北海道の「父」たち part.9
社会福祉の「父」たち
🔵佐藤在寛──北海道盲聾唖教育の父
北海道の盲聾唖教育の先駆者として「北海道盲聾唖教育の父」と称されているのが、徳島県出身の佐藤在寛(さとう ざいかん・1876~1956)です。
師範学校を卒業して教師となった後、上京して哲学館(現東洋大学)で哲学を学び、教育雑誌を発行しました。キリスト教に開眼した在寛は、教育者の新井奥邃(あらい おうすい)に師事し、教育に高い理想を掲げました。1905年(明治38)に上野で女学校を創設しますが、経営に干渉する者が現れたため退職し、新しい教育の理想を新天地北海道に求め函館に移住します。
函館で嘱託や講師を務めた後、函館毎日新聞社に入社し、教育時評などで注目を集めました。その後、財政難で廃校寸前だった函館盲亜院の院長就任を、給料が払えないという悪条件にもかかわらず受諾します。この時、立待岬の一角に「大義滅私親(たいぎししんをめっす)」(人の踏み行うべき大切な道は、己を捨てて社会のために奉仕すること)と刻んだ石碑を建てました。高い教育理念と高潔な人柄で、盲亜院の経営を見事に建て直します。
昭和初期、日本の聾教育界で手話を一切認めない口話法が普及し始めますが、在寛は手話にこだわり続け、論文を発表して手話と口話、生徒の特性に合わせた教育が実施される流れを作りました。多くの教育関係者が集まる修善会や講演会で北海道の教育界に多大な影響を与えた在寛は、「北海道のペスタロッチ」とも呼ばれ、今なお偲ばれ続けています。
🔵本間一夫──点字図書館の父
増毛町出身の本間一夫(ほんま かずお・1915~2003)は、5歳で失明しましたが、函館盲亜院、関西学院大学に学び、1940年(昭和15)に東京で蔵書700冊をもって日本盲人図書館(現日本点字図書館)を創立しました。戦時中も図書館事業を継続し、点字図書と録音図書の製作と貸出に取り組み、日本最大の点字図書館へと発展させました。本間は「点字図書館の父」と称されています。
北海道文学の「父」たち
🔵有島武郎──北海道文学の父
白樺派を代表する小説家として知られる有島武郎(ありしま たけお・1878~1923)は、北海道の文学に欠かせない存在感を示し、「北海道文学の父」と呼ばれています。
東京生まれですが、学習院卒業後に札幌農学校に入学し、内村鑑三や新渡戸稲造の影響でキリスト教に入信します。アメリカ留学とヨーロッパ巡歴を経て帰国後、東北帝国大学農科大学となった母校の英語教師を務めました。志賀直哉や武者小路実篤らとともに白樺派の創立に参画し、1916年(大正5)に妻と父を亡くした後に本格的な作家活動に入りました。キリスト教への懐疑と社会主義への関心から、狩太村(現ニセコ町)の有島農場を小作人へ解放したことは、その思想的実践と考えられています。
代表作には『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『或る女』などがあります。『カインの末裔』は、北海道の荒野で生きる農民・仁右衛門を主人公とし、神に見放された人間の苦悩を描いた作品です。最晩年は虚無的となり、人妻の婦人記者波多野秋子と軽井沢で心中しました。
🔵岡本一平──現代漫画の父
函館出身の岡本一平(おかもと いっぺい・1886~1948)は、東京美術学校(現東京芸術大学)で学び、帝国劇場の舞台美術に従事した後、友人からの依頼で描いた挿絵をきっかけに東京朝日新聞社に入社し、漫画を描くことになります。
漫画に文章を付けるというユニークな「漫画漫文」形式が評判となり、夏目漱石なども激賞しました。やがてこの形式は、映画的な描法を取り入れた「漫画小説」へと発展し、長編ストーリー漫画『人の一生』を生み出しました。一平塾を主宰し、近藤日出造、杉浦幸雄ら、次代を担う有能な弟子たちを輩出します。漫画領域を広げ、今日のコミックの一源流ともなった長編ストーリー漫画を生み出して漫画界を革新した一平は「現代漫画の父」と称されています。妻のかの子は小説家、子の太郎は画家として著名な芸術一家です。
北海道芸術界の「父」たち
🔵金子鷗亭──近代詩文書の父
近代詩文書を提唱し、戦後の日本書道界をリードした書の巨匠、金子鷗亭(かねこ おうてい・1906~2001)は、松前町の出身です。札幌鉄道教習所に入学後、大塚鶴洞(おおつか かくどう)に書を学びます。その後、函館師範学校を卒業し札幌の小学校に赴任した際、「現代書道の父」比田井天来と出会い、天来に師事するため上京します。
天来の指導のもとで古典を研究する中で、「古典は当時の言葉で書かれているが、今の書の世界はどうだろう」という疑問から、現在使われている口語文や文章を書作品とする「近代詩文書」を提唱するに至りました。これは、鑑賞者が読むこと・理解することが難しくなっていた当時の書道界に、大きな革新をもたらすものでした。1936年(昭和11)に刊行した『書之理論及指導法』にこの研究を集大成しました。
戦後は、毎日書道展の開催に尽力し、門人たちと随鷗社(ずいおうしゃ)を結成、さらに社団法人創玄書道会を設立し、日本最大の書道団体へと導きました。わかりやすく親しみやすい「近代詩文書」は次第に大衆に受け入れられるようになり、鷗亭は「近代詩文書の父」と呼ばれています。
🔵今井篁山──北海民謡の父
昭和の北海道民謡界に君臨し、特に追分民謡で活躍し、「北海民謡の父」と呼ばれた民謡歌手が今井篁山(いまい こうざん・1902~1983)です。
岩手県出身で6歳の頃一家で砂川に移住し、16歳で松前追分節研究会「長寿会」に入門しました。北海道の民謡界で頭角を現し、日本民謡の普及発展に精力的に活動します。1940年(昭和15)に『北海盆唄』のもととなる『べっちょ踊り』の歌詞を変えて『北海炭坑節』として発表。これが後に三橋美智也によって『北海盆唄』としてレコード化され、道民の間に広く普及しました。
篁山は、『北海タント節』や『北洋節』など、民謡を管弦楽の伴奏で唄った最初の民謡家であり、オーケストラをバックに追分を唄うなど、伝統に新しい息吹を吹き込みました。型破りな強烈な個性を持つ彼は、埋もれた俚謡(りよう)などを発掘・改作・編曲し、北海道の風土の中で生かすように、北海道民謡として広く普及することに生涯を捧げました。
🔵大野一雄──舞踏の父
函館に生まれ、舞踏界に大きな影響を与えたのが「舞踏の父」と呼ばれる大野一雄(おおの かずお・1906~2010)です。
女学校で教職を務めながらモダンダンスを学び、「日本のモダンダンスの父」江口隆哉らに師事し、1960年代に「暗黒舞踏の父」土方巽(ひじかた たつみ)と協力して「舞踏」というジャンルを創り上げました。青年時代に出会ったスペイン舞踏の舞姫、ラ・アルヘンチーナをたたえる独舞踏『ラ・アルヘンチーナ頌』を発表し、高い評価を受けました。74歳でナンシー国際演劇祭にて公演を行い、世界の舞踏界に衝撃を与えます。100歳を超えても舞台に立ち続けた大野は、その芸術が世界中の文学や音楽などにも影響を与えた、“劇薬のダンサー”でした。
🔵大場一刀──北海道太鼓の父
「北海道太鼓の父」と呼ばれる和太鼓奏者で、栗沢町(現岩見沢市)出身の大場一刀(おおば いっとう・1933~1997)は、30歳のときに和太鼓に出会い、寝食を忘れて稽古に励みました。その姿を慕う若者たちと「大場一刀と北海グループ」を結成します。北海道の自然や風土をテーマにした曲を創作し、太鼓のみで表現するというスタイルを貫き、道内各地を精力的に回り、北海太鼓の普及に努めました。一刀の演奏は、北海道内のみならず全国で受け継がれています。


