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福島県の偉人:野口英世 — 借金と放蕩を繰り返した「天才」が、黄熱病に散るまで

郷土博士

福島県

「志を得ざれば再び此地を踏まず」

この言葉は、貧しい農家に生まれ、左手に負った大火傷のハンディキャップを乗り越え、細菌学者として世界にその名を轟かせた野口英世(のぐち ひでよ)が、上京する際に故郷の柱に刻んだ決意の言葉です。福島県猪苗代町に生まれた彼は、北里柴三郎やシモン・フレクスナーに師事し、梅毒や黄熱病の研究に生涯を捧げました。その功績は、ノーベル賞候補に3度も名前が挙がるほどでしたが、黄熱病撲滅の研究中に自身も感染し、アフリカの地で命を落とすという悲劇的な最期を迎えます。

幼少期の苦難と「天才」の芽生え

野口英世、幼名・清作は、1876年(明治9年)、福島県耶麻郡三ッ和村(現在の猪苗代町)の貧しい農家に生まれました。父・佐代助は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけていました。しかし、母・シカは、農作業の傍ら産婆を営みながら、清作を深い愛情で育てました。彼の人生は、1歳の時に囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負ったことで一変します。指が癒着して棒のようになったため、清作は「清ボッコ」といじめられ、農作業も難しくなりました。しかし、このハンディキャップが、彼を学問の道へと駆り立てました。母に「学問で身を立てよ」と諭された清作は、小学校で猛勉強に励み、優秀な成績を収めました。16歳の時、高等小学校の教頭であった小林栄(こばやし さかえ)の計らいで、左手の癒着を切り離す手術を受けることができました。この手術の成功に感動した清作は、「医学の素晴らしさを知り、医師になることを決意した」と後に語っています。

医術開業試験と「血脇守之助」との出会い

高等小学校を卒業後、清作は、手術をしてくれた医師・渡部鼎(わたなべ かなえ)の会陽医院に書生として住み込み、医学の基礎を学びました。ここで彼は、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」という言葉を口癖に、睡眠時間を削って勉学に励みました。19歳になった1896年(明治29年)、清作は、小林栄から借りた大金40円を手に上京し、医術開業試験予備校の済生学舎に入学。しかし、放蕩(ほうとう)生活で資金を使い果たし、下宿を追い出されてしまいます。その時、彼を救ったのが、渡部鼎の友人であった歯科医・血脇守之助(ちわき もりのすけ)でした。血脇は、野口の才能を信じ、高山高等歯科医学院の書生として彼を雇い、住み込みで医学を学ばせました。そして、翌年には血脇の計らいで左手の再手術を受け、打診が可能となり、見事医術開業試験に合格。20歳の若さで医師免許を取得しました。しかし、彼は臨床医の道を断念します。左手の傷跡を患者に見られたくないという理由から、基礎医学の研究者となることを決心したのです。

渡米と「ロックフェラー医学研究所」での活躍

医師免許を取得した英世は、伝染病研究所で、所長である北里柴三郎のもとで働き始めます。この頃、坪内逍遥の小説『当世書生気質』の主人公・野々口精作が自堕落な医学生であったことから、そのモデルであると邪推されることを恐れ、名を「清作」から「英世」へと改名しました。1900年(明治33年)、23歳の英世は、ペンシルベニア大学のフレクスナー博士を頼って渡米します。最初は蛇毒の研究という危険な仕事を与えられましたが、その研究成果が認められ、1904年(明治37年)には、フレクスナーが所長を務めるロックフェラー医学研究所に移籍しました。ロックフェラー医学研究所での英世の研究ぶりはすさまじく、同僚から「ヒューマンダイナモ」(人間発電機)と呼ばれるほどでした。彼は、梅毒、小児麻痺、狂犬病といった、当時の医学界が解明できていなかった病原体と格闘。特に、梅毒スピロヘータが進行性麻痺・脊髄癆患者の脳にいることを証明し、この病気と梅毒との関連を明らかにしたことは、彼の最大の功績とされています。この功績により、英世はノーベル賞の候補に3度も名前が挙がるほどの世界的名声を得ました。

帰国と黄熱病との闘い

1915年(大正4年)、英世は、15年ぶりに日本に一時帰国します。その目的は、年老いた母・シカとの再会でした。故郷では大勢の人々に熱狂的に迎えられ、恩師や友人たちに恩返しをしました。この時、彼は母、小林栄夫妻と共に講演旅行をするなど、孝行を果たしました。しかし、彼の探求心は、日本に留まることを許しませんでした。 1918年(大正7年)、ロックフェラー財団の意向を受けて、中南米で猛威を振るっていた「黄熱病」の病原体発見のため、エクアドルへ派遣されます。昼夜にわたる研究の末、病原体を特定したとし、野口ワクチンを開発。一躍世界的な英雄となります。しかし、この野口ワクチンがアフリカの黄熱病には効果がないという報告を受け、英世は、自らの説の正当性を証明するため、1927年(昭和2年)、周囲の反対を押し切ってアフリカへと渡ります。そして1928年(昭和3年)5月21日、黄熱病との闘いの最中に、野口自身も黄熱病に感染。ガーナの地で、「どうも私には分からない」という言葉を最後に、51歳という短い生涯を終えました。

野口英世ゆかりの地:世界を翔けた足跡を辿る旅

野口英世の足跡は、彼の故郷である福島県から、医学を学んだ東京、そして研究の拠点となったアメリカ、中南米、アフリカへと繋がっています。

  • 野口英世記念館(野口英世生家)(福島県耶麻郡猪苗代町大字三ツ和字前田81):英世が火傷を負った生家が保存・公開されています。
  • 長照寺(福島県耶麻郡猪苗代町大字三ツ和字三城潟982):野口家の菩提寺で、母・シカ、父・佐代助が埋葬されている。また、野口夫妻の遺髪塚もある。
  • 八幡神社(福島県耶麻郡猪苗代町三ツ和家北657)1915年 (大正4)、帰国の報告を、この神社で行い、記念として境内に赤松を献木。また、1917年(大正6)に博士がチフスで危篤になったとき、村人や母シカがここに集まり、病気の回復を祈ったところです。近くには1921年(大正10)に書いた耕地整理記念碑や、1951年 (昭和25)創建の、「野口英世神社」があります。
  • 松亭小林栄ふるさと記念館(福島県耶麻郡猪苗代町字古城町92):小林栄先生は博士が学んでいた三ツ和小学校に卒業試験官で来たとき、才能を惜しんで高等小学校への進学を勧めるとともに、生涯にわたり支えました。
  • 野口英世青春館・会津壹番館(福島県会津若松市中町4-18):彼が左手の手術を受けた会陽医院の跡地で、彼の青春時代を伝える資料館です。
  • 野口英世青春広場(福島県会津若松市中町1-23):野口英世像が建つ。
  • 栄町教会(福島県会津若松市西栄町8-36):英世は18歳の時にここで洗礼を受けました。
  • 野口英世青春通り(福島県会津若松市):彼が青春時代を過ごした街の通りです。
  • ウッドローン墓地(アメリカ・ニューヨーク市ブロンクス区):野口英世墓所。入口から見える右から2番目の廟の右側、ホワイトウッド (Whitewood) という区画にある。墓碑銘には 

Hideyo Noguchi

Born in Inawashiro Japan November 24 1876

Died on the Gold Coast Africa May 21 1928

Member of the

Rockefeller Institute for Medical Research

Through Devotion to Science

He Lived and Died for Humanity

と刻まれている。

  • ガーナ大学野口記念医学研究所(ガーナ共和国アクラ、ガーナ大学内):彼の志を継ぎ、日本の援助で設立された医学研究所です。

野口英世の遺産:現代社会へのメッセージ

野口英世の生涯は、私たちに「不屈の精神と挑戦」の重要性を教えてくれます。彼は、貧しさや身体のハンディキャップを、学問の力で乗り越え、世界的な偉業を成し遂げました。彼の「努力だ、勉強だ、それが天才だ」という言葉は、私たちに、才能や環境に恵まれなくても、不断の努力を重ねれば、夢を実現できるという、力強いメッセージを投げかけています。しかし、彼の人生は、美談ばかりではありませんでした。多額の借金や放蕩癖、そして学歴詐称といった人間的な弱さも持ち合わせていました。彼の人生は、完璧な人間ではなくても、一つのことに情熱を燃やし、人類のために尽くすことで、偉大な功績を残せることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、挑戦する勇気と、人としての弱さを受け入れながらも、前を向いて生きることの大切さを、力強く語りかけているのです。

(C)【歴史キング】

Information

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本のご紹介

野口英世 (新装版) (講談社火の鳥伝記文庫 5)  / 滑川 道夫 (著), 藤原 徹司 (著)

新書 – 2017/10/19

👤子供さんへのプレゼントにも最適!

野口英世は世界的な細菌学者です。1876年、福島県のまずしい農家に生まれました。幼いころのやけどで左手が不自由になり 、同級生にからかわれてばかり。 しかし、お母さんのはげましや周囲の大人たちの支援で医学を志します。 そして細菌学の研究者として、日本人ではじめてアメリカ・ロックフェラー研究所の正規メンバーとなり、 黄熱病の病原体を解明するため に、南米やアフリカに命がけの調査に乗り出します。

野口英世は世界的な細菌学者です。1876年、福島県のまずしい農家に生まれました。小さなころのやけどが原因で左 手が不自由になり 、同級生にからかわれてばかりでした。 学校をやめて家計のために働こうかと思っていたところ 、お母さんのはげましで、 勉強でその人生を変えることを決意するのです。
英世は医学を志しました。彼を支えてくれた周囲の大人たち、先生たち、そして もちまえの努力で、さまざまな方法で勉強し、チャンスを逃さず、やがてはアメリカの大学で助手を務めるまでになります。
そして細菌学の研究者として、日本人ではじめてアメリカ・ロックフェラー研究所の正規メンバーとなり、世界最先端の研究を行いました。 そして、多くの命をうばっていた黄熱病の病原体を解明するため 病気がまんえんする南米やアフリカに命がけの調査に乗り出していったのです。

*巻末に人物伝つき
*小学上級から
*すべての漢字にふりがなつき

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