京都府の偉人:荷田春満 — 「国学」の源流を築き、日本人の魂を呼び覚ました伏見稲荷の神官
「古語通ぜざれば則(すなわ)ち古義明(あきら)かならず、古義明かならざれば則ち古学復(かえ)らず」
江戸時代中期、儒教や仏教が学問の中心であった時代に、日本固有の精神と古典の重要性を説き、「国学」という新たな学問領域を切り拓いた先駆者、それが荷田春満(かだの あずままろ)です。
京都・伏見稲荷大社の社家(神官)に生まれた彼は、将軍・徳川吉宗に国学校の建設を建言し、その情熱は弟子の賀茂真淵、そして本居宣長へと受け継がれ、やがて明治維新の精神的支柱となりました。
神職の家に生まれ、古典の深淵へ
荷田春満は、1669年(寛文9年)、山城国伏見(現在の京都市伏見区)にある伏見稲荷社(現・伏見稲荷大社)の社家、羽倉信詮(はくら のぶあき)の次男として生まれました。幼名は信盛、通称は斎宮(いつき)。
伏見稲荷社は秦氏の創建ですが、荷田家(羽倉家)も古くから社家として仕え、御殿預職(ごてんあずかりしょく)という重職を世襲していました。春満は幼少期から、家学である神道や歌学を学び、恵まれた環境の中で日本の古典に親しみました。
📌 契沖との出会いと覚醒
春満の学問に決定的な影響を与えたのは、同時代の僧侶であり古典学者であった契沖(けいちゅう)の研究でした。契沖の著した『万葉代匠記』などに触れた春満は、それまでの形骸化した歌学や、儒教的な解釈に歪められた古典理解に疑問を抱き、「古語(古代の言葉)」を正しく理解することこそが、日本人の精神(古道)を解明する鍵であると確信しました。
江戸での名声と、将軍吉宗への建言
1700年(元禄13年)、32歳の春満は、勅使に随行して江戸へ下ります。当初はすぐに帰京する予定でしたが、彼はそのまま江戸に留まり、大名や旗本たちに和歌や有職故実(ゆうそくこじつ)を教授する道を選びました。
彼の講義は評判を呼び、その名声は幕府の中枢にまで届きました。享保8年(1723年)、春満は8代将軍・徳川吉宗の命を受け、幕府の書籍調査や有職故実の諮問に応じるようになります。
📌 画期的な提案書「創学校啓」
春満の最大の功績の一つは、享保13年(1728年)に将軍吉宗へ献上した『創学校啓(そうがくこうけい)』です。
当時、幕府の学問といえば儒学(漢学)が絶対的な主流でした。しかし、春満はその常識に挑戦し、「日本独自の古典や精神を学ぶための学校(国学校)が必要である」と熱烈に訴えました。
「外国(中国)の書物は尊重されているのに、我が国の古典は打ち捨てられている。このままでは日本人の精神が失われてしまう」
惜しくも学校の建設自体は実現しませんでしたが、この建白書は、日本の学問史上において「国学」の独立を宣言した記念碑的な文書となりました。
「国学の四大人」と、受け継がれる志
春満は、晩年に多くの門人を育てました。その中に、後に国学を大成させる賀茂真淵(かもの まぶち)がいました。
春満は、姪の婿養子として真淵を迎え入れようとするほど彼を高く評価し、自身の学問のすべてを託しました。春満が撒いた種は、真淵によって育てられ、その弟子の本居宣長(もとおり のりなが)によって花開き、平田篤胤(ひらた あつたね)によって実を結びました。この四人は「国学の四大人」と称され、春満はその始祖として崇められています。
「忠臣蔵」の陰の支援者? — 史実と伝説
荷田春満には、国民的物語『忠臣蔵』(赤穂事件)にまつわる有名なエピソードがあります。
講談や芝居では、春満は大石内蔵助(おおいし くらのすけ)の旧知の友であり、吉良上野介の在宅日(茶会の日)を大石に教え、討ち入りの日取り決定に協力した「陰の支援者」として描かれることがあります。
しかし、史実においては、春満と大石には面識がなかったとされています。むしろ春満は、吉良義央やその家老と交流があり、歌道を通じて吉良家に出入りする立場でした。物語における春満の役割は、彼が当時江戸で高い名声を持っていた文化人であったことから生まれたフィクションであると考えられています。
晩年と「東丸」の神格化
春満は、長年の研究生活と激務により胸を患い、さらに中風に倒れました。元文元年(1736年)、68歳でその生涯を閉じました。
死後、彼の功績はますます評価され、明治時代には正四位を追贈されました。伏見稲荷大社の境内には、彼を祭神とする東丸神社(あずままろじんじゃ)が創建され、学問の神様として多くの人々の信仰を集めています。
📍荷田春満ゆかりの地:国学の源流を辿る旅
荷田春満の足跡は、彼の生まれ故郷である京都・伏見から、学問を広めた江戸へと繋がっています。
- 東丸神社(京都府京都市伏見区深草藪之内町36):伏見稲荷大社の境内に隣接する神社。春満を祭神として祀り、学問・受験の神様として有名です。境内には、多くの合格祈願の千羽鶴が奉納されています。
- 荷田春満旧宅・墓所(京都府京都市伏見区深草藪之内町57):東丸神社の隣に残る、国指定史跡。神官であった荷田(羽倉)家代々の居所で、書院や門などが現存し、江戸時代の社家の暮らしを伝えています。
- 国学発祥の地碑(東京都千代田区外神田2-16-2・神田神社):春満が、江戸に出て初めて国学の教場を開いたのが神田神社社家の芝崎邸内でした。そのゆかりから神田神社境内が江戸における国学の発祥の地とされ、碑が立てられています。
💬荷田春満の遺産:現代社会へのメッセージ
荷田春満の生涯は、私たちに「自国の文化と精神を知る意義」を教えてくれます。彼は、外来の思想や文化が主流だった時代に、流されることなく「日本人とは何か」「私たちの精神のルーツはどこにあるのか」を問い続けました。
彼の情熱は、単なる懐古趣味ではなく、過去を知ることで現在を正しく認識し、未来を築こうとする、極めて前向きな知的探求でした。
荷田春満の物語は、一人の学者が、その信念によって忘れかけられていた「日本の心」を呼び覚まし、後の歴史を大きく動かす原動力となったことを証明しています。彼の精神は、グローバル化が進む現代においてこそ、私たちが自身のアイデンティティを見つめ直し、世界と対話するための基盤として、力強く響き続けているのです。