-1):妻と父を亡くした後、大正5年から7年まで住んだ場所。作家として最も脂の乗り切った時期を過ごし、『カインの末裔』『生れ出づる悩み』などを執筆しました。現在はマンション(飯田橋ハイタウン)の植え込みに新宿区教育委員会による説明板が立っています。
- 有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡(東京都千代田区六番町3):弟たちと共に育った屋敷跡。現在は「番町文人通り」沿いのマンション前に、千代田区によるプレートが設置されています。
- 有島武郎生誕の地(東京都文京区水道1-12):小石川の旧邸跡。現在は住宅街となっており、記念碑等はありませんが、記録上の生誕地(旧・小石川水道町)です。
- 多磨霊園・有島武郎の墓(東京都府中市多磨町):著名人が多く眠る霊園。10区1種1側13番に有島家の墓所があり、武郎もここに眠っています。
【神奈川県横浜市】 幼少期の記憶
- 横浜英和小学校(旧・横浜英和学校)(神奈川県横浜市南区蒔田町124):有島が幼少期に通った学校。彼の代表的な童話『一房の葡萄』の舞台であり、校内に「有島武郎文学碑」が建てられています。
【長野県軽井沢町】 終焉の地
- 軽井沢高原文庫(旧・浄月庵)(長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉217):有島が最期を迎えた別荘「浄月庵」が、塩沢湖畔の「軽井沢タリアセン」内に移築保存されています。1階には著作や書簡が展示され、2階には心中現場となった部屋が保存されています。
- 有島武郎終焉地碑(軽井沢町・旧三笠ホテル近く):かつて浄月庵が実際に建っていた場所(別荘地・三笠山)に建てられた碑です。
【鳥取県・兵庫県】 最期の旅路
- 有島武郎歌碑(鳥取砂丘)(鳥取県鳥取市浜坂):死の1ヶ月前(大正12年5月)に鳥取砂丘を訪れ、その寂寥感を詠んだ歌「浜坂の遠き砂丘の中にしてさびしき我を見出でつるかも」が刻まれています。
- 有島武郎歌碑(城崎温泉)(兵庫県豊岡市城崎町・温泉寺):鳥取からの帰路に立ち寄った城崎温泉で詠んだ歌の碑があります。
💬有島武郎の遺産:現代社会へのメッセージ
「小さき者よ、不幸な而(しか)して同時に幸福な、お前たちの父と母との祝福を胸にうけて、人の世の旅に登れ」(『小さき者へ』より)
有島武郎の生涯は、一見すると矛盾に満ちています。 キリスト教に入りながら棄教し、農場を持っていながら解放し、家族を愛しながら愛人と死を選んだ。 しかし、その矛盾こそが、彼が「人間としての誠実さ」を極限まで追求した証でした。
現代社会において、私たちはしばしば「建前」や「役割」に縛られ、自分の心の声に蓋をして生きています。 有島の生き様は、私たちにこう問いかけます。 「君は、君の魂に嘘をついていないか?」 地位も名誉も投げ打ち、傷つきながらも「個」としての愛と自由を貫いた彼の姿は、閉塞感漂う現代に生きる私たちに、自分らしく生きるための勇気と、ある種の痛みを与えてくれるのです。
©【歴史キング】


