
北海道の「父」たち part.8
🔵北海道航空界のパイオニア
上出松太郎──北海道民間航空の父
北海道で民間の立場で航空界に多大な足跡を残した人物が、函館出身の上出松太郎(かみで まつたろう・1899〜1990)です。
1925年(大正14)、北海道初の民間飛行場である「音更飛行場」が音更町に開設されると、翌年、海軍航空隊から請われて上出がやって来ました。彼は各地で連続曲芸飛行や超低空飛行など、数々の伝説的な飛行を披露しましたが、当初は無資格の操縦士だったと言われています。「音更飛行場」が破綻すると、今度は北海タイムス社に入社し、ここでも次々と伝説的飛行を重ねていきました。
北海道の初期の航空関係者のほとんどが、上出に育てられたと言われるほど、彼は後進の育成にも尽力しました。北海道航空界のパイオニアとして、上出は「北海道民間航空の父」と称されています。
🔵北海道教育界の「父」
佐藤昌介──北海道大学の父
北海道の教育界に大きな足跡を残したのが、陸奥国(現岩手県)出身の佐藤昌介(さとう しょうすけ・1859〜1939)です。
大学南校、東京英語学校で学んだ後、札幌農学校に入学し、クラーク博士から直接指導を受けた数少ない第一期生となります。卒業後は開拓使勤務を経てアメリカへ渡り、農業技術やジョンズホプキンス大学で学びました。帰国後、母校札幌農学校の教授となり、以後50年間、札幌農学校、東北帝国大学農科大学、そして北海道帝国大学の教授・学長・総長として教育に専念しました。1930年(昭和5)に後進に道を譲るまでの13年間は、北海道大学の初代総長を務め、大学の発展に尽力しています。クラーク博士の“Be gentleman”(紳士たれ)という教育理念を強く受け継ぎ、自由で自主的な人間の育成に生涯を捧げました。
実は、札幌農学校時代には再三の廃校の危機に瀕していました。その都度、昌介は精力的な働きかけによって危機を脱していきます。留学から帰国直後の存続危機の際は北海道庁長官の岩村通俊に、農学校校長時代の存続危機に際しては、内務大臣の井上馨に、それぞれ北海道開拓における農学校の存在意義と価値を熱心に説得し、廃校の決定を覆しました。さらには、農学校の帝国大学への昇格にも尽力しています。1899年(明治32)には新渡戸稲造らとともに日本初の農学博士の称号を授与されました。
昌介は、クラーク博士の「本校はひとり北海道の住民のみならず、広く全国民より尊敬と支持を受ける、価値あるものとなることを信じます」という言葉を確信し、北海道大学の基礎を築いたのです。彼の生涯は、札幌農学校および北海道大学の歴史そのものであり、ここに佐藤昌介が「北海道大学の父」と呼ばれる所以があります。1939年(昭和14)に84年の生涯を閉じると、彼の葬儀は、彼が一生を捧げた北海道大学で大学葬として執り行われました。北海道内外からの参列は空前のもので、葬儀を飾る生花は札幌の花屋だけでは足りず、航空便で東京から取り寄せるほどだったといいます。