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群馬県の偉人:小栗忠順 — 「明治の父」と呼ばれた幕臣、日本近代化の礎を築いた悲劇の先覚者

郷土博士

群馬県

「幕府の運命が尽きたとしても、日本の運命には限りがない

この言葉は、江戸幕府の幕臣でありながら、明治新政府の近代化政策のほとんどを立案・実行した小栗忠順(おぐり ただまさ)が、横須賀製鉄所の建設に反対する幕閣に投げつけたものです。江戸駿河台に生まれた彼は、遣米使節として世界を巡り、西洋の先進技術と経済システムに驚愕。帰国後は勘定奉行、軍艦奉行などの要職を歴任し、横須賀製鉄所の建設や洋式軍隊の整備など、日本の近代化に不可欠な遺産を築きました。しかし、戊辰戦争で徹底抗戦を主張したため「逆賊」の汚名を着せられ、隠棲地である上野国(現在の群馬県高崎市)で無実の罪により処刑されるという悲劇的な最期を迎えます。

幼少期の苦学と、西洋への目覚め

小栗忠順は、1827年(文政10年)、禄高2,500石の旗本・小栗忠高の長男として、江戸駿河台の屋敷に生まれました。幼名は剛太郎。幼少期は暗愚な悪童と思われていましたが、成長するにつれて文武の才能を開花させます。8歳で安積艮斎(あさか ごんさい)の私塾「見山楼」に入門し、栗本鋤雲(くりもと じょううん)と知り合います。武術では、直心影流剣術の免許皆伝を得る一方、山鹿流兵学や砲術を修めるなど、文武両道に励みました。10代の頃には、既に開国論者の思想に触れ、日本の海防の遅れに危機感を抱くようになります。

📌 遣米使節としての渡航と「ネジ」の衝撃

嘉永6年(1853年)のペリー来航後、小栗は異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられ、海防・外交の最前線に立ちます。そして安政7年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節目付(監察)として軍艦ポーハタン号で渡米します。

  • 通貨交渉での粘り: 渡米の隠れた目的であった通貨交換比率の交渉では、アメリカ政府を相手に約半月にわたって粘り強い交渉を展開。日本の貨幣価値が不当に引き下げられている現状を説明し、「タフ・ネゴシエイター」としてアメリカの新聞にも絶賛されました。
  • 製鉄技術への驚愕: ワシントン海軍工廠を見学した際、小栗は日本の製鉄技術との圧倒的な差に驚愕。記念としてネジを日本へ持ち帰り、日本の工業化を決意する原点となりました。

小栗は、この渡米と世界一周の旅を通じて、西洋列強の力を肌で感じ、日本の近代化には、座して待つのではなく、自ら進んで海外に出て、通商貿易と技術革新をなすことが不可欠であると確信しました。

横須賀製鉄所の建設と「明治の父」

帰国後、外国奉行に就任した小栗は、勘定奉行、軍艦奉行などを歴任し、日本の近代化に向けた施策を次々と実行しました。

📌 近代日本の心臓部を創る

小栗が最も心血を注いだのは、日本の近代工業の基盤となる巨大プロジェクトの実現でした。

  1. 横須賀製鉄所の建設: 駐日フランス公使レオン・ロッシュと連携し、慶応元年(1865年)、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設に着手しました。莫大な費用と幕府内部の強い反対を受けましたが、「幕府の運命が尽きても、日本の運命には限りがない」と主張し、建設を強行。製鉄、造船、兵器廠を備えた東洋一の大工場は、後に明治政府の海軍建設の母胎となりました。
  1. 近代経営と人材育成: 製鉄所の首長にはフランス人技師レオンス・ヴェルニーを任命。職務分掌、月給制、社内教育といった近代的な経営システムを日本に導入しました。また、フランス語学校を設立し、日本の海軍と工業を担う人材の育成にも尽力しました。
  1. 軍制改革: 幕府陸軍をフランス軍事顧問団に指導させ、大砲や小銃といった兵器の国産化を推進。日本の軍事力を強化しました。

小栗のこれらの功績は、後に大隈重信に「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と言わしめ、歴史家司馬遼太郎にも「明治国家の父の一人」と評価される所以となりました。

悲劇的な最期と「偉人、罪なくしてここに斬らる」

大政奉還後、戊辰戦争が始まると、小栗は徹底抗戦を主張。榎本武揚(えのもと たけあき)の海軍と連携し、官軍を挟撃する戦略を提案しました。この策は、後に大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と畏れるほどのものでしたが、将軍徳川慶喜(よしのぶ)は恭順の姿勢を崩さず、小栗の作戦は却下されました。小栗は全ての役職を罷免され、慶応4年(1868年)、領地であった上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)の東善寺に引きこもります。彼はここで、水路を整備したり、学問塾の教師を務めたりと、静かな生活を送っていました。しかし、「小栗は強力な兵力を持ち叛逆の企図あり」という虚言が広がり、新政府軍の追討令が下されます。小栗は武装解除に応じ、養子を証人として差し出しますが、捕縛され、取り調べもされぬまま、烏川の河原で斬首されました。41歳の非業の死でした。

📌 東郷平八郎からの弔意

処刑後、小栗は「逆賊」の汚名を着せられましたが、彼の真価は後に正当に評価されました。

  • 東郷平八郎の感謝: 日露戦争の英雄東郷平八郎は、日本海海戦の勝利後、小栗の遺族を捜し出し、「日本海海戦に勝利できたのは、小栗さんが横須賀造船所をつくってくれたおかげです」と礼を述べました。
  • 処刑地の石碑: 彼の終焉の地である烏川畔の処刑地には、「偉人小栗上野介、罪なくして此処に斬らる」と銘した石碑が建ち、彼の無念と功績を今に伝えています。

小栗忠順ゆかりの地:近代日本の胎動を辿る旅

小栗忠順の足跡は、彼の故郷である江戸から、横須賀製鉄所建設の地、そして最期の地である群馬県高崎市へと繋がっています。

  • 東善寺(群馬県高崎市倉渕町権田169):小栗が隠棲した寺であり、彼の遺体(胴体)が村人によって埋葬された墓所があります。
  • 小栗上野介顕彰慰霊碑(群馬県高崎市倉渕町水沼):彼が処刑された烏川畔の河原に建つ顕彰碑です。
  • 小高用水(群馬県高崎市倉渕町権田):小栗がフランス式測量技術で整備した用水路で、現在も利用されています。
  • 小栗上野介屋敷跡(生誕の地)(東京都千代田区神田駿河台1-8)
  • 小栗上野介胸像(横須賀市ヴェルニー公園内・神奈川県横須賀市汐入町1-1)
  • 横須賀製鉄所跡(神奈川県横須賀市):小栗が建設を推進した日本の近代工業の礎です。戦後は在日米軍の基地となっているが、幕末に造られたドックが残っており、造船は行っていないものの艦船の修理に使用されている。
  • 小栗一族墓所(大成山普門院・埼玉県さいたま市大宮区大成町2-402)

小栗忠順の遺産:現代社会へのメッセージ

小栗忠順の生涯は、私たちに「未来への責任と不屈の実行力」を教えてくれます。彼は、幕府の終焉を見据えながらも、「日本の運命」のために、横須賀製鉄所という100年先を見越した巨大な投資を決行しました。彼の「真の武士になりたかった」という言葉に込められた、損得を抜きに国と民のために行動する精神は、現代のリーダーたちに求められる最も重要な資質です。小栗忠順の物語は、一人の人間が、その先見性と実行力によって、時代の壁を超え、日本の未来を創造することができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、自己の役割に真摯に向き合い、困難な課題にも勇気をもって立ち向かうことの大切さを、力強く語りかけているのです。

(C)【歴史キング】

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ペーパーバック – 2025/6/11

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