長崎県の偉人:北村西望 — 「平和祈念像」に魂を込めた、102歳の彫刻界の巨匠
「自分は天才ではないのだから人が5年でやることを、自分は10年かけてでも、やらねばならないのだ」
この言葉は、102歳という長寿を全うし、日本の彫刻界の頂点に立ち続けた北村西望(きたむら せいぼう)の、たゆまぬ努力と信念を象徴しています。
長崎県南有馬村(現在の南島原市)に生まれた彼は、戦意高揚の勇壮な作品から、平和への祈りを込めた巨大像まで、激動の昭和史を生き抜いた日本彫刻界の歴史的大家です。
幼少期の苦難と、彫刻への目覚め
北村西望、本名・西望(にしも)は、1884年(明治17年)、長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)の旧名家に生まれました。幼少から勉学に励み、小学校の準教員免許を取得して代用教員として働きますが、病に倒れて長崎師範学校を退学するという挫折を経験します。
📌 首席卒業と「怒涛」の才能
療養中に独学で彫り上げた欄間が家族に褒められたことをきっかけに、彫刻の道を志します。
- 京・東での首席: 1903年(明治36年)、京都市立美術工芸学校(現・京都市立美術工芸高等学校)に入学。ここでは生涯の友でありライバルとなる建畠大夢と出会います。同校を首席で卒業した後、1907年(明治40年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に進み、こちらも1912年(明治45年)に首席で卒業しました。
- 若き日の栄光: 在学中から文部省美術展覧会(文展)に入選を重ね、1915年(大正4年)には出品作「怒涛」が二等賞を受賞。「天才ではないからこそ10年かけてやる」という信念の通り、その才能は若くして開花しました。
昭和の巨匠の「光と影」
西望は、大正時代から戦前戦中にかけて、帝展審査員や東京美術学校教授などを歴任し、彫刻界の頂点に君臨しました。
📌 戦前:勇壮な男性像と戦意高揚
戦前、西望が手がけた作品は、その力強い作風から、戦意高揚を意図した勇壮な男性像が中心でした。
- 代表的な戦前作: 「児玉源太郎大将騎馬像」「山県有朋元帥騎馬像」など、多くの軍人像を制作しました。
- 「戦争協力者」としての一面: 彼は、戦時体制下で国民を統制し戦争協力させていった大政翼賛会の会合に、芸術界の代表として参加するなど、表現者としての「戦争協力者」という側面も持ち合わせていました。
📌 戦後:平和への祈念と自己総括
敗戦後、西望の彫刻モチーフは一転し、「平和」「自由」「宗教」といったテーマに変わっていきました。
- 長崎市の依頼: 1951年(昭和26年)、長崎市の委嘱を受け、原爆の犠牲者への鎮魂と世界平和への願いを込めた「平和祈念像」の制作に着手します。西望は、この制作に4年の歳月と、公費に頼らず集められた多額の浄財を投じました。
- 魂を込めた絶作: 1955年(昭和30年)、青銅製で高さ10メートル弱の巨大像「平和祈念像」が長崎平和公園に設置されました。西望は、「右手は原爆を示し左手は平和を 顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」と、その像に込めた意味を語っています。
この制作は、西望にとって「長い創作活動において、もっとも心血をそそいだ5年間」であったといわれています。戦前の「光」と、その後の「影」を背負いつつ、平和への強い希求を作品に昇華させたのです。
晩年と文化的功績
西望は、戦後も精力的に活動を続け、1958年(昭和33年)に文化勲章を受章。日本彫塑界の名誉会長、日展の名誉会長を歴任するなど、日本の彫刻界の最高峰に立ち続けました。
📌 102歳の長寿と教育への貢献
- 102歳の巨匠: 1987年(昭和62年)に102歳で没するまで、現役で創作活動を続けました。絶作となったのは、亡くなる直前に完成した東京都板橋区役所新庁舎前の「平和を祈る」像です。
- 後進の指導: 東京美術学校教授として後進の指導にあたっただけでなく、「北村西望賞基金」を設け、小中学生の教育美術振興を目的とした美術展を継続させるなど、未来の芸術家育成にも尽力しました。
激務と度重なる発行停止処分による心労は、羯南の体を蝕みました。肺結核を発症し、明治39年(1906年)、新聞『日本』の経営権を譲渡。翌明治40年(1907年)、50歳という若さで鎌倉にて永眠しました。
北村西望を深く知る「この一冊!」
出版: オンデマンド (ペーパーバック)

長崎平和祈念像をつくった彫刻家 ―北村西望の〝光と影〟― / 大山勝男 (著)
オンデマンド (ペーパーバック) – 2025/7/3

長崎平和祈念像の作者である北村西望の生涯を、戦前戦中期の「勇壮な男性像」制作と、戦後の「平和祈念像」制作という、「光と影」の両面から深く掘り下げた一冊。彫刻家としての業績だけでなく、激動の時代を生きた表現者の苦悩と自己総括を探ります。
📍北村西望ゆかりの地:祈りの芸術を辿る旅
北村西望の足跡は、彼の故郷である長崎県南島原市から、作品が展示されている東京へと繋がっています。
- 長崎平和公園・平和祈念像(長崎県長崎市松山町9):西望の代表作であり、世界平和のシンボルとして知られています。原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられました。長崎市民の平和への願いを象徴する平和祈念像。(高さ:9.7m 重さ:30t 材質:青銅 制作者:北村西望氏)
この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。
- 西望記念館「西望生誕之家」・西望公園 (島原城内・南島原市南有馬町丙393-1):西望生誕の地に設立された彫刻公園。園内には屋外に13点、生家を復元した西望記念館に彫刻・書絵画など約60点の作品が展示され、西望芸術の足跡をたどることができます。静かな農村にたたずむこの記念館は、有明海や天草の島々や島原の乱で有名な国指定史跡「原城跡」も望むことが出来るすばらしい景観の中にあり、西望生誕の地で、凝縮された西望芸術の粋を見ることが出来ます。
- 井の頭自然文化園・彫刻館(東京都武蔵野市御殿山1-17-6、井の頭自然文化園内):彫刻園には、彫刻家・北村西望の作品180点以上がアトリエ館、彫刻館A館、彫刻館B館、そして屋外に展示してある。彫刻園は、西望が、長崎の平和祈念像を制作する際、アトリエを建設する土地を東京都から借りた返礼として、全作品を都に寄贈することを申し出たことに由来。寄贈された作品は500点以上にものぼり、1958年より一般公開された。当時のアトリエ建築をそのまま残したアトリエ館では、平和祈念像制作に実際に用いた装置や、様々な大きさの習作類、器具類が展示されています。彫刻館A館では、長崎に設置された平和祈念像の原寸大の石膏原型が収められ、高低差のある多彩な視点で鑑賞することができる。彫刻館B館では、初期作から終戦までの作品が置かれています。
- 「板垣退助立像」(国会議事堂1階中央広間・東京都千代田区永田町1-7-1):帝展審査員を務めた西望の作品「板垣退助翁」が設置されています。大隈重信、伊藤博文の銅像もあります。これは、昭和13年(1938年)に大日本帝国憲法発布50年を記念して作られました。ところで、4つ目の台座には銅像がありません。これは4人目を人選できず将来に持ち越されたといわれています。また、「政治に完成はない、未完の象徴」という意味もあるといわれています。
- 平和祈念像(東京都板橋区役所新庁舎前・東京都板橋区板橋2-66-1):板橋区は昭和60年1月1日平和都市宣言を告示、その2年後の昭和62年に、区役所新庁舎落成に合わせて建立された。作者の西望は、当時103歳で、この年の3月に亡くなられたので、西望の絶作となった。
台座:「平和を祈る 百参才西望」
説明板:「平和祈念像 この度、板橋区役所の依頼で、長崎平和像の「立像試作」を30年ぶりに再び手がけることになった。思えば長崎の平和像は、この立像試作を経て座像へと移行し、「頭部試作」を加えることによって、原爆記念から平和祈念へと進展したのであった。 いま、その原点の「立像雛型」に帰り「頭部試作」と合流して一つの新作に昇華し得たのは作者としても大きな喜びである。依頼された板橋区民の方々にお礼を申し上げる次第である。 昭和62年(1987年)2月 北村西望 」
- 燈臺 北村西望作 銅造彫刻(数寄屋橋公園・東京都中央区銀座4-1-2):関東大震災から10年目の昭和8年(1933年)9月1日に建立された記念塔は、石造の台座にブロンズ像(像高約1m54cm)が据えられています。台座設計および彫刻制作は、平和祈念像(昭和30年制作・長崎市)の作者でもある彫刻家・北村西望(1884から1987)によるもので、台座正面の銘板には「不意の地震に不断の用意」の陽刻と「西望作」の陰刻銘が施されています。明治末から美術展覧会に名を連ねてきた北村西望は、躍動感に満ちた力強い造形美の彫刻を制作し、その生涯で数百点に上る作品を残しました(東京都井の頭自然文化園内に多数現存)。記念塔上のブロンズ像は、昭和6年(1931年)開催の帝国美術院第12回美術展覧会のために制作・出品(彫塑の部・題名「燈臺」)した芸術的完成度の高い彫刻で、口を大きく開く阿形の獅子を従え、兜をかぶり炬火を掲げて警鐘を鳴らすような青年の像です。この銅造彫刻は、北村が得意とする肉付き豊かで動的なモデリングの造形表現が見て取れるとともに、道行く人々に関東大震災の教訓を伝える象徴的な像となっています。
- (仮称)彫刻アトリエ館(東京都北区西ヶ原1-16-7):北村西望氏が大正11年に曠原社(こうげんしゃ)の彫刻研究所を仲間とともに開設した場所であり、昭和28年に井の頭に転居するまで制作活動をしたアトリエです。長崎の平和祈念像もこの地で構想しました。その後、西望氏の長男・北村治禧氏の創作活動の場となり、昭和58年に長屋門部分を残し現在のアトリエに建て替えられました。西望氏と治禧氏は日本芸術院会員であり、また北区美術会会長として芸術文化振興に尽力しました。この施設は、平成13年8月に治禧氏が逝去されたあと、平成14年3月に遺族から北区に、2人の数多くの彫刻作品等とともに寄付されたものです。
- 清廉の武将畠山重忠(武蔵御嶽神社・東京都青梅市御岳山176):国宝の「赤糸威大鎧」を奉納した畠山重忠をモチーフにした騎馬像で、昭和56年(1981年)の酉年式年大祭記念事業として制作・奉納されました。長崎の平和祈念像で知られる北村西望氏の作品で、ヘリコプター運搬のため、青銅ではなく高純度アルミ製なのが特徴です。
- 北村西望自像(蓼科高原芸術の森彫刻公園・長野県茅野市北山4035):標高約1250メートル、自然の風景のなかで彫刻を展示している野外美術館。芝生の広場や森など約3万坪におよぶ敷地に北村西望の作品を中心に約70点の作品が展示されています。園内の全長約2キロ遊歩道もあり。
- 船原ホテル「純金風呂」(静岡県田方郡天城湯ケ島町上船原511の1):船原ホテルは、純金風呂とお狩場焼で知られた天城温泉郷の代表的なホテル(1983年に閉館)で、キャッチコピーは「伊豆の仙境」。純金風呂は鳳凰を象った長さ151センチ、幅76センチ、高さ61センチの宝舟型の浴槽で、22金を124キログラム使用し(純度85.7パーセント)、費用は加工費を含め1億3000万円を要した。設計を依頼されたのは長崎の平和祈念像を制作した北村西望で、「美術品としても価値のあるものにする」とされた。実際の製作は、東京銀座の貴金属商、山崎商店が請け負った。
閉館後も純金風呂は十数年間、そのまま浴場に置かれていたが、1999年(平成11年)12月21日、浴槽がなくなっていることが発覚した。関係者の犯行の可能性もあるとみて内部調査を行ったが、最終的に盗難と判断し、2000年(平成12年)4月4日に静岡県警察大仁警察署へ届け出た。1998年(平成10年)に、国税局の職員が差し押さえ物件の査定のためにホテルを訪れた際には、浴槽はあったという。床や階段を引きずった様子はなく、浴室のドアの鍵にも壊された跡はなかったことから、複数の犯人が合鍵を使って侵入し、持ち上げて運び出したものと考えられた。当時の純金風呂の時価は1億円であった。結局現在でも犯人逮捕及び盗品の発見には至っておらず、2007年に公訴時効成立となった。
- 山縣有朋像(萩市中央公園・山口県萩市江向552-2):高さ約4メートル。北村西望による騎馬像の傑作。森鷗外の依頼で作った寺内正毅の騎馬像が評価され、陸軍省から山県有朋の騎馬像の制作を依頼された。完成した銅像は昭和5年(1930年)、東京の陸軍省構内に据えられた。戦時中、兵器用の材料不足からに全国各地の銅像の供出が進められ、西望は彫刻家・朝倉文夫らと銅像救出委員会を組織、朝倉文夫は「銅像を鋳つぶし、兵器に変えることの愚を敢然と主張」したが、戦時下で供出を免れた銅像は全国的にもごくわずかで、その中の一つに有朋の騎馬像がある。西望作の大きな騎馬像として、他に寺内正毅騎馬像・児玉源太郎騎馬像があったが、戦後も残ったのは有朋の騎馬像のみ。
- 飛躍(鯉のモニュメント)(広島市中央公園東側噴水・広島県広島市中区基町):力強く天に昇る2匹の鯉をモチーフにしたブロンズ彫刻で、平和への願いや生命力、上昇志向を象徴し、北村西望の代表作の一つ。
- 平和観世音菩薩像(広島市立中央図書館 裏庭広島県広島市中区基町):原爆の犠牲者の供養し、世界平和への願いを込めた記念碑として設置された。像の部分は、彫刻家の北村西望が1975年(昭和50年)に恒久平和を祈念して制作したもので、その後、多くの市民や団体が関与して像と台座が合わさった平和観世音菩薩像として完成し、1978年(昭和53年)5月5日に広島市中央公園内に設置された。像はアルミニウムで作られており、高さは約8メートルである、像台座の正面には、西望が揮毫した「平和」の碑銘が据えられた。
- 諏訪神社「神馬像」(長崎県長崎市上西山町18-15):平和祈念像の作者故北村西望氏102歳時の作です。昭和59年第16回日展に出品され、昭和天皇の御在位60年を記念して昭和60年10月に奉納されたものです。諏訪神社には、明治3年に三菱重工業長崎造船所の前身である長崎製鉄所より創業記念として神馬像が奉納されておりましたが、大東亜戦争時に国へ供出され、それ以来神馬像は姿を消しておりました。
- 北村西望墓所(寛永寺第三霊園・東京都台東区上野桜木1-16-15):102歳という長寿、白髪と口元に蓄えられた立派な髭から「仙人」とも評されたが、話し方は非常に穏やかさった。
「たゆまざる 歩み恐ろし かたつむり」
墓には「北村家」とあり、左横に墓誌が建つ。戒名は「蓬壽院穆山西望大居士」
💬北村西望の遺産:現代社会へのメッセージ
北村西望の生涯は、私たちに「自己を律する努力」と「時代の変化への応答」を教えてくれます。彼は「天才ではない」と自らを戒め、生涯学び、創造し続けました。
彼の最も偉大な功績は、戦後に長崎平和公園に捧げた「平和祈念像」です。像の「たゆまざる歩みおそろしかたつむり」という句に込められたように、平和とは、一過性の記念ではなく、絶え間ない祈りと、粘り強いたゆまぬ努力によってのみ維持されるという、深遠なメッセージを私たちに投げかけています。
北村西望の物語は、一人の芸術家が、その作品を通じて、時代の苦難と人間の普遍的な願いを刻みつけることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、希望と努力、そして平和への強い意志を持つことの大切さを、力強く語りかけているのです。