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愛媛県の偉人:児島惟謙 — 「護法の神様」が守り抜いた、日本の司法権独立

「政府は政府の所信を貫くが良い。司法は司法の所信を貫く」

この言葉は、大津事件に際して時の政府の圧力に屈せず、司法権の独立という日本の近代国家の根幹を守り抜いた児島惟謙(こじま これかた)が、首相松方正義に突きつけた決意表明です。伊予国宇和島城下(現在の愛媛県宇和島市)に生まれた彼は、幕末の動乱期に脱藩して勤王活動に参加。明治維新後は司法官となり、大審院長(現在の最高裁判所長官に相当)として、「護法の神様」と称される偉大な足跡を日本の憲政史に残しました。

幼少期の苦難から剣術への傾倒

児島惟謙は、1837年(天保8年)、宇和島藩士金子惟彬(かねこ これあきら)の次男として生まれました。幼くして生母と別れ、里子に出されるなど、恵まれたとは言えない幼少期を過ごしました。里子や親戚の造酒屋で使用人として働くなど、その境遇は決して安楽ではありませんでしたが、このような逆境が彼の不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を育みました。彼は、武士として身を立てるため、剣術の修業に励みます。窪田清音から免許皆伝を認められた窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門(たずみ かもん)の道場に入門し、ここで後に大阪財界の大立役者となる土居通夫(どい みちお)と剣術修業に励み、23歳には剣道の師範免許を得るほどの腕前となりました。

📌 幕末の動乱と脱藩

剣術師範として藩内各所から招かれるようになった児島は、安政末期から幕末にかけて、世情が激しく動くのを肌で感じていました。慶応元年(1865年)には長崎に赴き、坂本龍馬五代友厚らと親交を結び、攘夷の不可能を知り開国思想を抱くようになります。慶応3年(1867年)、児島はついに藩を脱藩し、京都に潜伏して勤王派として活動。戊辰戦争にも北陸道軍として参加しました。この脱藩を機に、彼は仮の名として「児島惟謙」を名乗るようになり、終生この名を使い続けました。

司法官としての出発と「護法の神様」

明治維新後、児島は新政府に召し出され、1870年(明治3年)に司法省に入省。名古屋裁判所長、大阪控訴院長などを歴任し、その公正な裁判と有能さで名声を高めていきました。

📌 鶴岡事件:行政権力との最初の闘い

児島が裁判官としての本領を発揮した最初の事件は、明治8年(1875年)の鶴岡事件です。山形県鶴岡県(現在の山形県の一部)で、県当局の封建的で不当な暴政に苦しむ県民が施政の改善を求めたものの、出訴(しゅっそ)が握りつぶされていた事件です。当時、新政府の最大の実力者であった大久保利通に、児島は単身で意見書を提出。その誠意と信念は大久保を動かし、児島は鶴岡に派遣されました。彼は現地で臨時裁判所を開設し、行政官庁の非を排する判決案を政府に提出。この難航事件を解決に導き、公平かつ有能な裁判官としての名声を得ました。彼は、常に不当な行政権力と闘い、人民の権利を擁護する姿勢を貫きました。

📌 大阪国事犯事件:「法不遡及」の原則

明治19年(1886年)、大阪控訴院長時代の児島は、大阪国事犯事件(大井憲太郎らが朝鮮独立を企図し、爆弾製造を計画した事件)に直面します。政府は、不穏分子を極刑に処するために新たに制定された爆発物取締規則を適用しようとしましたが、児島はこれに対し、制定前の法律を適用することを禁じた「法不遡及(ほうふそきゅう)」の原則を貫き、旧法律を適用しました。これにより、彼は不当な行政権力に迎合しない、司法権独立の擁護者としての地位を確固たるものにしました。

大津事件の決断と「司法権の独立」

児島の名を日本の憲政史上、不滅のものとしたのが、1891年(明治24年)に大審院長(現在の最高裁判所長官に相当)就任の直後に起きた大津事件です。

📌 ロシア皇太子襲撃と政府の圧力

来日中のロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備の巡査津田三蔵(つだ さんぞう)に切りつけられ負傷するという大事件が発生しました。時の首相松方正義ら政府首脳は、ロシアとの関係悪化を恐れ、外交的配慮から、津田に対し日本の皇室に対する罪である大逆罪(死刑)を適用するよう、司法当局に強く圧力をかけました。政府側は、過去のロシアとの密約の存在をも持ち出し、司法大臣や総理大臣が児島に対し、「国法を曲げてでも死刑に処すべし」と、露骨な干渉を行いました。

📌 児島惟謙の断固たる抵抗

しかし、児島は行政権力からの圧力に断固として屈しませんでした。彼は、「津田の行為は外国の皇太子への謀殺未遂であり、日本の皇室に対する大逆罪の構成要件には該当しない」と主張。彼は、裁判を担当する判事たち一人ひとりに接触し、政府の圧力に屈しないよう説得しました。この行為は、裁判官の独立を侵害したという批判も後世にありますが、結果として児島は、政府の威圧を排し、司法権の独立という近代国家の根幹を守り抜くという大英断を下しました。1891年5月27日に下された判決は、政府の要求した死刑ではなく、普通謀殺未遂罪を適用した無期徒刑(無期懲役)でした。この判決は、日本国内で児島を「護法の神」と称賛させ、海外の列強からも「日本の司法の独立」を示すものとして高い評価を受けました。

晩年の活動と教育への貢献

大津事件後、児島は花札賭博事件(司法官弄花事件)の責任を取らされる形で大審院を辞職しますが、その後も国政に尽くしました。

  • 貴族院・衆議院議員: 貴族院勅選議員、衆議院議員を歴任し、国家経営に参画。
  • 教育への貢献: 関西法律学校(現・関西大学)の創立を賛助し、日本法律学校(現・日本大学)の設立評議員も務めるなど、法曹教育に尽力しました。特に、関西大学では事実上の創立者に準じる存在として仰がれています。
  • 家族との絆: 義和団事件で戦死した長男の死を悼み、その遺志を継ぐべく教育事業に支援を行いました。また、親交のあった渋沢栄一に娘の縁談を世話するなど、家族や知己との絆を大切にしました。

1908年(明治41年)、児島は72歳でこの世を去りました。

児島惟謙ゆかりの地:護法の足跡を辿る旅

児島惟謙の足跡は、彼の故郷である愛媛県宇和島市から、裁判官として活躍した各地、そして最期の地である東京へと繋がっています。

  • 児島惟謙生誕地の石碑(愛媛県宇和島市丸之内1-1-7・宇和島税務署横):彼の生誕地であり、石碑が建っています。
  • 児島惟謙像(宇和島城上り立ち門前の像・愛媛県宇和島市丸之内3-6)
  • 児島大審院長苦学之地(愛媛県西予市野村町野村12-334・緒方酒造付近)
  • 児島惟謙墓所・海晏寺(東京都品川区南品川5-16-22・青物横丁駅近く)
  • 児島惟謙胸像(関西大学博物館前大阪府吹田市山手町3-3-35):児島が創立に深く関わった関西法律学校の後身であり、胸像が建っています。
  • 大津地方裁判所(滋賀県大津市京町3-1-2):大津事件の裁判が行われた場所です。
  • 大津事件跡碑(滋賀県大津市京町2-2)

児島惟謙の遺産:現代社会へのメッセージ

児島惟謙の生涯は、私たちに「法治国家の尊厳」とは何かを教えてくれます。彼は、外交的危機や行政権力という巨大な圧力に対し、一人の裁判官として**「法」という理念**を貫き通しました。彼の行動は、個人の人権が国家の都合によって侵害されてはならないという、近代民主主義の最も重要な原則を確立しました。この「護法の神」の精神は、私たちに、法が正義の最後の砦であることを強く訴えかけています。児島惟謙の物語は、一人の人間が、その信念と勇気によって、国のあり方を根底から守り抜き、後世に不滅の足跡を残すことができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、正義を追求する勇気と、公正な社会を築くことの大切さを、力強く語りかけているのです。

(C)【歴史キング】

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