山口県の偉人:伊藤博文 — 明治国家の礎を築いた「立憲政治の父」、初代内閣総理大臣の現実主義
「憲法あっての国である。憲法は決して一時一時の政治の具に供してはならぬ」
この言葉は、日本の初代内閣総理大臣を四度にわたり務め、近代立憲主義社会の基礎を築いた伊藤博文(いとう ひろぶみ)の、憲法に対する揺るぎない信念を表しています。
周防国束荷村(現在の山口県光市)の百姓の子として生まれた彼は、農民から足軽、そして日本の最高指導者にまで上り詰めた、まさに「今太閤(いまたいこう)」と称される明治を代表する人物です。
幼少期の苦難から松下村塾へ
伊藤博文、幼名・利助(りすけ)は、1841年(天保12年)、周防国(現在の山口県光市)の貧しい農家の子として生まれました。彼の運命を変えたのは、父・十蔵が長州藩の足軽・伊藤家の養子となり、彼自身も下級武士の身分を得たことでした。幼少期の彼は、母の実家に預けられたり、萩で蔵元付中間(ぞうもとつきちゅうげん)として雑用を務めるなど、厳しい境遇にありましたが、父は息子を厳しく教育。彼の強い向上心は、16歳の時に吉田松陰の私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」に入門させたことで花開きます。
📌 松陰の教えと過激な尊王攘夷活動
身分が低かった伊藤は、塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外に立ちながら松陰の講義を聴講していましたが、その才能は松陰に認められ、「俊輔(しゅんすけ)は周旋(政治)の才あり」と評されました。松下村塾で学んだ後、彼は高杉晋作、井上馨(いのうえ かおる)らと共に尊王攘夷運動に参加。1862年(文久2年)には、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど、過激なテロ活動も辞さない、熱烈な志士として活動しました。
英国留学と現実主義への転換
文久3年(1863年)、22歳の伊藤は、井上馨らと共に長州藩の「長州五傑」の一人として、国禁を犯してイギリスへ密航留学しました。
📌 開国への決断と「日の丸演説」
ロンドンで彼が目の当たりにしたのは、攘夷を主張していた当時の日本とは比較にならない、圧倒的な西洋の国力と近代文明でした。この現実の衝撃により、伊藤は開国論者へと転向します。
- 急遽帰国: 留学中に、イギリスを含む四国連合艦隊が長州藩を攻撃する計画を知ると、伊藤は井上馨と共に急遽帰国。藩主・毛利敬親(もうり たかちか)に開国の必要性を説きました。
- 功山寺挙兵: 下関戦争の後、藩内が幕府への恭順を掲げる俗論派に支配されると、高杉晋作と共に「功山寺挙兵」に参加。伊藤は、このときの行動を「私の人生において、唯一誇れること」と語っています。
明治維新後、伊藤は神戸事件や堺事件の解決に奔走し、その外交手腕と英語力を発揮。明治政府の指導者たちから高い信頼を得ていきました。
初代内閣総理大臣と「立憲政治の父」
明治維新後、伊藤は初代兵庫県知事、工部卿、内務卿など要職を歴任し、大久保利通亡き後の明治政府の中心人物となります。
📌 憲法制定と内閣制度の確立
伊藤の最大の功績は、日本の近代国家の骨格となる制度の確立です。
- 内閣制度の創設: 1885年(明治18年)、太政官制度を廃止し、近代的な内閣制度を創設。その初代内閣総理大臣に就任しました。
- 大日本帝国憲法の制定: 1882年(明治15年)、ヨーロッパに派遣され、ドイツの憲法学を調査。帰国後、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らと共に、大日本帝国憲法(明治憲法)の草案起草の中心となり、1889年(明治22年)に憲法を制定しました。
- 立憲政治の定着: 憲法発布後は、枢密院議長、初代貴族院議長を務め、憲法の運用を通じて、立憲政治を日本に定着させました。この功績により、伊藤は「立憲政治の父」として世界的に高い評価を受けました。
初代韓国統監と悲劇的な最期
伊藤は、内閣総理大臣を4度務めた後も、元老として日本の対外政策に大きな影響力を持ち続けました。
📌 日露戦争後の処理と併合への苦悩
日露戦争後、伊藤は朝鮮・満洲の処理問題に尽力し、1905年(明治38年)、初代韓国統監に就任します。伊藤は、朝鮮併合には当初慎重な立場であり、保護国化による実質的な統治で充分であるという考えを持っていました。彼は、朝鮮国民の素養を認め、自治力が育つまで保護国とする方針を打ち出し、朝鮮での教育にも力を注ぎました。
しかし、朝鮮国内での義兵闘争が盛んになり、国際協調を重視する伊藤の穏健な政策は、併合強硬派である山縣有朋ら軍閥との対立を招きました。
📌 ハルビン駅での暗殺
伊藤は統監職を辞した後も、日露関係の調整のため、1909年(明治42年)10月、中国のハルビン駅を訪れました。しかし、ここで大韓帝国の民族運動家、安重根(あん じゅうこん)に銃撃され、68歳で暗殺されました。彼の最期の言葉は「そうか。馬鹿な奴じゃ」であったと伝えられています。伊藤の暗殺は、日本の世論を併合へと加速させる結果となり、翌1910年(明治43年)、韓国併合が断行されました。
伊藤博文ゆかりの地:近代化の足跡を辿る旅
伊藤博文の足跡は、彼の故郷である山口県光市から、萩、そして政治の拠点である東京へと繋がっています。
- 伊藤公記念公園・伊藤公資料館(山口県光市大字束荷2250-1):彼の生家が復元・公開されており、生涯を伝える資料館があります。
- 伊藤博文旧宅(山口県萩市椿東1515):もとは萩藩の中間 伊藤直右衛門の居宅でしたが、安政元年(1854)に伊藤博文の父・林十蔵が伊藤家の養子となったため、一家をあげて伊藤家に入家。その後、博文が明治元年(1868)に兵庫県知事に赴任するまでの本拠となった家です。
- 伊藤博文別邸(山口県萩市椿東1511-1):旧宅に隣接する別邸で、東京の大邸宅の一部を移築したものです。
- 伊藤博文公墓所(東京都品川区西大井6-10-18・伊藤家墓所):高さ約2メートルの円墳の前に鳥居を配した神式の墓所で、隣にはやや小型の梅子夫人の墓があります。通常は非公開のため入れませんが、毎年秋に開催する文化財ウィークには数日限定で公開されます。墓所の近隣にはその名に由来する区立小中一貫校伊藤学園があり、昭和25年に伊藤博文公宅から門柱と門扉を譲り受けた伊藤門を見ることができます。
- 功山寺(山口県下関市長府川端1-2-3):文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作が当寺で挙兵し(回天義挙)、伊藤博文も力士隊を率いて参加。境内に高杉晋作挙兵(回天義挙)像がある。
- 旧伊藤博文金沢別邸(神奈川県横浜市金沢区野島町24・野島公園内):明治31(1898)年に建てられた田舎風海浜別荘建築です。伊藤博文が風光明媚な金沢の地を好んで建てたといわれ、この別荘には大正天皇や韓国皇太子なども訪れました。旧伊藤博文金沢別邸は、当時の数少ない貴重な建築遺構という事で、平成18(2006)年、横浜市指定有形文化財に指定されました。建物の老朽化が著しかったことから、翌年から解体工事・調査を行い、現存しない部分を含め創建時の姿に復元されました。邸内では、伊藤博文に関する資料や調度品などを展示しており、敷地内の牡丹園からは海が一望できます。
伊藤博文の遺産:現代社会へのメッセージ
伊藤博文の生涯は、私たちに「現実主義に基づく立憲政治の精神」を教えてくれます。彼は、理想論に流されず、常に国際情勢と国力という現実を見据え、立憲体制の定着という、日本の未来に不可欠な制度を築きました。彼の「憲法義解」に込められた、君主大権を背景にしつつも立憲政治の意義を訴える姿勢は、現代の政治家やリーダーに、仕組みづくりと大局観の重要性を示しています。伊藤博文の物語は、一人の人間が、その知性と行動力によって、身分の壁を乗り越え、国の運命を変えることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、学習を怠らず、現実という名の困難に立ち向かうことの大切さを、力強く語りかけているのです。
(C)【歴史キング】

伊藤博文 近代日本を創った男 (講談社学術文庫 2286) / 伊藤 之雄 (著)
文庫 – 2015/3/11

初代総理大臣として内閣制度を創設し、みずから中心となって大日本帝国憲法を制定しながら、木戸孝允や岩倉具視らの間をたくみに世渡りして出世した「軽佻浮薄」な人物、あるいは、旧憲法によって民主化の道を狭め、韓国では民族運動を弾圧した権力者、といったイメージで語られてきた伊藤博文。日本近代政治史の第一人者である著者が、歴史学の最新成果をふまえて、伊藤の全生涯と「剛凌強直」たる真の姿を描き切る、決定版評伝。