京都府/岡山県の偉人:熊沢蕃山 — 陽明学の実践で国を治めた「仁政の指導者」
「山川は天下の源であり、また山は川の本である」
江戸時代初期、備前岡山藩主・池田光政の股肱の臣として藩政の確立に尽力した陽明学者、熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、治水・治山を国家の興亡問題であると説きました。京都に浪人の子として生まれた彼は、中江藤樹から陽明学を学び、その実践の場を求めて光政に仕えます。蕃山の治国策は、農本主義に基づき、治水・治山による農業政策と、仁の徳に裏付けられた民政に及びました。その思想は、幕末に勝海舟や吉田松陰らによって再評価され、「儒服を着た英雄」として、後の明治維新の原動力となりました。
幼少期の流浪と、陽明学との出会い
熊沢蕃山は、1619年(元和5年)、京都稲荷(現在の京都市下京区)で、浪人であった父・野尻藤兵衛一利の長男として生まれました。幼名は左七郎。8歳の時、母方の祖父である熊沢守久の養子となり、熊沢姓を名乗ることになります。16歳で岡山藩主・池田光政の児小姓役として出仕しますが、参陣を願い出た島原の乱への参加が叶わず、一旦池田家を離れます。この官職を離れた時期に、彼の人生を決定づける出会いがありました。
📌 近江聖人・中江藤樹への入門
蕃山は、近江国小川村(現在の滋賀県高島市)に帰郷していた「近江聖人」こと陽明学者中江藤樹(なかえ とうじゅ)の門下に入ります。わずか8ヶ月ほどの短い期間でしたが、蕃山は藤樹から、「知行合一(ちこうごういつ)」(知識と実践は一体である)を核心とする陽明学の精神を徹底的に学びました。朱子学が幕府の官学であった時代に、実践を重んじる陽明学は「異端」と見なされていましたが、蕃山は、この実践の学こそが、乱れた世を正す道であると確信します。
岡山藩政の確立と「仁政」の実践
正保2年(1645年)、27歳で再び京極氏の口添えにより岡山藩に出仕した蕃山は、陽明学に傾倒していた光政に重用されます。正保4年(1647年)には側役、慶安3年(1650年)には鉄砲組番頭という藩の要職に累進し、知行3,000石の上士という地位を得ました。
📌 「仁の徳」による国づくり
蕃山は、藩主光政のブレーンとして、藩政初期の確立に大きく貢献しました。彼の施策の根底には、儒教の「仁の徳」に裏付けられた農本主義がありました。
- 治水・治山: 岡山城下は旭川の氾濫に悩まされていましたが、蕃山は「治水・治林・治山は国家の興亡問題である」と説き、大規模な土木事業に着手。新田開発には消極的でしたが、既存の農地を守るための堤防や溜め池の整備に尽力し、後の人工河川「百間川(ひゃっけんがわ)」の基礎を築きました。
- 飢饉対策: 承応3年(1654年)の洪水と大飢饉の際、光政を補佐して藩庫の米を放出し、領民救済に尽力。この迅速な対応が、蕃山の名声をさらに高めました。
- 教育の振興: 後の岡山藩藩学の前身となる「花園会」を起草。領民への儒教の普及にも努めました。
蕃山は、藩政の現場で、知識や理論を現実の政治にどう活かすかという、陽明学の精神を徹底して実践しました。
📌 守旧派との対立と隠棲
蕃山の大胆な改革は、藩内の守旧派の家老たちとの対立を生みました。また、幕府の官学である朱子学を奉じる林羅山らの批判を受け、幕府からも監視されるようになります。
この圧力に耐えかね、蕃山は1657年(明暦3年)、39歳で岡山城下を離れ、知行地の和気郡寺口村(現在の岡山県備前市蕃山)に隠棲。この地を「蕃山村(しげやまむら)」と改め、自らも「蕃山」と号しました。
流浪の生涯と、幕府の弾圧
蕃山は、岡山を去った後も、その名声ゆえに各地から招聘を受けました。京都で私塾を開き、大和国吉野山、山城国鹿背山へと居を転々とします。しかし、彼の思想は幕府の政策を批判するものであったため、常に幕府に監視され、その生涯は流浪の連続でした。
- 幕政批判: 幕府の政策、特に参勤交代や兵農分離を痛烈に批判。その著作『大学或問(だいがくわくもん)』は幕府から危険視されました。
- 古河城での蟄居: 貞享4年(1687年)、69歳の高齢で、幕府の命により下総国古河城(現在の茨城県古河市)に蟄居(ちっきょ)を命じられます。
しかし、蟄居中の古河藩でも、蕃山の治山治水の技術は頼りにされ、藩士たちを指導。1691年(元禄4年)、73歳で古河城にて客死しました。
熊沢蕃山ゆかりの地:陽明学の足跡を辿る旅
熊沢蕃山の足跡は、彼の生まれ故郷である京都から、学問の地である滋賀、藩政を主導した岡山、そして最期の地である茨城へと、広範囲にわたっています。
- 熊沢蕃山先生勉学処の碑(滋賀県近江八幡市中小森町):若き蕃山が学んだ地。この頃、中江藤樹の門下生となる。
- 熊沢蕃山宅跡(岡山県備前市蕃山1305):蕃山が隠棲し、その名の由来となった場所です。現在、岡山城下にあった彼の屋敷跡も岡山市北区蕃山町として地名に残っています。
- 蕃山熊沢先生の碑(岡山市北区蕃山町6):岡山藩藩学跡に設置されている。
- 熊沢蕃山墓所(茨城県古河市大堤1030-1・ 鮭延寺):幕命により蟄居謹慎を命じられた古河城下にある蕃山の墓所です。
- 蕃山先生立志碑・旧蕃山文庫(滋賀県大津市・旧志賀町):娘の嫁ぎ先の地と伝わり、蕃山が訪ねていたとされている。
- 太山寺・息遊軒遺跡(兵庫県神戸市西区伊川谷町前開224):幕府の命により播磨国明石藩主に預けられていた時期に幽閉された寺です。
- 熊沢蕃山顕彰碑(大分県竹田市竹田・岡城跡):岡藩主・中川久清公によって招かれ、岡藩において治山治水の指導をしています。岡藩学校の底流をなす考えの基礎も築いた。
熊沢蕃山の遺産:現代社会へのメッセージ
熊沢蕃山の生涯は、私たちに「実践なき学問は無意味である」という、陽明学の精神を教えてくれます。彼は、机上の理論を現実の政治に活かし、治水・治山という国土経営の根幹に、人道的な視点を取り入れました。彼の農本主義的な思想と、自然環境を保護する「天人合一」の哲学は、現代の環境問題や持続可能な開発(SDGs)といったテーマに、極めて重要な示唆を与えています。熊沢蕃山の物語は、一人の思想家が、その信念と勇気によって、権力の圧力に屈せず、国と民の未来のために行動し続けることができることを証明しています。彼の精神は、幕末の志士たちに受け継がれたように、現代に生きる私たちにも、「知行合一」の精神と、良心に従う勇気を持つことの大切さを、力強く語りかけているのです。
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先哲が説く指導者の条件 『水雲問答』『熊沢蕃山語録』に学ぶ / 安岡正篤 (著)
文庫 – 2005/10/3

人の上に立つ者が心得ておくべきこととは何か? 今の言葉で言えば、「リーダーシップとは何か? 」 と言うことになるのだろう。しかし「リーダーの条件」は、経済環境や組織の大小などで異なるため、どこにも共通するような決定打はなかなか見出せないでいるようだ。その証拠に、ビジネス誌では、戦国武将・明治の元勲・中国古典の英雄などに、その回答を求める企画をよく立てる。
本書では、肥前平戸藩藩主・松浦静山が纏めた文献集『甲子夜話』に収められている、上州安中の藩主・板倉勝尚と幕府大学頭・林述斎とのあいだで書簡によって、学問や政治に関して問答をした『水雲問答』と、備前藩の改革に実績をあげた熊沢蕃山の語録集『集義和書』を解説しながら、指導者の心得を説いた、実践的なリーダー論である。
時代は変ろうとも、人間の本質が変らなければ、その人間の集合体である組織を有機的に動かす要諦も変らぬはず。鋭い洞察による安岡版リーダー論。