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大分県の偉人:福沢諭吉 — 「独立自尊」を説き、近代日本の扉を開いた啓蒙思想家

プロフィール

福澤諭吉・福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)
1835(天保5)年1月10日生│1901(明治34)年2月3日没(66歳)
「学問のすゝめ」「慶應義塾・創設者」

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

このあまりにも有名な言葉を残し、一万円札の顔としても親しまれた福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)。彼は、幕末から明治という激動の時代に、学問の力で身分制度の壁を突き崩し、日本を近代国家へと導いた大教育家であり、啓蒙思想家です。

豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の家にルーツを持つ彼は、西洋の進んだ文明を日本に紹介するだけでなく、「人間はいかに生きるべきか」という精神的支柱を私たちに残してくれました。

門閥制度への反発と、猛烈な勉学の日々

福沢諭吉は、1835年(天保5年)、大坂の中津藩蔵屋敷で生まれました。幼くして父を亡くし、母と共に故郷の中津(大分県)へ戻りますが、当時の藩には厳格な身分制度(門閥制度)がありました。

「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」。 

後にそう語ったように、能力があっても家柄で将来が決まってしまう封建社会に、少年時代の諭吉は強い憤りを感じていました。その反骨心が、彼を学問の世界へと駆り立てます。

📌 蘭学から英学へ、そして「適塾」の塾頭に

19歳で長崎へ遊学して蘭学(オランダ語)を学ぶと、その後、大坂にある緒方洪庵の「適塾」に入門します。ここでの勉強ぶりは凄まじく、枕をして寝たことがないと言われるほど没頭し、ついには塾生を束ねる塾頭にまで上り詰めました。

しかし、23歳で江戸に出て横浜を訪れた際、彼は衝撃を受けます。そこでは苦労して学んだオランダ語が全く通じず、英語が使われていたのです。「これからは英語の時代だ」と悟った諭吉は、辞書を片手に独学で英語の習得を開始しました。この柔軟な転換力こそが、彼を時代の先駆者にしたのです。

世界を目撃し、日本の「文明開化」を牽引

1860年(万延元年)、諭吉に大きな転機が訪れます。幕府の遣米使節団の従者として、軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」に乗り込み、アメリカへ渡ったのです。

📌 カルチャーショックと『西洋事情』

サンフランシスコで彼が目にしたのは、身分に関係なく実力で活躍する人々の姿や、進んだ科学技術、そして郵便や銀行、選挙といった社会システムでした。その後もヨーロッパなどを視察し、これらの体験をまとめた著書『西洋事情』は、当時の日本人に衝撃を与え、ベストセラーとなりました。

彼は「Liberty」を「自由」、「Society」を「社会」、「Speech」を「演説」と訳すなど、新しい概念を日本語に置き換え、日本人の意識を根本から変えていきました。

慶應義塾の創設と『学問のすゝめ』

明治維新後、新政府からの出仕の誘いを断り、諭吉は教育と言論の道を選びます。

📌 慶應義塾の創設

1868年(慶応4年)、江戸の蘭学塾を「慶應義塾」と名付けました。「義塾」とは、英国のパブリックスクールに倣ったもので、身分に関係なく志ある者が学ぶ場を意味します。これが現在の慶應義塾大学の礎となりました。

📌 340万部の大ベストセラー『学問のすゝめ』

1872年(明治5年)、「天は人の上に人を造らず…」で始まる『学問のすゝめ』を発表。 この言葉の真意は、「人は生まれながらに平等だが、現実には賢愚・貧富の差がある。それは学ぶか学ばざるかによって決まる」というものでした。つまり、学問こそが個人の独立、ひいては国家の独立につながると説いたのです。

「独立自尊」の精神と多岐にわたる功績

諭吉の活動は教育だけに留まりませんでした。

  • 『時事新報』の創刊:不偏不党の立場から、国民に広く国際情勢や社会のあり方を伝えました。
  • 医学への貢献:北里柴三郎の才能を見抜き、伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)や土筆ヶ岡養生園(北里大学の母体)の設立を私財を投じて支援しました。
  • 実業界への影響:簿記や保険制度を紹介し、多くの門下生を実業界へ送り出しました。

彼の生涯を貫いた信念は「独立自尊」。他人に頼らず、自分の力で考え行動し、自らの尊厳を守るというこの精神は、現代においても色褪せることのない指針です。

Information

福沢諭吉を深く知る「この一冊!」

自伝。幕末・維新の激動期の痛快無類の人生を、存分に語り尽くす

本のご紹介

福翁自伝 (講談社学術文庫 1982) / 土橋 俊一 (著), 福沢 諭吉 (著)

文庫 – 2010/2/10

晩年の諭吉が自身の波乱万丈な人生を語り下ろした自伝。中津での少年時代、適塾での悪童ぶり、海外でのカルチャーショックなどが、ユーモアたっぷりの語り口で綴られています。偉人・福沢諭吉を最も身近に、そして人間味豊かに感じられる最高の一冊です。

📍福沢諭吉ゆかりの地:独立自尊の足跡を辿る旅

諭吉の魂は、故郷の大分県中津市と、活躍の舞台となった東京、そして生誕の地である大阪に息づいています。

  • 福沢諭吉誕生地(大阪府大阪市福島区福島1-1・玉江橋北詰すぐ):中津藩蔵屋敷があった場所で、現在は堂島川のほとりに記念碑が建っています。天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。3度にわたる幕府の遣外使節に随行、明治の文明開化啓蒙思想家として活躍、慶応義塾を開設した
  • 福澤諭吉旧居・福澤記念館(大分県中津市留守居町586):福澤諭吉が1歳6ヶ月の時父が急死したため、1836(天保7)年秋に母子6人で大坂の中津藩蔵屋敷から藩地の中津に帰って来ました。最初に住んだ家は現存しませんが、宅跡として整備され見学することができます。その後移り住んだ家が、現在残されている福澤旧居です。福澤記念館は福澤諭吉の遺品・遺墨・書籍などの福澤諭吉関連の資料を展示しています。1階は時系列で福澤諭吉の一生をたどり、2階は福澤諭吉の様々な側面にスポットを当てています。福澤諭吉旧居の庭には胸像が建つ。福澤記念館ロビーにも胸像が建つ。
  • 福澤諭吉立像・学問のすすめ記念碑(JR中津駅北口駅前ロータリー・大分県中津市島田):大分県の中津商工会議所青年部が、中津市のJR中津駅北口に「学問のすすめ記念碑」を設置した。高さ約1メートルの台座に縦約60センチ、横約90センチの本の形をした石碑が載り、ハート形の穴からは駅前にある福沢諭吉の像を眺めることができる。
  • 慶応義塾発祥の地記念碑(東京都中央区明石町10先・三角地帯):安政5年(1858年)、福沢諭吉がオランダの学問を教えるため、この地に蘭学塾を開いたのが、のちの慶応義塾の始まりです。 当初は、5〜6名の塾生からスタートしましたが慶応4年(1868年)、芝に塾を移し、時の年号をとって、「慶応義塾」と名付けました。

この記念碑は義塾創立100年記念事業の一つとして、1958年に聖路加国際病院敷地内に建立。1982年に区の道路整備に伴い、従来の位置から病院前の交差点ロータリーに移転された。谷口吉郎設計による記念碑は、黒御影石の台座に花崗岩製の書籍の形をしたオブジェが置かれ、表面には『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字形で「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」と刻まれている。なお、同じ中屋敷内で藩医の前野良澤らが『解体新書』を翻訳した事績により「日本洋学発祥の地記念碑」も隣接して建立されており、2基を合わせて「日本近代文化事始の地記念碑」と称されている。

  • 福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館(東京都港区三田2−15−45 ・慶應義塾三田キャンパス内慶應義塾図書館旧館2階):福澤諭吉記念慶應義塾史展示館では、福澤諭吉の生涯と慶應義塾の歴史を、数多くの貴重な「実物」と当時の「言葉」でたどります。ここで展示される内容は、決して一私立学校の内輪の歴史ではなく、近代日本の格闘そのものといっても過言ではありません。それは決して平坦ではなく、挫折に満ちたものともいえます。福澤諭吉・慶應義塾の歩みを知ることは、日本の近代を多面的・立体的に見つめ直す視座を与えてくれるはずです。館内は、「一筆書き」の線が、来場者を先へと誘います。この線のつながりは、日本が西洋から受容した実証的・合理的な学問としての洋学の流れとその継承を象徴しています。慶應義塾三田キャンパスの重要文化財である、図書館旧館の2Fに展示室を設け、あらゆる人々が福澤諭吉と慶應義塾の歴史に触れることのできる展示館を目指しています。展示館は常設展示のほか、企画展示室もあり、年に数回、特別展も開催する予定です。日本の智の歴史をたどり、さあ、さらにその向こうへ。
  • 福澤諭吉像・三田キャンパス(東京都港区三田2−15−45):設置場所:図書館旧館正面玄関左側(昭和58年9月29日に移設)・受入年:昭和29年1月10日・製作者:柴田佳右(日展の無鑑査)・寄付者:福澤先生銅像建設会(背中に「独立自尊」1953年佳石謹作とある)・福澤先生の四女志立瀧子と北澤樂天氏が熱心に助言して作られた。・銅像除幕式は昭和28年5月22日の交殉社においておこなわれた。・第4回目の作 
  • 福澤諭吉像・日吉キャンパス(神奈川県横浜市港北区日吉4-1-1):設置場所:図書館正面・受入年:昭和60年5月18日・制作者:山名常人・寄付者:慶應義塾商工学校工業学校同窓会・学生たちの待ち合わせ場所(「ゆきちまえ」)として知られている。
  • 福澤諭吉像・湘南藤沢キャンパス(神奈川県藤沢市遠藤5322):設置場所:メディアセンターと研究・教室棟の間・受入年:平成3年10月・制作者:1985年 山名常人・寄付者:慶應義塾商工学校同窓会、工業学校卒業生、中等部特別第1回・第2回卒業生含む。
  • 福澤諭吉像・信濃町キャンパス(東京都新宿区信濃町35):設置場所:大学病院中央棟玄関ロビー・受入年:昭和50年4月27日・制作者:柴田佳石・寄付者:医学部第3回同級会(大正14年)卒業記念品として寄贈される
  • 福澤諭吉像・志木高校(埼玉県志木市本町4-14-1):設置場所:正門から斜路を上がり、校舎内に入ってすぐのところ・受入年:志木高校への移設は昭和44年6月。前述の第1回の作であり、明治26年10月22日に披露された。当初は三田・煉瓦講堂の2階に設置されたが、明治28年以降は福澤自宅の土蔵内に保存されていた。・制作者:大熊氏広・教室への通り道にあり、昔は一礼してから授業に向かう生徒も多かったとか。
  • 福澤近藤 両翁学塾跡(東京都港区浜松町1-13-1):1868(慶応4)年、中津藩中屋敷の場所が幕府の方針で外国人居留地となったため、福澤は私財を投げ打ち芝新銭座(現・港区浜松町)の越前丸岡藩中屋敷の一部を買い取って、約4年間塾舎とした。慶應義塾が三田に移転後、ここに、近藤真琴が創立した攻玉社が移転してきたため、現在、跡地には2人の学塾創立者を顕彰する記念碑が建っている。
  • 京都慶応義塾跡碑(京都市上京区下立売通釜座上る・京都府庁内):京都慶應義塾は、東京の慶應義塾の分校として、明治7(1874)年2月、福沢諭吉(1835〜1901)により開校された。福沢と親交のあった京都府参事槇村正直(1834〜96)の斡旋によって、この地にあった京都府中学校の一部を借りて建設された。英学や算術などを教えたが、同年9月廃校となる。この石標はその塾跡を示すものである

記念碑は1932年に京都慶應倶楽部によって建立。花崗岩製の石碑の表面には福澤の筆跡による「独立自尊」の文字と建立当時の塾長だった林毅陸(はやしきろく)の揮毫(きごう)による「明治七年 京都慶應義塾跡」が刻まれた。京都府庁の門を入って左側、守衛所の奥まった場所にある。

  • 大阪慶應義塾跡記念碑(大阪府大阪市中央区北浜2丁目5-23・小寺プラザビル):明治初期、慶應義塾は地方の学生が就学しやすいようにとの配慮から西日本に3つの分校を設置した。その第1号となったのが「大阪慶應義塾」だ。1873(明治6)年11月に「南大組第六区安堂寺橋通三丁目第百九十二番屋敷丸家善蔵扣家」に開校し、翌年に北浜町2丁目にあった小寺篤兵衛の家に移転したと伝えられる。1875(同8)年6月に閉鎖されるまでの2年ほどの期間ではあったが、大阪慶應義塾では英書科75名、訳書科11名の計86名の学生を輩出している。記念碑は2009年に小寺篤兵衛屋敷跡(大阪市中央区北浜2丁目)に土地所有者のご厚意を得て建立された(設計:日建設計)。陶器質(白色施釉)の塔の表面には福澤の筆跡で「独立自尊」と刻まれている。
  • 徳島慶應義塾跡記念碑(徳島県徳島市幸町1・徳島県庁内):徳島慶應義塾は、徳島の有力者たちの要望と援助により、1875(明治8)年6月に閉鎖された大阪慶應義塾を引き継ぐ形で、同年7月に開校し、翌76年11月まで存続した。徳島慶應義塾の正確な所在地はよくわかっていない。当時の設立願に書かれた地名から旧藩主の蜂須賀家「東御殿」があったホテル敷地内と推定され、2001年4月に徳島慶應倶楽部が中心となり、黒御影石製のスパイラル型モニュメントとステンレス製の銘板による記念碑が建立された。銘板に彫られた「独立自尊」は福澤の筆跡だ。その後、土地所有者の変更があり、2009年に県庁内に移設されている。
  • 福澤先生留学址(長崎県長崎市古町33):中津藩出身の福澤先生は、1854(安政元)年2月、西洋の学問を学ぶために長崎を訪れました。そのときに3カ月ほど寄宿したのが光永寺です。門のそばに「福澤先生留学址」の碑があります。
  • 福澤先生使用之井(長崎県長崎市出来大工町):光永寺で過ごしたあと、砲術家の山本物次郎氏の家に9カ月ほど住み込みました。その際に使っていた井戸です。昭和12(1937)年5月に「福澤先生使用之井/安政五年」(慶應義塾長小泉信三筆)」との碑が建てられました
  • 福澤諭吉先生之像(長崎県長崎市炉粕町47):長崎市民から「おすわさん」として親しまれている諏訪神社の中門に近い祓戸神社に、福澤先生の像が立っています。1998(平成10)年1月に長崎三田会が建立しました。正面の字は元塾長の鳥居泰彦氏によるものです。
  • 福澤諭吉終焉之地記念碑・福澤諭吉邸跡地・福澤公園(東京都港区三田2−15−45 ・慶應義塾三田キャンパス内):豊前国中津藩下級士族の子として生まれ門閥の檻の中から飛び出したまたま蘭学を修業し洋学塾を開き米欧に遊び教育奉仕の一念に燃え西洋文明東道の主人となり封建的農業国家から統一的商工国家に移ろうとして多難な国の歩みを続けている新日本を指導した福沢諭吉はその多彩なる68年の生涯をこの地に終わる
  • 福沢諭吉永眠の碑・福澤諭吉胸像常光寺(東京都品川区上大崎1-10-30):諭吉は死去後、当初は本願寺に土葬で埋葬されたが、1977年(昭和52年)に善福寺に墓を移設された。本願寺は1910年(明治43年)、品川区上大崎に移転した(現在の常光寺)。慶応義塾がこの地に「福沢諭吉永眠の碑」を建立した。胸像は、慶応義塾大学図書館旧館正面入口の胸像の原型を復元したもの。
  • 福沢諭吉墓所・善福寺(東京都港区元麻布1):1901年(明治34年)2月3日、大学の敷地内の自邸で脳出血が原因で死去したといわれる。戒名は「大観院独立自尊居士」。明治34年2月8日に善福寺で葬儀が行なわれ、当初は本願寺(現常光寺)に土葬で埋葬されましたが、昭和52年に善福寺に墓を移設。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)が行なわれ、慶應義塾関係者などが参詣しています。

💬福沢諭吉の遺産:現代社会へのメッセージ

福沢諭吉の生涯は、私たちに「学ぶことの本当の意味」を問いかけ続けています。彼にとって学問とは、単に知識を詰め込むことではなく、「未知の事柄に直面したとき、自ら考え、解決する力を養うこと」でした。グローバル化が進み、正解のない問題が山積する現代において、「独立自尊」の精神と「実学」の重要性は、ますます輝きを増しています。一身独立して、一国独立す。 一人ひとりが賢くなり、自立することこそが、よい社会、よい国を作る。諭吉のこのメッセージは、今を生きる私たちへの力強いエールなのです。

©【歴史キング】

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