青森県の偉人:陸羯南 — 「国民主義」を掲げ、言論で権力に立ち向かった硬骨のジャーナリスト
「民の声は必ずしも音あるにあらず、音あるものまた必ずしも民の声にあらず」
この警句は、明治の言論界に聳える巨峰、陸羯南(くが かつなん)が遺したものです。
津軽藩(現在の青森県弘前市)に生まれ、正岡子規を育て、徳富蘇峰、池辺三山と並び「明治の三大記者」と称された彼は、政府の欧化政策に異を唱え、日本の伝統に基づいた「国民主義」を提唱しました。
新聞『日本』を創刊し、幾度もの発行停止処分を受けながらも権力に屈しなかったその姿勢は、日本のジャーナリズムの精神的支柱となり、今もなお多くの人々に影響を与え続けています。
津軽の風土と、反骨の青春時代
陸羯南、本名・実(みのる)は、1857年(安政4年)、陸奥国弘前(現在の青森県弘前市)の御茶坊主頭・中田謙斎の次男として生まれました。幼名は巳之太郎。
幼少期から漢学を学び、旧藩校の後身である東奥義塾に進みますが、16歳で宮城師範学校に進むも校長と対立して退学。その後上京し、フランス法律学を学ぶ司法省法学校に入学しますが、ここでも彼の反骨精神が顔を出します。
📌 賄征伐事件と法学校退学
明治12年(1879年)、法学校の寄宿舎で、食事の質を巡る学生たちの不満が爆発し、「賄征伐(まかないせいばつ)」と呼ばれる騒動が起こります。羯南は直接の犯人ではありませんでしたが、友人である原敬(はら たかし)らが処分されることに義憤を感じ、校長に抗議。その結果、原敬、福本日南らと共に退校処分となりました。
この事件は、薩長藩閥に対する東北人の反感という側面もありましたが、権力や理不尽な圧力に屈しないという、後のジャーナリストとしての彼の精神を象徴する出来事でした。
官僚からジャーナリストへ:『日本』の創刊
退学後、帰郷して新聞記者となるも筆禍事件で罰金刑を受け、北海道の製糖工場に勤務するなど不遇の時期を過ごします。この時期に、絶家となっていた親戚の陸家を再興し、陸姓を名乗るようになりました。
再び上京した羯南は、フランス語の能力を買われて太政官文書局(後の内閣官報局)に勤務。官僚としての道を歩み始めますが、当時の政府が進める極端な欧化政策や条約改正交渉に疑問を抱き、明治21年(1888年)、安定した官職を辞して言論界への転身を決意します。
📌 新聞『日本』と「国民主義」
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布の日に、羯南は新聞『日本』を創刊し、社長兼主筆となりました。
- 不偏不党の精神: 創刊の辞で、彼は既存の新聞が持つ「党派性」と「営利性」を批判し、真に独立した新聞を目指すことを宣言しました。
- 国民主義(ナショナリズム): 彼は、政府の欧化主義に対し、日本の歴史や伝統を尊重しつつ、近代化を進める「国民主義」を提唱しました。これは、単なる排外主義ではなく、ナショナリズムとデモクラシーの統合を目指す、極めて理性的で建設的な思想でした。
『日本』には、三宅雪嶺(みやけ せつれい)、志賀重昂(しが しげたか)、長谷川如是閑(はせがわ にょぜかん)など、明治後期を代表する多くの思想家や言論人が集まり、近代ジャーナリズムの拠点となりました。
権力との闘いと、正岡子規の庇護
羯南の筆鋒は鋭く、政府の不正や腐敗を徹底的に追及しました。その激しい論調は、政府の怒りを買い、『日本』は創刊から廃刊までの間に、合計31回、230日にも及ぶ発行停止処分を受けました。しかし、羯南は決してひるむことなく、ペン一本で権力と闘い続けました。
📌 正岡子規との絆
羯南のもう一つの大きな功績は、俳人・歌人である正岡子規(まさおか しき)を庇護し、育てたことです。
友人である加藤恒忠の甥であった子規を、羯南は『日本』の社員として採用し、隣家に住まわせて生活の面倒を見ました。子規は『日本』紙上で俳句や短歌の革新運動を展開し、日本の文学史に大きな足跡を残すことになります。子規は羯南を「生涯の恩人」と慕い、その深い絆は、明治の文壇における美しいエピソードとして語り継がれています。
晩年と遺産
激務と度重なる発行停止処分による心労は、羯南の体を蝕みました。肺結核を発症し、明治39年(1906年)、新聞『日本』の経営権を譲渡。翌明治40年(1907年)、50歳という若さで鎌倉にて永眠しました。
陸羯南を深く知る「この一冊!」
正岡子規が「父」と慕った男がいた――。

筆一本で権力と闘いつづけた男 陸羯南 / 小野 耕資 (著)
単行本(ソフトカバー) – 2020/10/31

明治という激動の時代に、ペン一本で時の権力に対峙し続けた陸羯南の生涯と、その揺るぎない信念を描いた一冊。彼の「国民主義」の真髄や、正岡子規との心温まる交流、そして現代にも通じるジャーナリズムの精神を、鮮やかに蘇らせています。
📍陸羯南ゆかりの地:言論の魂を辿る旅
陸羯南の足跡は、彼の故郷である青森県弘前市から、言論の闘いの場であった東京、そして終焉の地である鎌倉へと繋がっています。
- 陸羯南生誕地(青森県弘前市在府町):生誕地を示す標識が建っている。
陸羯南生誕の地
安政4年(1857) 10月4日、弘前、在府町22番地に中田謙齋・なほの長子として生まれた。本名實。号羯南。明治12年、陸姓を名乗る。政論家。工藤他山思斉堂塾、東奥義塾、さらに官立宮城師範学校、司法省法学校に学んだ。 青森新聞社に勤めた後、太政官文書局に就職、明治21年内閣官報局編集課長の職で退官した。同時に新聞『東京電報』を創刊、さらに同新聞を明治22年に新聞『日本』と改題し創刊、主筆兼社主となる。欧化主義、条約改正交渉を強く批判、一貫して国民主義の立場に立ち、政府の専断、軟弱外交と戦い、徳義を強調する姿勢は、操守堅固な思想家として尊敬された。郷土の後輩の面倒をよくみ、正岡子規を生涯にわたって庇護した。明治言論界の巨星と言われる。『近時政論考』(明治24年)などのほか、『陸羯南全集』全10巻がある。 明治40年(1907) 9月2日、鎌倉市郊外でなくなった。49歳。
陸羯南生誕百五十年没後百年記念事業実行委員会 平成19年9月2日
- 弘前市立郷土文学館(青森県弘前市):羯南をはじめとする弘前の文学者たちの資料が展示されています。
- 陸羯南詩碑(大狼(おおかみ)神社・青森県弘前市大和沢):大狼神社山頂に陸羯南詩碑がある。詩碑には、『天下の賢』の詩が刻み込まれている。
名山出名士 此語久相伝 試問巌城下 誰人天下賢
- 子規庵(正岡子規旧宅)(東京都台東区根岸2-5-11):隣家に陸羯南の旧宅があった。
- 陸羯南墓所(染井霊園一種イ8号10側・東京都豊島区駒込5):彼の遺骨が眠る墓所です。
💬陸羯南の遺産:現代社会へのメッセージ
陸羯南の生涯は、私たちに「独立不羈(どくりつふき)の精神」と「批判的思考の重要性」を教えてくれます。彼は、世の中の空気や権力に流されることなく、自らの信じる正義と、国家・国民の利益を最優先に考え、発言し続けました。
彼の「国家は個人と離れて実存すべきにあらず」という言葉は、国家のために個人があるのではなく、個人の幸福のために国家があるべきだという、民主主義の根幹を突いています。
陸羯南の物語は、一人のジャーナリストが、そのペンと信念によって、社会の不正を正し、文化を育み、時代を動かすことができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、情報を鵜呑みにせず、自らの頭で考え、おかしいことには声を上げる勇気を持つことの大切さを、力強く語りかけているのです。
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