栃木県の偉人:蒲生君平 — 「前方後円墳」の名付け親、国難を憂えた寛政の三奇人
「蒲生君平は、誠に歴史に翻弄された人物といえる」
この言葉は、江戸時代後期の儒学者、蒲生君平(がもう くんぺい)の生涯を端的に表しています。
下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)の燈油商の家に生まれた彼は、独学と遊学を通じて儒学と国学を修め、林子平、高山彦九郎と並び「寛政の三奇人」の一人に数えられました。
彼の最大の功績は、荒廃した天皇陵を調査した『山陵志(さんりょうし)』を著し、その中で「前方後円墳」という名称を考案したことです。その思想と行動は、幕府に忌避されながらも、幕末・明治維新の尊王論に大きな影響を与え、その功績は後に明治天皇の勅命によって顕彰されました。
幼少期の聡明さと、武士の志
蒲生君平は、1768年(明和5年)、宇都宮新石町(現在の宇都宮市)の町人・福田又右衛門正栄の四男として生まれました。幼名は伊三郎。
彼の祖母から「祖先は会津藩主蒲生氏郷(がもう うじさと)公である」という家伝を聞かされた君平は、幼い頃から武士の魂に憧れを抱き、「立派な祖先に恥じない人になる」と決意します。彼は成長してから自ら姓を蒲生と改めました。
📌 延命院での修学と勤皇思想への傾倒
6歳の頃から、近所の延命院(えんめいいん)で住職の良快和尚のもとで読書、習字、四書五経の素読を学び、学問の基礎を築きました。
14歳で鹿沼の儒学者鈴木石橋(すずき せっきょう)の塾に入門。師・石橋は君平の奇行(橋が流された川を裸で渡るなど)にも寛大で、その才能を愛しました。この時期に『太平記』を愛読した君平は、楠木正成らの忠誠心に感化され、勤皇思想に傾斜していきます。
📌 奇人との交流と「海防論」
23歳で江戸へ上り、儒学者山本北山(やまもと ほくざん)に入門した君平は、当時すでに著名だった高山彦九郎、林子平といった「寛政の三奇人」の盟友たちと交友を持ちました。
- 林子平からの影響: 陸奥への旅の帰路、仙台で林子平を訪ねます。子平は、海防の重要性を説いた『海国兵談』で幕府から睨まれていましたが、君平は子平の対外危機意識と先見性に深く感銘を受けました。
- 尊王の情熱: 林子平の海防論と高山彦九郎の尊王精神を結びつけ、君平の思想は、外国の脅威に立ち向かうためには、天皇を中心とした国家の統一と尊厳の回復が不可欠であるという、勤皇の思想へと発展していきました。
『山陵志』と「前方後円墳」の名付け親
君平は、その強い勤皇の念から、荒廃していた天皇陵(御陵)の実態調査と修復の必要性を強く訴える活動に取り組みました。
📌 荒廃した御陵への嘆きと実地調査
寛政8年(1796年)から2度にわたり、君平は私財を投じて京都へ赴き、荒廃した歴代天皇の御陵(みささぎ)を徹底的に踏査する旅に出ました。
- 実証的研究: 歌人小沢蘆庵(おざわ ろあん)の邸宅を拠点に、河内、大和、和泉の歴代天皇陵を実際に歩き、実地調査と古典の研究に基づいた『山陵志(さんりょうし)』の編纂に取り組みました。
- 「前方後円墳」の誕生: この調査の成果をまとめた『山陵志』の中で、君平は、当時の「車塚」などと呼ばれていた古墳の形状を、「前方後円」と表記しました。これが、現在まで続く考古学の専門用語「前方後円墳」の名称の起源となりました。
📌 『山陵志』の献上と、幕府の警戒
君平は、享和元年(1801年)に『山陵志』を完成させ、幕府に献上。荒廃した陵墓を修復する事業の必要性を訴えましたが、その強い尊王思想は、幕府の警戒心を呼び起こしました。
その後も、国防論を説いた『不恤緯(ふじゅつい)』を著して幕府に献上するなど、時事問題への積極的な関与を続けましたが、これが「幕政に容喙(ようかい)する」行為と見なされ、幕府から閑居(かんきょ)を命じられます。
悲劇的な最期と、宇都宮藩の救済
君平は、文筆活動と、学塾「静修庵(せいしゅうあん)」での子弟の教育に生涯を捧げましたが、その晩年は、病と貧困に苦しみました。
📌 志半ばの死と、死後の顕彰
文化10年(1813年)、君平は病に伏し、46歳の若さで江戸で病没しました。彼の遺骸は、東京谷中の臨江寺に葬られましたが、その志は、水戸学の藤田幽谷(ふじた ゆうこく)ら、多くの同志に受け継がれました。
- 勅旌(ちょくせい)の碑: 君平の死後、幕末の動乱期に、彼の『山陵志』が宇都宮藩の藩難を救うことになります。明治2年(1869年)、明治天皇は君平の偉業を追賞し、「蒲生君平勅旌の碑」を宇都宮に建てさせました。これは、彼の功績が国家レベルで認められたことを意味します。
- 蒲生神社: 宇都宮市では、蒲生君平を祭神として祀る蒲生神社が創建され、今もなお、彼の精神を伝えています。
📍蒲生君平ゆかりの地:尊王の足跡を辿る旅
蒲生君平の足跡は、彼の故郷である宇都宮市を中心に、修学の地、そして最期の地である東京へと繋がっています。
- 蒲生君平誕生地(栃木県宇都宮市小幡1丁目):生家の福田家は、今では跡形もないが、昭和5年(1930年)に『蒲生君平先生誕生之地』と刻まれた石柱が建立された。現在は小野瀬ビル裏手に移築されている。
- 蒲生君平修学の寺・延命院(宇都宮市泉町4-30):安永2年(1773年)、6歳になった君平は、近所の泉町にある延命院で、住職の良快和尚から読書習字の手ほどきを受け、また儒教の基本経典である四書五経の素読を教えられ、これがその後の長い学問人生のスタートラインとなった。
- 蒲生神社(栃木県宇都宮市塙田5-1-19):君平を祭神として祀る神社。大正元年(1912年)の没後九十九年祭の際に神社創建の話が起こり、大正15年(1926年)7月に蒲生神社本殿が竣工された。毎年7月5日には蒲生神社例大祭が厳粛に行なわれ、毎月5日には月次祭が行なわれている。
- 御贈位記念碑(二荒山神社西参道北側・栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1):君平没後68年目の明治14年(1881年)国より正四位の位階が追贈、これを記念した碑『贈正四位蒲生君平碑』がある。篆額が大勲位有栖川熾位親王の御染筆で、選文は文学博士重野安繹、書は元老院議官巌谷修氏。
- 勅旌の碑(栃木県宇都宮市花房町3丁目):明治天皇の勅命により建てられた顕彰碑です。明治2年(1869年)12月、明治天皇は『君平の人となりや行いがまことに立派であるから、これを広く郷里に表わし庶民に知らせるように』と勅命を下し、それを受けて宇都宮藩知事戸田志友が碑を建てた。これが、現在花房町3丁目道路東側にある「勅旌碑」で、屋根の下に建立されている。碑は宇都宮市の文化財に指定。
- 蒲生君平坐像(宇都宮市立東小学校・栃木県宇都宮市東塙田1-6-14):東小学校校庭正門左側にある蒲生君平座像は、昭和15年(1940年)に皇紀2600年を記念して建てられた。石を五段に積みその上に上下姿の坐像が、児童たちを見守っている。
- 街角広場(栃木県宇都宮市小幡):「前方後円」墳の名付け親である蒲生君平の偉業をたたえ、その前方後円墳をモチーフにした公園。宇都宮地方裁判所の道路を挟んだ南側に南側に位置し、四季を通じて地域の憩いの場となっている。
- 蒲生君平先生仮寓御趾(京都市左京区岡崎):寛政8(1796年)初上洛し,天皇陵を調査、その後,水戸へ赴くが,同12年再び入洛して調査をすすめ『山陵誌』を完成させた。この石標は、君平が仮寓した蘆庵邸跡を示すもので、京都滞在中に仮寓していた小沢蘆庵(1723〜1801)邸の跡地。
- 蒲生君平墓所・龍興山臨江寺(東京都台東区谷中1-4-13):臨江寺ノ管理ニ属スル東京市有墓地ニアリ 蒲生君平文化十年七月五■江戸ニ歿スルヤ友人等葬祭ノ禮ヲ営ミ此ノ地ニ葬レリ墓石ハ高サ約三尺五寸、正面上部ニ沢田東里筆ノ「蒲生君減墓表」ト題スル篆額アリ又四面ニ亙リテ文政元年八月藤田幽谷ノ撰ニ係ル墓表ヲ刻セリ 亦東里ノ筆ト認メラル 尚本寺門前ニ字都宮藩知事戸田忠友ノ建立ニカヽル「勅忠節蒲生君平墓」ノ碑アリ
- 蒲生君平墓所・松峰山桂林寺(栃木県宇都宮市清住町1-3-37):文化10年(1813年)に没した君平は、友人知己により東京谷中の龍興山臨江寺に手厚く葬られた。明治14年(1881年)の贈位により「宇都宮に里帰りを」とする有志の運動によって、宇都宮市清住の桂林寺にあった蒲生家墓所に、遺髪が葬られた。墓石は現在は松の木の下に建てられ、その左には子孫による『贈正四位修静院殿文山義章大居士』の碑がある。
💬蒲生君平の遺産:現代社会へのメッセージ
蒲生君平の生涯は、私たちに「自己の使命を貫く信念」の重要性を教えてくれます。彼は、町人という身分や、幕府の弾圧に屈することなく、日本の尊厳と歴史、そして未来を憂い、自らの研究と著作を通じて世に訴え続けました。
彼の『山陵志』に込められた、歴史的遺産を尊重し、国家の精神的な基盤を回復することの大切さは、現代社会が直面する文化財の保全や、ナショナル・アイデンティティの再構築という課題に、深い示唆を与えています。
蒲生君平の物語は、一人の学者が、その勇気と知恵によって、時代の暗雲に立ち向かい、「前方後円墳」という不朽の言葉と共に、日本の歴史と精神を未来へと繋いだことを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、自己の使命に忠実に向き合い、真の愛国心とは何かを、力強く語りかけているのです。
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