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石川県の偉人:三宅雪嶺 — 「国粋保存」を説き、ナショナリズムとデモクラシーの統合を目指した哲人

「自国のために力を尽すは、世界のために力を尽すなり」

この言葉は、明治・大正・昭和の三代にわたり、言論界の巨峰として聳え立った三宅雪嶺(みやけ せつれい)の思想を象徴しています。

加賀国金沢(現在の石川県金沢市)に生まれた彼は、西洋哲学と東洋哲学を融合させた独自の哲学を構築し、政府の極端な欧化政策に対抗して「国粋主義」を提唱しました。

しかし、彼の言う「国粋」とは、単なる排外主義や復古主義ではありませんでした。それは、日本の固有の価値を再発見し、それを世界普遍の文明に貢献させるという、極めて開明的でグローバルな視点に基づいたものでした。

幼少期の聡明さと、哲学への道

三宅雪嶺(本名:雄二郎)は、1860年(万延元年)、加賀藩家老本多家の儒医・三宅恒の三男として金沢に生まれました。幼少期から漢籍を学び、その才能は早くから開花しました。

明治維新後、近代教育の波に乗って愛知英語学校、東京開成学校を経て、1879年(明治12年)に東京大学文学部哲学科に入学します。彼は同哲学科の最初の学生であり、西洋哲学の黎明期を担うエリートとして期待されました。同期には坪内逍遥や北里柴三郎らがいました。

📌 官吏からの転身と「政教社」の設立

大学卒業後、文部省に勤務し『日本仏教史』の編纂などに携わりますが、薩長藩閥政府の専制的なやり方や、官吏としての拘束された生活に馴染めず、1887年(明治20年)に退官。在野の言論人としての道を歩み始めます。

当時、日本は鹿鳴館に象徴される極端な欧化政策の只中にありました。雪嶺は、西洋の模倣に終始する政府の姿勢を危惧し、1888年(明治21年)、志賀重昂、杉浦重剛らと共に「政教社(せいきょうしゃ)」を設立。機関誌『日本人』を創刊し、国粋主義の旗手として論陣を張りました。

「真善美日本人」と独自の国粋主義

雪嶺の思想の核心は、1891年(明治24年)に発表された『真善美日本人』と『偽悪醜日本人』という二つの著書に集約されています。

📌 世界に貢献するための「日本」

  • 『真善美日本人』: 彼は、日本人が固有の特質(真・善・美)を発揮することこそが、世界の文明に貢献する道であると説きました。「護国と博愛は矛盾しない」という彼の主張は、ナショナリズムと国際協調の調和を目指すものでした。
  • 『偽悪醜日本人』: 一方で、西洋の表面的な模倣に汲々とし、自国の文化を卑下する風潮を「偽・悪・醜」として厳しく批判しました。

彼の国粋主義は、決して「日本が一番偉い」という狭量なものではなく、「世界の中での日本の役割」を問い続ける哲学的な営みでした。この思想は、夏目漱石や西田幾多郎など、当時の多くの知識人に深い影響を与えました。

言論界の巨峰:ジャーナリズムと哲学の統合

雪嶺は、『日本人』(後に『日本及日本人』と改題)の主筆として、政治、社会、文化のあらゆる分野にわたって健筆を振るいました。その鋭い批判精神は、時の権力者たちからも恐れられ、同時に一目置かれる存在でした。

📌 哲人としての思索

ジャーナリストとしての活動と並行して、彼は哲学者としての思索も深めました。主著『宇宙』や『同時代史』(未完の大作)では、博覧強記な知識を駆使し、宇宙の生成から人類の歴史、そして同時代の社会現象までを包括的に論じようとしました。

彼の哲学は、西洋の論理的思考と東洋の直感的叡智を融合させようとする壮大な試みであり、そのスケールの大きさから「哲人」と称されました。

家族と晩年

私生活では、1892年(明治25年)に元老院議官の娘で小説家の田辺花圃(かほ)と結婚しました。花圃は、日本人女性による初の近代小説とされる『藪の鶯』を書き、日本女性作家第一号ともいわれています。樋口一葉のライバルとも目されていました。中島歌子の歌塾で同門であった花圃の作家としての成功が樋口を刺激し、小説を書いて生計を得ることを思いつかせたと言われています。

雪嶺と花圃の二人は互いに尊敬し合うパートナーとして生涯を共にしました。

昭和に入っても、個人雑誌『我観』を創刊するなど、その言論活動は衰えを知りませんでした。1943年(昭和18年)には文化勲章を受章。しかし、戦時下の言論統制や、娘婿である政治家・中野正剛の自決など、晩年は苦難も続きました。

1945年(昭和20年)、終戦を見届けた数ヶ月後の11月26日、85歳でその生涯を閉じました。

Information

三宅雪嶺を深く知る「この一冊!」

「明治維新後」の思想を代表する哲学者、歴史家、ジャーナリスト

本のご紹介

三宅雪嶺 異例の哲学 / 鷲田 小彌太 (著)

単行本(ソフトカバー) – 2021/4/30

明治維新から敗戦までを生きた雪嶺の思想体系を、現代的な視点から読み解く一冊。彼の「国粋保存」が決して保守反動ではなく、開明的な知識に基づいた広大な体系であったことを明らかにします。また、満州事変以降の彼の言動についても鋭く分析しています。

📍三宅雪嶺ゆかりの地:哲人の足跡を辿る旅

三宅雪嶺の足跡は、彼の故郷である石川県金沢市から、言論活動の拠点であった東京へと広がっています。

  • 三宅雪嶺生家跡(石川県金沢市新竪町3-22):雪嶺が生まれた場所であり、現在は記念碑が建つ小公園となっています。旧新竪町小学校裏門の生家跡には記念碑が建つ。ペンネームの「雪嶺」を故郷の白山からとるほど、金沢が大好きだった。
  • 金沢市立ふるさと偉人館・三宅雪嶺展示コーナー(石川県金沢市下本多町6-18-4):平成5(1993)年に高峰譲吉・三宅雪嶺・木村栄・藤岡作太郎・鈴木大拙の5人の偉人を展示し、開館しました。その後、金沢ゆかりの「近代日本を支えた偉人たち」として、さまざまな分野で国際的国家的業績をあげた人びとを加え、現在では多くの偉人を常設展示でご紹介しています。
  • 厳霜碑・金沢泉丘高等学校(石川県金沢市泉野出町3-10-10):明治41年、日露戦争で亡くなった一中卒業生の慰霊碑として建てられました。現在は全物故同窓会員の慰霊の碑となっています。碑文は三宅雪嶺によるものです。
  • 三宅雪嶺記念資料館(茨城県龍ケ崎市120・流通経済大学内):記念館の収蔵品は、雪嶺の旧蔵書、愛用品・愛蔵品、コレクションの大きく3つに分けられる。このうち旧蔵書は、辞書・事典や各種編纂書、歴史・哲学・社会学その他の専門書だけでなく、その旺盛な好奇心を反映して、古地図や古書籍、写真帖、落語や講談の全集など実に多様な書籍が含まれている。コレクションは雪嶺の収集癖を示し、蔵書と同様に様々な事物がその対象となっている。
  • 旧三宅雪嶺邸(三宅文庫)(東京都渋谷区初台):東京都の有形文化財に指定された建物。明治から昭和にかけて活躍した哲学者三宅雪嶺が生前に自身の蔵書を一般公開するために建てた住居兼文庫。昭和5年に完成したこの小図書館は、当時においては珍しかったコンクリート造りの建物で、建築家・今井兼次による設計。階段や丸窓が付けられ、欧米のモダン建築の影響がうかがえる。現在は子孫が住んでおり一般公開はされていないが、外観から当時の雰囲気を味わうことができる。
  • 三宅雪嶺墓所(東京都港区2-32-2・青山霊園1種ロ8-17):墓は「三宅家之墓」とだけあり、墓碑に雪嶺と花圃(龍子)の書が彫られた石碑がある。昭和3年(1928年)に事故で亡くなった長男・勤(東京市技師)のために建立したお墓である旨が記載されている。

💬三宅雪嶺の遺産:現代社会へのメッセージ

三宅雪嶺の生涯は、私たちに「自己の確立と他者への敬意」の重要性を教えてくれます。彼は、グローバル化の波に飲み込まれることなく、自国の文化に誇りを持ちつつ、他国の文化も尊重する姿勢を貫きました。

彼の「不安は心からである。心の真底に安んじて居る処あれば不安は不安であっても慰藉と伴って居る」という言葉は、現代の不確実な時代を生きる私たちに、内面的な強さと平安を持つことの大切さを説いています。

三宅雪嶺の物語は、一人の哲学者が、その深い知性と広い視野によって、国家の進路を問い続け、日本人の精神的自立を促した壮大な知的冒険です。彼の精神は、現代に生きる私たちに、流行に流されず、自分の頭で考え、世界と対話する勇気を与えてくれています。

©【歴史キング】

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