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東京都/北海道の偉人:榎本武揚 — 幕末の反逆者から明治の万能閣僚へ。プライドより「実学」を選び、未来を創った科学者提督

プロフィール

榎本 武揚(えのもと たけあき)

1836(天保7)年10月5日生│1908(明治41)年10月26日没(享年73歳)
「官僚」「海軍軍人」「政治家」

  • 出身地:江戸下谷御徒町柳川横町(現・東京都台東区小島付近・三味線堀)
  • 通称・号・変名:釜次郎(かまじろう)、号は梁川(りょうせん)。変名として榎と釜を分解した「夏木 金八(なつき きんぱち)」を使用。俗称「ぶよう」。
  • 職業・肩書き:幕臣、海軍軍人、政治家、外交官(海軍中将正二位勲一等子爵)
  • 歴任した主な役職:幕府軍艦奉行並、幕府海軍副総裁、蝦夷共和国総裁。開拓使中判官、駐露特命全権公使、駐清特命全権公使。海軍卿、皇居造営事務副総裁、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣、枢密顧問官
  • 主な功績
    • 蝦夷共和国の樹立と箱館戦争の指揮。
    • ロシア帝国との「樺太・千島交換条約」の締結。マリア・ルス号事件の勝訴。シベリア横断の敢行。
    • 北海道(小樽・江別・空知炭田など)の開発と産業振興。手宮洞窟の調査。
    • 郵便記号「〒」の制定。ポルトガルの領事裁判権撤廃。
    • 東京農業大学(育英黌農業科)、電気学会、工業化学会、東京地学協会の創設。
    • 八幡製鐵所の官営化推進(初代長官に山内堤雲を起用)。
    • メキシコへの海外殖民事業の推進(日墨拓殖株式会社社長)。
    • 足尾鉱毒事件における鉱毒調査委員会の設置(のちに脳症を理由に引責辞任)。
  • 関連艦船:開陽丸、咸臨丸、カリップス号、テルナーテ号、富士山丸、朝陽丸、翔鶴丸、観光丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、長鯨丸、順動丸、平運丸、春日丸、太江丸、鳳凰丸、千秋丸、函館丸、甲鉄(新政府軍へ引渡)
  • 関連刀剣(流星刀):富山で発見された白萩隕鉄を買い取り、刀工・岡吉国宗に鍛造させた5振りの日本刀。長刀2振り(皇室献上分・東京農大所蔵分)、短刀3振り(龍宮神社所蔵分・富山市科学博物館所蔵分・戦時中紛失分)。
  • 交友・関係の深い人物:黒田清隆(助命に奔走した恩人)、ジョン万次郎(英語の恩師)、友野霞舟・田辺石庵(儒学の師)、カッテンディーケ・ポンペ(オランダ留学時の恩師)、大鳥圭介、土方歳三、ジュール・ブリュネ、高松凌雲、福沢諭吉、李鴻章、大隈重信、渋沢栄一、鈴木安五郎(左官の安)
  • 関連著作・翻訳物:『海律全書』(オルトラン著/大切に保存)、『開成雑俎』(獄中の技術書)、『渡蘭日記』、『獄中詩』、『北海道巡回日記』、『西比利亜日記』、『流星刀記事』、『朝鮮事情』(翻訳)、『千島誌』(翻訳)

「麦酒たっぷり相用ひ、誠にうきうきしたし申し候(ビールをたっぷり飲んで、うきうきしています)」

※投獄中、恩赦の知らせを受けた榎本が姉に宛てた手紙より

幕末から明治にかけて、これほど数奇で、痛快で、人間味にあふれた人物は他にいません。 江戸幕府の海軍トップとして最後まで新政府軍に牙を剥き、北海道に「蝦夷共和国」を打ち立てた反逆の将・榎本武揚(えのもと たけあき)。しかし彼は、敗戦後に死罪を免れると、手のひらを返すように明治新政府に仕え、逓信、文部、外務、農商務と各省の大臣を歴任するスーパー官僚へと変貌を遂げました。

思想家・福沢諭吉からは「武士の風上にも置けない変節者だ」と猛烈な批判を浴びます。しかし榎本は、そんな批判をどこ吹く風と受け流しました。なぜなら彼は、古い「武士道」や意地で玉砕するよりも、自らが学んだ「科学」と「実学」で日本を近代化させることのほうが、よほど国のためになると知っていたからです。

絶体絶命の牢獄の中でも石鹸を作り、オランダ語で「ドロンケン(酔っ払った)」とふざけ、郵便記号の「〒」をデザインし、日本酒を「米の水」と呼んで愛したスケールの大きな男。榎本武揚の、ロマンと合理主義に満ちた波乱万丈の生涯に迫ります。

科学者提督の「脱走」。真の目的は国を護ること

天保7年(1836年)、榎本武揚(幼名・釜次郎)は江戸の下谷御徒町で、伊能忠敬の弟子であった幕臣の次男として生まれました。 実は幼い頃に入学した幕府の最高学府・昌平坂学問所では、修了時の成績が「最低の丙」だったという落ちこぼれの一面もありました。しかし、ジョン万次郎から英語を学び、長崎海軍伝習所で最先端の航海術や化学を修めた彼は頭角を現し、26歳で幕府の留学生としてオランダへ渡ります。そこで国際法や蒸気機関、軍事知識を貪欲に吸収し、最新鋭の軍艦「開陽丸」とともに帰国しました。

しかし、帰国した彼を待っていたのは「徳川幕府の崩壊」でした。 新政府軍によって江戸城が無血開城され、勝海舟らが恭順の意を示す中、海軍副総裁となっていた榎本は、新政府軍への艦隊引き渡しを断固拒否します。彼は大坂城から18万両もの軍資金を運び出し、開陽丸をはじめとする精鋭艦隊を率いて品川沖を脱走。新選組の土方歳三らとともに蝦夷地(北海道)へ渡り、五稜郭を占拠して「蝦夷共和国(総裁・榎本武揚)」を樹立しました。

これは単なる「負け惜しみ」や「幕府への盲目的な忠誠」による暴走ではありません。職を失った大量の旧幕臣たちを北海道の開拓に従事させること、そして何より、北から迫り来る「ロシアの脅威」から日本を守るための、極めて理にかなった防衛戦略だったのです。 ちなみに後年、抗戦した理由を聞かれた榎本は、「今ならあんな幼稚なことはしないが、帰国したばかりで長州人といっても当時はどこの馬の骨だか判らないので抵抗してみた」と、洒落っ気たっぷりに語っています。

敵将の心を撃ち抜いた一冊の「海律全書」

圧倒的な物量と最新兵器を誇る新政府軍の前に、榎本軍は徐々に追い詰められていきます。明治2年(1869年)5月、五稜郭への総攻撃が始まり、敗北は決定的となりました。

この時、榎本は自決を覚悟しますが、一つだけ気がかりなことがありました。それは、オランダ留学時代から肌身離さず持ち歩き、余白にびっしりと書き込みをしたオランダ語の国際海洋法辞典『海律全書』のことです。 「自分が死ぬのは構わない。だが、これからの日本に絶対に必要なこの貴重な書物を、戦火で灰にしてはならない」

彼は敵の総司令官である黒田清隆のもとへ、この本を届けさせました。反逆の首謀者が、死の直前に「国の未来」を案じて敵に貴重な学術書を託したのです。 これを受け取った黒田は深く感動し、返礼として「酒5樽」と「肴」を五稜郭へ送り届けました。凄惨な殺し合いの最中に芽生えた、武将同士の奇妙で美しい友情。その後、榎本は降伏し、賊軍の将として東京の牢獄へ投獄されます。

牢獄で石鹸を作り、福沢諭吉を鼻で笑った男

東京・辰ノ口の牢獄に入れられ、いつ死罪になってもおかしくない状況下でも、榎本の「科学する心」と「ポジティブさ」は全く失われませんでした。 彼は獄中で嘆き悲しむどころか、差し入れの洋書を読み耽り、鶏の人工孵化器や石鹸、西洋ロウソクの作り方を図解入りでまとめた『開成雑俎』という技術書を執筆して兄に送っていたのです。さらには、当時の政府を皮肉った「ないない節」という戯れ歌まで作って歌っていました。

また、彼の助命に動いていた福沢諭吉から「翻訳してほしい」と化学の本を差し入れられた際、日本一の化学者であるという自負があった榎本は、家族への手紙に「福沢の本は幼稚だ。大勢の弟子を抱える福沢も大したことが無い」と書き残すなど、強烈なプライドを見せつけています。

一方、政府内では榎本の処遇を巡って激しい対立が起きていました。長州閥が「即刻死罪」を主張する中、あの本を受け取った黒田清隆(薩摩閥)が「榎本の才能はこれからの日本に絶対必要だ!」と丸坊主になって助命を嘆願し続けたのです。 2年半後、黒田の命懸けの説得が実り、榎本は特赦で釈放されます。出獄の前祝いとして、当時超高級品だった輸入ビール(オランダのハイネケンとも言われています)を差し入れられた彼は、姉に宛てて手紙を書きました。 「ビールをたっぷり飲んで、誠にうきうきしています。少々ドロンケン(オランダ語で酔っ払うの意)のため、乱筆をお許しください」 死線を乗り越え、新しい時代へと向かう男の、底抜けに明るい名言です。

「痩我慢」より「実学」。未来をデザインした万能人

釈放された榎本は、恩人である黒田清隆に懇願され、新政府(開拓使)に出仕します。旧幕臣たちからは「敵に寝返った裏切り者」と批判されましたが、彼には「誰の下で働くか」よりも「自分の知識を日本の近代化にどう役立てるか」のほうが重要でした。

彼の活躍は八面六臂でした。北海道で石炭(空知炭田)を発見し、小樽の都市開発の基礎を築き、駐露特命全権公使としては見事な外交手腕で「樺太・千島交換条約」を締結。その後も、逓信、文部、外務、農商務の各大臣を歴任します。 思想家・福沢諭吉は著書『痩我慢の説』で、「二君に仕えるのは武士道に反する変節だ」と榎本を痛烈に批判しました。しかし榎本はこれに反論せず、沈黙を貫きました。古い価値観の「痩我慢」で国を滅ぼすより、泥をかぶってでも「実学」で国を豊かにする道を選んだのです

彼は「理論(セオリー)と実践(プラクティス)の両輪」を掲げて東京農業大学(育英黌農業科)を創設しました。超多忙な大臣職にありながら、学生が校外実習に出る際には身分証明書を自らすべて手書きで発行するなど、次世代を育てる情熱に溢れていました。 電気学会を立ち上げ、富山県で発見された白萩隕鉄(隕石)から「流星刀」という日本刀を鍛造させるなど、生涯を通じて尽きることのない好奇心とロマンを持ち続けた榎本武揚。

決して変節したわけではありません。1902年(明治35年)、かつての主君である徳川慶喜が公爵になった祝宴が開かれた際、旧幕臣たちと一緒に写真を撮ろうと誘われた榎本は、「主君と一緒の写真に収まるなど失礼なことはできない」と固辞しています。彼の中には、最後まで幕臣としての静かな誇りが息づいていたのです。

明治41年(1908年)、73歳でこの世を去るまで、彼は誰よりも「未来の日本」を愛し、科学し続けた真の万能人だったのです。

Information

榎本武揚を深く知る「この一冊!」

佐々木譲、畢生の歴史巨篇、堂々の文庫化

本のご紹介

武揚伝 – 決定版(上) (中公文庫 さ 45-11) / 佐々木 譲 (著)

文庫 – 2017/11/22

武揚伝 – 決定版(中) (中公文庫 さ 45-12) / 佐々木 譲 (著)

文庫 – 2017/11/22

武揚伝 – 決定版(下) (中公文庫 さ 45-13) / 佐々木 譲 (著)

文庫 – 2017/11/22

黒船来航に沸く幕末から、オランダ留学、五稜郭の死闘、そして明治政府での活躍まで、榎本武揚の全生涯をダイナミックに描いた歴史巨編。国際法というルールに驚愕し、近代国家の礎を築こうと奔走した彼の「知とロマン」が圧倒的な筆致で蘇ります

📍【完全網羅版】榎本武揚の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

榎本が切り拓いた北海道から、晩年を過ごした東京まで、彼の足跡は全国に数多く残されています。

【北海道・箱館(函館)エリア:蝦夷共和国の舞台】

  • 特別史跡 五稜郭跡(北海道函館市五稜郭町44):
    • 彼が総裁として率いた「蝦夷共和国」の本拠地であり、箱館戦争最後の舞台です。
  • 碧血碑(へっけつひ)(北海道函館市谷地頭町):
    • 箱館戦争で戦死した土方歳三ら旧幕府軍約800名を祀る慰霊碑。逆賊として放置されていた遺体を見かね、のちに榎本武揚や大鳥圭介らが資金を拠出して建立しました。この土地は明治15年に榎本が自ら買い取って守り、のちの昭和31年に榎本家から函館市へ寄付されました。
  • 梁川(やながわ)公園 / 梁川町・榎本町(北海道函館市梁川町24-2):
    • 榎本の雅号「梁川(りょうせん)」や名前に由来する地名。公園内には2012年12月に建立された、若き日の姿をモデルにした「榎本武揚之像」があります。
  • 亀田八幡宮 / 咬菜園(こうさいえん)跡(北海道函館市):
    • 黒田清隆との降伏会見の場となった場所や、旧幕府軍の武士たちが清遊した跡地です。

【北海道・道央道南エリア:開拓使としての功績】

  • 榎本軍鷲ノ木上陸地跡 / 森桟橋跡(北海道茅部郡森町鷲ノ木町):
    • 国道5号から海側へ下りた場所にある、旧幕府軍2500〜3000名の上陸地点(木柱あり)。近隣の「森桟橋」は明治6年に榎本が建築に助言したものです。
  • 龍宮神社(北海道小樽市稲穂3-22-11):
    • 明治9年、榎本が移民の安寧を図り、遠祖である桓武天皇を合祀して建立した神社。社殿には彼の直筆「北海鎮護」の額や肖像画が飾られ、境内には銅像(2009年建立)があります。また、彼が刀工・岡吉国宗に作らせた「流星刀」のうちの短刀1振りが、2017年にひ孫の榎本隆充氏より奉納され社宝となっています(非公開)。
  • 小樽都通り・梁川通り・旧国鉄手宮線(北海道小樽市):
    • 榎本が北垣国道とともに小樽の土地約20万坪を購入し「北辰社」を設立して開発したエリア。都通り商店街には今も榎本をシンボルとした掲示があります。また、北海道初の鉄道(旧国鉄手宮線)のルートにおいて、小樽港への敷設を強力に推し進めたのも彼でした。
  • 手宮洞窟保存館(北海道小樽市手宮1-3-4):
    • 山内堤雲とともに古代の陰刻画(彫刻)を模写・発掘し、東京帝大へ第一報告者として報告した貴重な遺跡です。
  • 小樽市総合博物館本館(北海道小樽市手宮1-3-6):
    • 彼が敷設を推した手宮線の延長線上にあり、北海道最初の機関車の兄弟車両「アイアンホース号」や「しづか号」を見ることができます。
  • 小樽商科大学(北海道小樽市緑3-5-21):
    • 第五高等商業学校として開校誘致運動が起こった際、榎本武揚も密かに建設費を出資して設立に貢献していました(開校前の1908年に没したため完成は見届けていません)。
  • 榎本公園(北海道江別市工栄町12):
    • 石狩川沿いに対雁(ついしかり)の土地の払い下げを受け、彼が開いた「榎本農場」の跡地。道産子(北海道の農耕馬)に跨るため馬が少し小さめに見える榎本の騎馬像(佐藤忠良制作・昭和45年)が建っています。

【東京・その他のエリア:晩年の安らぎと永眠の地】

  • 梅若公園の榎本武揚像(東京都墨田区堤通2-6-10):
    • 彼が晩年を過ごした向島(墨東)エリアにある公園。大正2年(1913年)に江原素六、大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一ら政財界26名の協力で建立された、彫刻家・藤田文蔵作の高さ3mの大礼服姿の銅像です。太平洋戦争中、金属供出から守るため地元民が畑に埋め隠したという熱い逸話があります。
  • 榎本武揚旧居跡(東京都墨田区向島5-12):
    • 明治38年から亡くなる同41年まで過ごした晩年の居宅跡。当時はここから馬に乗り、墨堤を散歩する榎本の姿がよく見られました(現在は言問小学校西側の道を北上した左角のマンション前に案内板があります)。
  • 向島百花園(東京都墨田区東向島3-18-3):
    • 彼が朝夕の散歩で愛した庭園。其角堂永機の句碑を見て「朧夜や誰れを主と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直した逸話が残ります。
  • 吉祥寺(榎本武揚 墓所)(東京都文京区本駒込3-19-17):
    • 73歳の生涯を閉じた彼の遺骨が眠る曹洞宗の寺院。山門をくぐって左手の奥に、榎本家の家紋(梅鉢紋)が刻まれた榎本武揚の墓(右側の高い方)と妻・たつの墓が並んでいます。(※榎本一族の墓は台東区橋場の保元寺にありますが、彼自身の墓所はこちらの吉祥寺です)。
  • 東京農業大学(東京都世田谷区桜丘1-1-1 / 北海道オホーツクキャンパス):
    • 「理論と実践(実学)」を掲げて彼が創設した育英黌農業科を前身とする大学。両キャンパスには彼の胸像・銅像が建ち、図書館には皇室に献上されたものと対になる長刀の「流星刀」が所蔵されています。
  • 富山市科学博物館(富山県富山市西中野町1-8-31):
    • 彼が刀工・岡吉国宗に作らせた短刀の「流星刀」のうちの1振りが収蔵・展示されています(残る1振りは戦時中に行方不明)。
  • 郵政博物館(東京都墨田区押上1-1-2 東京スカイツリータウン・ソラマチ9F):
    • 榎本がフランスから持ち帰り、箱館戦争で行方不明になったのち、偶然にも電気学会会長時代に再会を果たした「ディニエ電信機」が収蔵されています。
  • 毛利屋理兵衛宅の柱(宮城県石巻市):
    • 仙台から脱出する際、物資調達を頼んだ豪商の家。土方歳三が憤慨して付けた刀傷のある柱が保管されています。
  • 清見寺(静岡県静岡市清水区興津清見寺町):
    • 榎本が清水次郎長とともに咸臨丸の慰霊碑を建てた場所。福沢諭吉がこれを見て激怒し『痩我慢の説』を書くきっかけとなりました。
  • 粒坐天照神社(りゅうざあまてらすじんじゃ)の神力紀功之碑(兵庫県たつの市龍野町日山472):
    • 農商務大臣時代の榎本武揚が揮毫した、神力米を称える記念碑が残されています。

💬榎本武揚の遺産:現代社会へのメッセージ

「意地やメンツに固執せず、昨日までの敵と手を取り合ってでも『未来』を創れ」

榎本武揚の生涯は、現代人に「柔軟な合理主義の強さ」を教えてくれます。 もし彼が福沢諭吉の言うように「武士の美学」にこだわって五稜郭で切腹していれば、彼は美しい悲劇の英雄として称賛されたかもしれません。しかし、それでは小樽の発展も、東京農業大学も、ロシアとの平和的な国境画定も生まれませんでした。

「変節者」「裏切り者」と後ろ指を指されても、自分の知識や技術が社会の役に立つなら、泥をかぶってでも生き抜き、昨日までの敵(新政府)の中で泥臭く働く。 周囲からの評価やプライド(痩我慢)に縛られて身動きが取れなくなることが多い現代において、榎本武揚のように「本当に成し遂げたい目的(国を豊かにすること)」のために柔軟に自分を変えていくタフな精神力こそが、最も必要とされているのではないでしょうか。

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